芽生えた違和感
「あれ?そういえばローウェンさんは?」
ごちそうさま、と手を合わせた後、緋彩は今更ながら部屋を見渡してそこにローウェンがいないことに気が付く。食事に気を取られて忘れていたとかそんなことない。決してない。
「あいつは物資調達に行った」
「こんな時間にですか?」
窓の外を見るともうとっくに夜は更け、月と星が眩く瞬いている。日本時間にして十時頃だろうか。こんな時間に開いている店といったら酒を取り扱う店くらいだ。
「こんな時間に開いている店は安くで物が手に入るからな」
「?」
緋彩はよく分かっていないが、つまりは明るい場所で手を広げて構えるわけにはいかない、少し危険なルートで売られる商品は、市場価格よりもいくらも安いということだ。勿論ローウェンは自警団に取り締まられるような、ましてや法に触れるような買い物にはならないよう細心の注意を払っている。傭兵で金のない時にはよくこうして夜の買い物をしていたらしく、慣れているということだ。ノアはそんな気を遣う買い物など面倒だと賛同はしなかったが。
「随分前に出かけたからもう帰ってくるだろ。それより、アリアに礼言っておけよ」
「あ、お粥のお礼?」
「ちげぇよ。お前の服を着替えさせ、身体を拭いてやったのはアリアだ。断ったのに半ば無理矢理したのは向こうだが、お前はそういうの気にするだろ」
「あ…、はい。そう…、ですね。ありがとうございます」
また。
まただ。
きゅ、と心臓を握られたような感覚に、緋彩は確認するように胸を押さえる。
ノアの口が、その名を紡いで、その名との関係性を窺えるようなことを聞く度、心臓が脈打つ。
不死の呪いの所為だろうか。
アクア族に名前が似ているからだろうか。
多分そういうことだと自分に言い聞かせて、緋彩はもう一度分かりました、と頷いた。
元々、アリアが緋彩たちをこの宿に引き込んだのはボロボロの三人の姿を見かけたからだと言っていた。特に緋彩の衰弱具合は目に余ったのだ。男二人に意識のない女性の世話をさせるのは不安だと、牛蒡女の身体に何とも思わんから大丈夫だというノアを無視して、アリアは自ら緋彩の看病を買って出たのだ。ノア達に食い下がる必要性はなかったので任せたが、いくら同性とはいえ、初対面の他人に看病をされるのは緋彩でなくても恐縮するだろう。
それは分かるのだが、どこかぎこちなく返事をする緋彩はやはり少し様子が変だった。体調によるものというわけでもなく、違和感を抱えたような反応にノアは眉を顰める。
「だから何だよ?」
「えっ…はい?」
「はい?じゃねぇよ。さっきから気の入らない返事しやがって」
「あ…、いや……」
ずい、と顔を近づけてくるノアに、緋彩はビクリと肩を揺らして視線を泳がせる。至近距離にある紫紺の輝きはどうにも直視できないだけが、ノアにはそれが緋彩に疚しいことがあるからだと受け取ったようだ。
「洗いざらい吐け。お前が悩んだら困るんだよ。主に俺が」
ノアは一度緋彩に目の前で吐かれている。
「いや、その、悩んでるわけじゃ、ないんですけど」
「じゃあ何だよ?隠したってバレるぞ。お前分かりやすいんだから」
「隠してるわけでもなくて、ですね…」
どう言ったものかと暫く言い渋っていたが、ノアの威圧に負けたのか、黙ることを諦めたのか、自分でも自分の違和感が分からないというように、言葉を絞り出しながら白状し始めた。
「ええ、と…、何と言うかですね…、ノアさんはアリアさんって人と親しいのかなって…」
「……………………は?」
緋彩の中では、自分の中の違和感をこれほどまでに的確に体現した質問はないというくらい、自分的には百点満点の表現だったのだが、目線を上げて見たノアの顔は、人が宙に浮いているところを目撃したくらいの衝撃的な顔をしていた。
「…………何言ってんの、お前」
「だ、だって、名前呼んでるし」
「…だから?」
「女の人の名前、呼んでるから…」
「今までだって呼んだことあるだろうが」
「あ、あるけど…、でも何か気持ち悪いっていうか…」
「あ?喧嘩売ってんのか」
「違っ…、そうじゃなくって…」
ガシリと手で緋彩の頬を挟むノアはどうしたって解放してくれないようだ。納得いく説明をしろ、と言葉にはしない圧力がひしひしと伝わってくる。
率直な気持ちを言うと絶対馬鹿にされると思ったので避けていたけれど、この威圧感にはもう耐えられそうにない。早く彼の眼力から逃れたい一心で、緋彩は観念して思ったことをそのままぶちまけた。
「だ、だってだって!私はっ、ノアさんに名前を呼ばれるまで随分と時間かかったしっ…」
そんな、誰も気にしていないことを言ったって仕方ない。
「今だってなかなか呼ばれること少ないのにっ」
そもそもノアが無視しなくなっただけ喜ぶべきだと思うのに、そんなの欲張りだと分かっている。
これは、
欲張りというよりも、
「そんな簡単に呼ぶなんて、相当ノアさんが気に入った人なのかなって思っ」
「ヒイロ」
「─────…っ!」
いつの間にか、頬を潰していた手は顔を包むように添えられ、合わせられそうになかった目線がいとも簡単に彼に流れていく。
くすりとも笑わないノアの瞳は真っ直ぐに緋彩に向けられ、先程とは違う威圧感があった。嫌な威圧感ではない。自然と人を黙らせる、静かで穏やかな、だが絶対的な威圧。
瞼の下をすっと撫でる親指の体温が冷たく、緋彩の熱を吸っていくのを感じた。動揺と混乱と困惑で散らかっていた頭の中がすっと凪いでいく。
「これでいいか」
「………はい?」
造り物のような相貌を少しだけ傾けて、ノアは一言そう訊ねた。唐突に投げかけられた質問に、今度は緋彩の方が面食らう番だった。
「…こ…、これでいいって…何が、ですか…?」
「名前、呼んでほしかったんだろ」
「は、はい…?」
「違うのか」
「違…くはないです、けど、」
純粋なノアの瞳に、そういうことじゃないとは言えなかった。それに、名前を呼ばれた声にそれまで荒んでいた感情が何処かへ消えてしまったのも事実だ。
そんなの、ずるい。
「名前くらいでごちゃごちゃうるせぇな」
「うるさいって…、ノアさんが言えっていうから言っただ…むぐ!」
頬からノアの体温が離れたかと思うと、今度は口に何かを突っ込まれる。日本ではプラスチック製が一般的だが、この世界では金属で出来ているストローだ。熱伝導率が良い金属が冷えているのは、冷えた水の中に浸されているからだ。もっと水を飲んでおけ、ということらしいのだが、ノアはそのことは口には出さず、代わりに呆れた溜息を盛大に吐いた。
「大体な、何でお前が腹を立てることがある?仮に、俺がアリアと親しかったら何かあるのか」
「な……なにも、ない、ですよ…。腹も立ててません」
「立ててたろ。珍しく他人に嫉妬しやがって」
「…え?」
ノアの言葉が衝撃だった。
嫉妬、
って、誰が、誰に。
何故、
「…しっ…と……?」
「何だ、違うのか。名前を呼ばれる回数が少ないことに拗ねてたんだろ」
「…しっ、と……って、何ですか?」
「は?」
今度は何を言い出したのかと、ノアはいよいよ緋彩があまりに水分を取らない時間が長すぎておかしくなったのかと思い始めてきた。熱を測ってみたり、脈を測ってみたり、瞼を捲ってみたり、頭を小突いて中身がないのを確認してみたりしたが、通常通りだ。
「何、お前どうした」
「…いや、だって…、私が嫉妬って、何で…」
「だから俺はそれを訊いてんだよ。初対面、それどころか会ったこともない奴に嫉妬する理由」
「………」
ついに緋彩は口に手を当て黙り込んでしまった。
緋彩は、何だか狡いだとか、何だか悔しいだとか、漠然と感じていた感情に理由なんてつけたことなかったのだ。少なくとも訊かれてすぐに答えられるほど、自分を律してなどいない。
ノアが、アリアの名前を呼ぶのを聞いて悔しかったのか。
アリアのことを分かっているようなノアの口振りが嫌だったのか。
ノアがアリアと親しかったら、
緋彩はどうしたのだろう。
「────────…私、は………、」
視線を上げた先に、その理由がある。
頭で理解するよりも早く、感情で理解している。
それなのに、
「ただいまぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………」
疲れた声を響かせて部屋に入ってきたローウェンに、言葉も空気も感情も全てシャットアウトされた。