龍の危惧
天幕を片付けて荷物をまとめ、石を置いただけという申し訳程度のロイの墓を作ってやると、緋彩はマナに手を伸ばした。ペットを撫でるように、彼の顔に手を添える。
「それではマナ、帰り道気を付けて下さい」
『それはこっちの台詞だ。…本気で行くのか?』
「行くしかないんです。今はそれしか情報がないので」
心配が滲むマナの声に、緋彩は眉を下げて困ったように笑った。マナは意外と心配性だ。そして過保護だ。
出会いが出会いだっただけに、凶暴で凶悪なラスボスみたいな龍を想像していたけれど、その実、心優しく人間想いもお助けキャラだった。感情が高ぶっていたとはいえ、緋彩を串刺しにしてしまったことも丁重に謝ってくれた。
『そこまで言うなら止めないが、いくら不死とは言え、気を付けて進めよ。お前の不死はラインフェルトからうつされた、謂わば半端な不死だ。何が起こるかも分からない』
「心得てます。下手に死ねばノアさんにも影響が出るのでその時はノアさんに殺されます」
『言ってることがよく分からんが』
緋彩が不死になった経緯、ノアとの関係、その全てをマナに話すと、彼は興味深げに聞いてくれた。魔力の始祖とも言える龍にとっても、アクア族とラインフェルト家以外の不死の人間というのは初めて見たらしい。ノアがやったように不老不死は渡すことは出来るが、人目を避けているアクア族は勿論、ラインフェルト家の人間も故意的に不老不死を広めるようなことをするはずがない。長い歴史の中でも、緋彩のような境遇はないとも言える。
そう考えれば、ノアは結構なことをやったのだと今更思う。アクア族を自分の元に呼び出そうとした横着からきた、失敗の産物ではあるが、龍でさえも見たことがないくらい、歴史を塗り替えるようなことをしてしまっただなんて。
本人にその意識はなく、やってしまったものは仕方ない、と開き直ってはいるけれど。
「何してるヒイロ。行くぞ」
「あ、はい!」
荷物を肩に担いだノアの声が飛ぶ。今日は荷物持ってくれるんだ、と思いながら、緋彩は慌ててマナに別れを告げる。
「ではマナ、私たちはこれで」
『ああ。何かあったら呼べ。永久凍土の地獄であろうと駆け付けよう』
「ふふっ…。ありがとうございます」
ロイを追ってきた時のように、血相変えて駆け付けてくれたらちょっと怖いな、と思いながら、緋彩は彼の優しさを胸に閉じ込める。
キラキラと輝く鱗を惜しむように指で撫で、その温かさを手の中に握り込む。一歩下がって深々と頭を下げた後、上げた顔に微笑みを宿した。
「マナも、何かあったら呼んでください。すぐに駆け付け…られないかもしれないけれど、話を聞かせてください」
一瞬、マナの瞳が驚きに大きく見開かれた。緋彩にはそれが何の驚きかは分からず首を傾げるが、すぐに少し怒気が混じり始めたノアの声にもう一度呼ばれてやばい、とノアの元へ駆けていく。
『ヒイロ』
「はい?」
背中から掛けられた声に緋彩が振り返ると、マナは天に高く伸ばした身体を二つに折り、まるで傅くように緋彩を見据えた。
『お前が私と意思を交わせるのは、何らかの理由があるはずだ。今は分からずとも、この先きっと明らかになる時が来る。その時ヒイロは、ヒイロであり続けることが出来るよう、私は強く願っている』
「……?」
何かの予言か。龍が言うと信憑性が半端ない。緋彩には何のことだかよく分からなかったが、ありがとうございます、とだけ言って手を振った。
後でノアにも何を話していたのかと訊かれたが、とりあえずノアは業界の風雲児ってことだと伝えると微妙な顔をされた。
***
”永久凍土の地獄”
そう呼ばれるエリク国は、その名の通り国中が凍土に覆われている。年中氷点下を大きく下回る気温で保たれているのは勿論のこと、動植物はこの国で生息できないので、人間だって住むことは出来ない。息をするだけで肺が凍ってしまうので当然だろう。
だが地獄と呼ばれる所以はそこではない。気温が低いだけの国であれば、他にもいくつかあるし、日本ほどではないとは言え、多少文明が発展した、でなくとも魔法が存在するこの世界であればそんな地域にも住む方法はある。地獄と呼ぶには大袈裟すぎると思うのだが、その理由は気温によるものではなかった。
「断崖絶壁で覆われた国」
「へ?」
緋彩にエリク国について訊かれたローウェンは簡潔にそう答えた。詳細を求めて目を向けたノアからも、同じ言葉が返ってきた。繰り返せと言ったわけではないんだが。
「エリク国は国土自体は非常に狭いんだ。一般的な国内にある町一つ分くらいしかない」
大昔には取り沙汰して狭いと言うほどではなかったのだが、凍土で出来た土地は当然気温によって脆くもなる。気温が高い年は地面が崩れ、また作られては崩れ、盛衰を繰り返して土地は崖を作っていく。そうしてエリク国はいつの間にか陸地が崖に替わってしまったために、国土が極端に狭くなってしまった。人間が住める場所もないし、環境でもない。
「でも、アクア族は昔そこに住んでいたとマナは言ってましたけど…。どうやって生きていたんですかね?」
「エリク国の厳しい環境は並みの人間の魔法なんかじゃとても補完できない。だけどアクア族なら、その限りじゃなかったかもしれないね」
龍から魔力を授けられ、不老不死の魔法まで生み出してしまったほどの魔法の使い手であるアクア族であれば、エリク国ほどの過酷な環境も魔法で何とか出来たのではないかとローウェンは予想した。天候を変えるなんて自然の摂理に背くことはできないけれど、それを凌ぐ場所を広く作ったり、崩れてしまった土地を多少元に戻したり出来たのではないかと。
「私たちはそんな大変な場所に向かっているんですね…」
「だから言っただろ。入ってしまったら二度と出られない地獄だと」
「そんな恐ろしい言い方してないですよ!ノアさん説明をめんどくさがったじゃないですか!」
「怖気づいたか?行くのやめるか?」
「行きますよ!」
ニヤ、と煽ってくるノアに、緋彩は脊髄反射で反応してしまう。そうじゃなくても行かないという選択肢はもうないのだけれど。
煽っておきながらノアはフーッと毛を逆立てる猫のような緋彩を無視し、数時間ぶりになる水分にほんの少し口を付ける。唇を濡らした程度だ。
「…と言っても、まずは物資調達しねぇとな」
ルイエオ国を出てから丸二日。少しずつ少しずつ引き延ばすようにして食べていた食料は底をつき、水ももう殆どない。物資を調達しに行こうとしているルーク国まではまだ三日ほどはかかるだろう。空腹はどうにかなったとしても、水分は死活問題だ。途中で川でもあればいいが、ルイエオ国から続く涸れた土地には川など通っているはずもないだろう。
ノアとローウェンは何とか緋彩の分の水だけでも、と自分たちの水は節約して飲んでいる。一日に一回、飲むというより口の中を濡らすくらいの量しか摂取していない。それでも緋彩よりは随分と足取りも軽いし、頭も呆けていない。男女の差というものだろうか。
「顔色が良くないね、ヒイロちゃん。こんな状況じゃ当たり前だけど」
「いえ、私はそんなに…。ローウェンさん達の方があんまり水飲んでないし心配です」
「僕たちは慣れっこだから気にしないでいいよ。ノアなんか半年くらい飲まなくてもツヤツヤしてんじゃないかな!」
「さすがに死ぬわ」
そんな軽口を叩く余裕すらある。緋彩も食べ物と飲み物のない暮らしに慣れてきてしまったのか、思ったほど身体に影響が来ているとは自分では思っていない。チラチラと顰めた眉と目で見てくるノアと、折に触れて大丈夫かと訊いてくるローウェンにはそう見えていないみたいだが。
「マナに川があるところも訊いておけば良かったですね。マナなら空からどこに何があるか一発で分かるでしょうし」
「分かったところで、それがルーク国より近くになければ意味がない。それよりあいつの背にでも乗せて移動してくれた方が良かったがな」
「龍の背に乗って…!そんな感じの歌ありましたね!」
「?」
「いえ、こちらの話です」
光に照らされたマナは銀色だし、シチュエーション的にはプロモーションビデオ採用だっただろう。
確かにそうしてくれたら有難いことこの上なかっただろうが、さすがに伝説の生き物にそんなこと頼めないし、龍がそう易々と大勢の人間の目に触れてはまずい。ルーク国は人口が多いので、仮にマナが背中に乗せてくれると言っても、ルーク国まで送ることはできなかった。
「まあ、あれでもマナは傷心中ですからね。今はゆっくり一人にさせてあげたいです」
「他人のこと気にしてる場合か」
「はい?ノアさん何か言いました?」
「別に」
ぼそりと呟いたノアの声はイマイチ聞き取れなくて、何も言ってないと言うノアの何か言っている背中を、緋彩は不思議そうに見るだけだった。