重大な見落とし
奥へ進むと、書庫の大きな鉄製の扉が現れた。脇にはガタイのいい警備員が一人立っている。そこではパスカードの提示と扉に翳すだけで通ることが出来た。そこからが閲覧タイムの開始なのか、警備員がピッと時間を計り始めた。
意外にもここまでスムーズに関門を突破してきているのだが、問題はここからだ。いかにも重そうな扉がゆっくりと開くと、その向こうには緋彩の身長の何倍もある高さの本棚がいくつも立ち並んでいた。一般開放しているメインの書庫とは違って、ここはまさに本の為の空間。くつろいで読むスペースなど当然ないし、何なら通路も人が歩くためには作られていないようにも思う。ここに収められているのは閲覧禁止文献だけであるはずなのに、この膨大な量はどういうことだ。世の中にはそんなに隠さなければならないことがあるのか。
ともかくこの密集した本の中から不老不死に関する文献を探さなければならない。一体どこをどう探せばいいのかと、早くも途方に暮れそうで天を仰ぐと、申し訳程度にジャンル分けの見出しが本棚の所々に差してある。右も左も上も下も、そんなに細かく分けられているわけではなさそうだが、これがあるだけで大分違う。
緋彩は足を進めながら一つ一つ見出しを確認していった。
「ええっと…………えーっと……えーと………?」
はた、と気が付いた。
字が読めない。
「おおう…」
どこを見ても記号にしか見えない字の羅列。
そりゃそうだ。ここは地球ではない。緋彩がこれまでに習ってきた文字が使われているわけがないのだ。
何故今の今までそんな重大なことに気が付かなかったのだろう。ノアの横で彼が目にしている本を見ていても何て書いてあるんだろうなんてぼんやり思っていたのに。これでは見出しを見てもどこを探していいか分からないし、あるかどうか分からない第六感を働かせて、手に取った本がたまたま不老不死の情報が書いてあるものだったとかいうミラクルをかましても、その中身が読めない。覚えるどころの話ではないのだ。
「ど、どうしよう……」
とりあえず宛もなく書庫の中を歩き回る。探している振り、だ。だがあまりにウロウロすると、所々にいる書庫内を見張っている警備員に怪しまれる。
本の表紙を見ても読める字などない。それっぽい本はどこだろう。ノアはどんな本を手に取っていただろう。雰囲気だけで探し当てようとするには些か無謀すぎる。
「あ」
悶々と考えていると、視界に入ってきた一つの見出しが目に留まった。勿論、その字は読めないのだけれど、確か同じような形の字が、ノアが見ていた本のタイトルにも紛れ込んでいた気がする。その字の意味など分からないが、もしかして”魔法”とか”不老不死”とか、そんな単語なのではないのだろうか。少なくとも全くの無関係ではないはずだ。
緋彩はその周辺から同じ文字がある本を探し始めた。
右から順番に流れるように目線を滑らす。一つ一つ丁寧に見ている時間はない。それこそ直感で目ぼしい物を手に取ってパラパラと捲っていく。いや、でも読めない。背表紙とは違って、本の中身は文字でいっぱいだ。その中から見慣れぬ文字を探すなんて至難の業だった。
何を基準に可否を決定していいのか分からなかったが、あれでもないこれでもないと、ピンとくるものがなくて、緋彩はそろそろ集中力がなくなってきていた。覚えのある文字ももうどんなだったかよく思い出せない。
時々挿絵に載っている肉や野菜を見て、お腹も空いてきてしまった。腹の虫もそわそわと浮足立っていた。こんな静寂の空間では人の呼吸さえ雑音になるほどだ。腹の音など立てたら、反り立っている本棚が倒れてくるのではないだろうか。
「────もし、」
「ひゃああああっ!!」
「っ!」
腹の虫に言うことをきかせようと腹筋に力を入れていると、突然肩をポン、と叩かれた。余計なところに残り少ない集中力を注いでいたのが悪かったのか、人が近づいてくる気配にも気付かず、緋彩は触れられた肩と低い声に飛び上がって驚いてしまった。
振り返れば、入口の所にいた警備員が伸ばした手を固まらせて仰け反っていた。驚いた緋彩に驚いたのだ。
「…あ、……す、すみませ…」
「ああいえ、こちらこそ。…そろそろ時間ですので。あと三分です」
「あ、はい…。わざわざどうも…」
跳ね上がった心拍数が元に戻らないうちに、警備員は用件だけを伝えて元の配置に戻っていった。何というか、ここの警備員たちは喋れば普通の人たちなのだが、見た目がどうも機械的なサイボーグみたいで無機質な恐怖を感じる。この空間で図書館スタッフとしての振舞い方も分からないので余計気を遣う。
緋彩は煩い鼓動をどうにか深呼吸で押し止めて、急いで本探しを再開させる。もう中身を確認している暇はない。どうにか直感に働きかけるものを見つけなければ。
「────…あ、」
血走った目で睨むように視線を流していると、一つの薄めの本に目が留まる。
それは背伸びどころでは届かない、天井近くにある臙脂色の本だ。似たような本は他にもあったし、簡単に届かないそれを選ぶ必要もなかったのだが、緋彩は考えるよりも早く脚立を探してその本が挟まっている棚の前に立てかけていた。脚立もすぐには見つからなかったし、本当にもう時間がない。あと一分、それくらいあったらいい方だ。
迷っている暇もなく、緋彩は脚立に登っててっぺんで跨り、その臙脂色の本に手を伸ばすと指を掛けて引き出し、表紙を捲って両手に広げた。
中は時間の経過を思わせるシミが出来た、古びたページが数えるほどの枚数括ってあった。
挿絵もなければ色もない、ただただ緋彩には知らない文字が並んでる古い本だ。
ただ、その脆さが酷く綺麗にも思えたのだ。
「もし」
「ひゃあっ!」
今度は本に見とれていたのが悪い。
またもや突然に掛けられた声は、下から聞こえてきたもので、緋彩は大袈裟なくらいびくりと肩を揺らした。
ガタッと脚立のバランスが崩れる。
「っへっ!?あっ、うわっ…っ」
「え、ちょっ…」
途端、緋彩の視界はぐらりと傾き、身体が宙に投げ出される。ふわりとした浮遊感も、手から離れていく臙脂色の本も、能面だった警備員の表情が慌てたのも、全てがスローモーションに見えた。
気になったことはただ一つ。
警備員にパンツ見られてないかということだけだ。