スパイ大作戦
緋彩の頭の中ではスパイ映画のテーマ曲が流れていた。
「あんの顔だけ男、覚えてろよ…」
暗くて自分の手足を確認するのが精一杯の廊下で、緋彩は呻くように悪態をついた。
緋彩に課せられたのはシンプルかつ危険なミッション。
数多くの文献を保持するキッカの図書館には、その蔵書率の分だけ閲覧禁止文献も多くある。勿論閲覧禁止なのだから一般公開などされてはおらず、それは地下二階の奥底で厳重に保管されているのだ。
小間使いと言ったノアが緋彩に言い渡したのは、その閲覧禁止文献の中から不老不死に関する情報を手に入れて来いということだった。
何を考えているのか、そんなに見たけりゃ自分で行けと叫んだが、口を塞がれて図書館だから静かにしろと真っ当なことを言われ、自分はこれまでに何度か忍び込んでいて顔が割れてるから無理だと前科を披露された。
緋彩ならこの図書館のスタッフどころか、世界中の誰もがまだ見た事のない顔であるし、特に印象もない薄い顔だからいけるかもしれないと応援と言う名の侮辱を受けた。
とはいえ、警備はノアが何度か潜入を失敗しているほどの厳重さだ。
まずはこの図書館のスタッフしか地下には入れないという第一の関門。魔法か何かで選別しているのか、図書館スタッフの制服を着ている者しか地下に続く階段は下りられない。私服で入ろうものなら電撃が走るらしい。最新型なんだか古臭いんだか分からない。
そして第二の関門は、警備員がいるゲートを突破することだ。一度第一関門である程度振り落とされているので、ここではパスカードを見せるだけだ。ただし、綿密な身体検査が行われる。武器の所持、変装を防ぐ為だ。
さらに第三の関門は、所定時間内に目的の本を見つけ、内容を頭に叩き込まなければならないということだ。
正直、緋彩はこれが一番の難関だと思っている。閲覧禁止文献の書庫内に滞在出来るのはわずか十分。無闇な情報漏洩を防ぐためでもあるし、地下に入るくらいの慣れたスタッフなら、本の場所に迷うこともなし、それくらいの時間で充分足りるだろうということだ。
図書館どころか町にすら初めて来た緋彩に目的の本の場所が分かるわけはないし、そもそもまず目的の本を決めなければならない。ノアの話によると、魔法の歴史書の中のどれかにアクア家のことについて書かれた本があるはずだから、それを盗み読んでこいとのことだった。
そんなハードすぎる大作戦、ついこの間まで普通の女子高生をしていた少女に言うか?おまけにノアは緋彩の学力が分かっているのだろうか。万が一本を読むところまで辿り着いたとしても、それを覚えてこいと言うのだ。不死の人間が死んでしまうくらい不可能であるのに、出来なきゃお前の今晩の宿はないと脅された。野宿は嫌だし、そこに目を瞑ったとしても、『お前俺を従えるとか言ってたよなぁ?だったらこのくらいのこと出来るよなぁ?』という煽りについ『出来るわボケ!』と乗ってしまったのだ。人生最大の過ちだと思っている。
とりあえず第一の関門は既に突破した。
ノアがそこら辺の図書館スタッフを物影に連れ込んで首をゴキッボキッとやって制服を奪ったのだ。寒気がする音がなっていたが、死んでいないだろうか。
緋彩はその制服に着替え、地下への階段を下りた。比較的小柄な男性を狙ったとはいっても、しっかり男物だから服に着られている感が否めないが、制服の発注ミスがあったとでも言えばいいだろうというノアのアイデアだ。悪知恵だけはよく働く。
暗い回廊を慎重に歩き、次に待ち構えるのは第二関門だ。
ここまで来るのに人とすれ違うことはなく、怪しまれる状況には陥っていない。オドオドしていると返って怪しまれるから、自分はここの館長だくらいの自信を持って行けと、これもノアからの謎の応援だ。自分の目的の為なら気に入らない人をも図書館の館長に仕立て上げる…なんて悪どい所業だろう。
とにかくドクドクと煩い心臓を無視して、暗闇にポツリと浮かぶ光の元へ胸を張って歩いていく。
自分は館長、自分は館長、と言い聞かせながら。
何やってんだ自分、とも思った。
「お疲れ様です」
多分声掛けとしてはこんな感じだろうと、緋彩は鉄格子のようなゲートの前に佇む警備員に軽く頭を下げる。
深く帽子を被り、そこから覗く両目の眼光が鋭く光った。
「っ、」
やばい、まずったかと思った。まさか合言葉とかあったのではないだろうか。海!山!とか、お前の母ちゃん?でべそ!とか。
ダラダラと冷や汗が流れ出て、小刻みに身体が震えるのを止めることで緋彩の精神力は使い果たしている。合言葉を言い当てるなんて芸当、出来るわけもないし考えることもできなかった。
そうこうしているうち、警備員の男性は低くて小さな声でお疲れ様です、と呟いた。
何だ、これで正解だったらしい。ただこの人が壮絶な照れ屋だったのだろう。
「パスを」
「えっ、あっ、はい!」
それでも警備員の目つきの威力は変わらず、気の緩みなど一瞬たりとも見せない状態で緋彩に手を差し出す。戸惑いながらその手に置いたパスカードは、しっかり緋彩の顔と名前が入っているものだった。
「名前、社員番号は」
「あ、アマノヒイロ、番号は一一二五三三二九です」
「宜しい。…珍しい名前ですね」
「あ、はい。よく言われます。両親が遠い北の地の生まれなんです」
「そうでしたか」
全てゴッドファーザーノアが考えた設定だ。
この世界で北の地というのはまだ未開拓の認知度が低い場所。その辺の出身にしておけば深くは突っ込まれないというノアの策略通りだ。
ちなみにパスカードは、制服を奪ったスタッフのパスカードを拝借し、ちょちょいっと忍び込んだスタッフルームで偽造したものだ。
これだけのスパイの腕があれば、やはりノア自身が来たほうが良かったのではないだろうか。
「では、腕を上げて」
「あ、はい」
身体検査は特に準備はしていない。疚しいことは何もないからだ。武器も持ってなければ変装もしていない。これだけが唯一自信を持って潔白だと胸を張れる。
両腕、肩、背中、とテレビで見たことある動作で警備員の手が服の上から身体を叩いていく。それが胸と脇の境目、そんなところまで躊躇なく触るのかというところに触れた時、緋彩はびくりと肩を震わせた。
「ひっ…!」
「…何か?」
「…い…いえ、すみません。何でも…。今ちょっと鼠がいまして、驚いただけです」
「そうですか。地下ですからね、鼠くらいはいますよ」
淡々と喋る警備員はただ仕事をしているだけだ。いつもの仕事をいつものように。
無駄に反応すれば怪しまれるのは必至。腰に触れられるのも脚に触れられるのも緊張したが、緋彩は隠れて奥歯を噛み締めて耐えた。
「終了です」
「ありがとうございました」
謎の緊張感から開放され、緋彩はゲートを通された。お礼を言ったことに警備員は首を傾げていたが、怪しむまでには至らなかったらしい。ごゆっくり、と声を掛けられたが何かのギャグだろうか。十分でどうゆっくりすればいいというのか。