返事
ロイのことをマナに訊くなんてしなくても、ロイさえ目を覚ませば本人に訊けばよかったのだが、緋彩の身体の再生が終わっても彼は目を開けなかった。このまま真実は闇のままという最悪の事態になるよりは、出来ることはやっておいた方がいい。
緋彩は再生が終わったばかりの身体をノアに支えられながら、天幕の外、ローウェンが見張るマナの元に足を運んだ。まだ眠っているのか、マナは巨体を地面に横たえて目を伏せていた。金や銀に光る睫毛が艶めかしく、まるで朝露を含んでいるかのように瑞々しい。思わず見惚れるほどの美しい色を持つ鱗は、呼吸に合わせて僅かに波打っている。こんなにも美しくガラスのような透明感を放っているのに、触れてみればそれはまるで鋼鉄の鎧。滑らせた指に切り傷が残るほど硬く、荒々しかった。
緋彩は獣によく似た、けれど獣よりもずっと勇ましく恐ろしいマナの口元にそっと手を伸ばす。次の瞬間に目を覚ましでもしたら確実に腕を食い千切られるだろう。
それなのに緋彩は両の手をマナに触れさせた。
「…マナ、」
慎重に、それでいてはっきりと、緋彩はその名を呼んだ。まるで優しく揺り起こすかのようだ。
「マナ、私の声、聞こえていますか?聞こえているなら目を開けてください」
眠っているのだから聞こえるものも聞こえないだろうとローウェンは言うが、相手が眠っていようがいまいが、これは聴覚で感じるものではないと緋彩は思っている。緋彩が聞いた龍の声にしても、緋彩が龍に投げかける言葉にしても、耳ではないどこかで感じ取るものなのだ。そもそも龍に耳があるのかどうかは分からない。
「────…あなたは何故、ロイくんを恨んでいるんですか?」
疑問よりは悲しみを映した緋彩の声がそう告げた瞬間、成人男性の身体よりも大きなマナの目がガバリと開いた。
「…っわ…っ!」
「ぼけっとしてんな!」
ノアが驚いて固まる緋彩を抱えて飛び退き、ローウェンも距離を取る。マナの目は『ロイ』という名前に反射的に反応して動いただけで、意識までは付いてきていないようだった。ギョロリとした金色で緋彩とノア、ローウェンを映すと、やっと目と意識の焦点が合ってきたのか、グルルと唸りながらゆっくり頭を擡げた。
先程までの怒りに意識を支配されているような様子はなく、冷静に周りの状況を把握する。地割れした大地やなぎ倒された木、散らかった瓦礫と三人の人間。警戒と興味とほんの少しの敵意が籠った視線の中で、ただただ純粋に共感だけが滲むものが混ざっている。
「マナ」
もう一度、緋彩の声がその名を呼ぶ。
龍に通じるかどうか確証はないのに、届くとだけ信じた声。
「私、雨野緋彩といいます。…まだ自己紹介してませんでしたよね?」
自分だけマナの名前を知っているなんてずるいから、と緋彩は眉尻を下げて笑った。ついでにノアとローウェンも紹介し、まとめて宜しくとペコリと頭を下げる。
「…あの、…爪、切っちゃってごめんなさい。ノアさんが」
「おいコラてめぇ」
睨むノアを無視して見上げる緋彩の瞳には、マナの目が映り込んでいる。そしてまた、マナの目にも緋彩の姿が映っていた。
意思を交わせているかどうかも分からないのに、緋彩はひたすらマナの目を見、マナへ意識を向ける。手を伸ばし、一歩一歩と足を踏み出していく。いつの間にか指先に爪が触れるまで誰も気付かないくらい自然に。
「おいヒイロ…、」
「爪、痛かったですか?もしかして一生このままってことはないですよね?」
「ヒイロちゃん…」
警戒するノアとローウェンを背中に、緋彩はすっぱりと削ぎ落されたマナの爪を優しく撫でる。今少しでもマナが腕を振り回したり、口を開いて牙を剥いたら緋彩はまた肉塊へと成り果てる。一度経験したのだから分からないはずはないだろう。けれど緋彩はまるで何も知らない子どものように、無垢な表情を龍に向ける。
「切った残骸は残ってますから、もし伸びてこなかったら接着剤で…」
どこに落ちたかな、と緋彩は周りをキョロキョロを見回す。とりあえず自分の血がべっとりとついているから洗ってやらねばならないが、困ったことにここには洗い流すだけの水分はない。ついでに接着剤もない。接着剤でくっつく大きさでもない。やばい、修復不可能かと冷や汗が出てきたところに、盛大な溜息が緋彩の頭の上から降ってきた。
『爪は伸びるから心配無用だ』
「あ、そうですか。それは良かっ…………え?」
ほっと胸を撫で下ろすや否や、緋彩は目を丸くして上を見上げた。声が聞こえてきたその先を。
「…………マナ…?…聞こえていたんですか…?」
『聞こえていたから返事をしたんだろう』
「おおう…」
面倒そうな声色に、鬱陶しそうな瞳。ノアによくされるのでこんなことで心が折れる緋彩ではないが、何故だか初めから緋彩を”おかしな奴”だと認定されてしまったようであることは心外だ。
「立派な爪をごめんなさい。早く伸びてきますように」
『祈らんでいい』
「だってこれじゃあ不便でしょうし、龍の威厳というものが保たれないでしょう。やっぱ伸びるまで今までの爪を…、ノアさぁん!ちょっと手伝ってくださ」
『いらんわ!やめんか』
「あいて」
切り落とされた龍の爪を見つけて運ぼうとする緋彩の手を、マナはぱしりと髭で叩いた。身体に対しては極細の髭であっても、ビンタくらいの威力にはなってしまう。
唐突に地面に転がる岩のような大きさの龍の爪を運ぼうとし、髭で叩かれ、不本意だと口を尖らせる緋彩の姿にノアとローウェンはただただ不可解な視線を向けるだけだった。改めて龍の声が聞こえているのは緋彩だけだと思い知らされる。
『お前は、アクア族…、なのか?』
「いえ、それが違うんですよね。だけど何故だがあなたと話せます。何故でしょう?」
『こっちが訊いている。我々と意思を交わせるものはアクア族、それも限られた者だけのはずだ。それを何故お前のようなちんちくりんが…』
「失礼な。初対面の女性に対してちんちくりんとは」
ぷんすか怒りながらも、緋彩はこっちに来て大丈夫だとノアとローウェンを手招きする。ローウェンはともかく、警戒心しか抱いていないノアに対してはマナも威嚇するように牙を剥くが、間に入った緋彩が両者を宥める。
『こいつはラインフェルト家の人間だろう』
「だったら何ですか。ノアさんも剣をしまってください」
「お前、こいつに身体ズタズタにされたのに庇う気か」
「そんなんじゃないですって。喧嘩するために私はマナに話しかけたんじゃありません。二人とも落ち着いて下さい」
喉を鳴らすマナと眼光を鋭くするノアは互いに思う存分いがみ合った後、埒が明かないと悟ったのか、両者とも敵意をしまった。ノアは珍しく緋彩の言ったことが的を得ていたことが不服そうだったが、話を拗らせてまた龍の怒りを買うわけにもいかず、とてつもなく不本意な表情で剣を鞘に納めた。
『ヒイロ、と言ったか。我ら龍はアクア族に忠誠を誓った存在だ。そしてアクア族もまた、我らに忠誠を誓った人間たちだ。我らはアクア族にしか意思を交わす許可は与えていないはずだったが、どうやらヒイロ、お前はその限りではないようだ』
「マナには何故私があなたとこうして話せるか分かるんですか?」
『いや、分からぬ。アクア族すら希少となってしまったこの時代、お前のような奴は初めて会った』
「そうですか…」
伝説とも言える龍にすら珍しがられるとは、緋彩はますます自分の存在が怪しくなってきた。異世界から来たというだけでも相当な強烈プロフィールだというのに、加えて不死、さらには伝説の生物と言葉を交わせるなんて、もはや自分は人間ではないのではないか。
悶々と答えのない問題に緋彩が一人で頭を悩ませていると、ぬっと横にノアが顔を出す。訝し気な目は、どうにかマナの声を聞き取ろうとしているのか。
「おいヒイロ、こいつは何と言っている?」
「え?あ、えっと…、マナもアクア族でもない人間が龍と意思を交わせるなんて初めて見たって」
「龍が知らないんじゃ、誰もお前が龍と会話できる理由なんて知るわけないぞ。考えたって無駄だし悩んだって解決することでもない」
「それはそうですけど…」
しゅん、と肩を落とす緋彩を見て、ローウェンがノアにデリカシー、と窘める。ノアは当然理解していない顔をしていたが。
「とにかく、今はロイのことについて訊いてくれ。お前の悩みなんて後から俺がいくらでも聞いてやる」
「!」
多分、ノアには自覚がない。目的を急かしたが為の言葉のあやだ。きっとそうだと緋彩は思っているし、実際そうなのだろうが、それでも驚かずにはいられず、緋彩は口を半開きにしてノアの顔を呆けた顔で見上げた。ノアが怪訝そうにそれを見返す。
「……?…何だ?」
「…何でも?…聞いてくれるんですか?私の悩み」
「気が向けばな」
「うざいかもしれないけどいいんですか?」
「そう思ったらローウェンにパスするからいいぞ」
「僕!?」
急に話を振られたローウェンがぎょっとする。そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか。
だがそれでもいい。嘘でも気が向いたら緋彩の話を聞いてくれると言ったノアは貴重だ。その事実だけでも緋彩は頬を緩ませた。
「何ニヤニヤしてんだ。気持ち悪ぃな」
「何でもないでーす」