鎮静の声
理由は分からない。
分からないけれど、龍はロイに怒りを抱いている。
悔恨の声を漏らしていたロイと龍の相容れない温度差は気になるが、龍はこのままロイに怒りをぶつけようとしている。
多分、不本意に。
誰も望んでいない結果は、出来ることなら回避したい。
今、
緋彩に出来ることは、
その手助けを、
自分すら理解していない力で
「ぐ、あ────…!!」
「うぐ…っ!」
恐らく龍はロイを狙っていた。その憎しみと悲しみと一緒に、彼を引き裂こうとしていた。何もかもなくそうとしていたのだ。
だがそこに、一人の少女が飛び込んできた。
そんなことはさせまいと、ロイを庇うように、そして龍を庇うように。
「ヒイロちゃん!ノア!!」
緋彩の身体は胴体のど真ん中に龍の爪が突き刺さったまま宙へ放り出されると、同時にノアは膝を折って蹲る。緋彩は身体の殆どを爪に抉られているのだ。緋彩が感じる五割程度のものとは言っても、今までの剣が心臓に刺さったくらいの痛みなどとは比べ物にならない。ノアでさえ息が詰まる程のものだというのに、その倍の苦痛を緋彩の華奢な身体が味わっている。想像もできない。
ローウェンがノアに追いついて手を出すが、息苦しそうな声で拒否される。
「…っ、俺は、いい…、…それより、あいつを…っ」
「っ、」
二人が見上げた先に、爪に突き刺さった緋彩がいた。本来なら即死だろう。だが死なないからこそ、緋彩はこの無茶を押し通したのだ。
高く高く、龍の怒りを示すように振り上げられる爪。濁った空に、くすんだ月明かりに、彼の怒りが飛散することはあるのだろうか。
せめて空が澄んでいれば、彼の怒りが鎮まる場所はあったのだろうか。
「マナ────…」
冷たく、
血の気の引いた指が、白い爪にすっと触れる。
それは、
怒りの熱をそこから奪うように、
この熱せられた空気の中に落ちた、一滴の水のように、
とてもとても、
麗しく、
「あなた、マナって言うんですね」
成人男性、それもノアのようなハイスペックな男でさえも呻くような苦痛をその身に刻まれながら、緋彩はまるで感じていないとでもいうような微笑みでそう言った。
友達になりましょう、と言い出しそうな柔らかい笑みは、濁った空気を途端に浄化させる。
荒れた大地も、
淀んだ空気も、
くすんだ空も、
狂った感情も、
全て薙ぎ払い、真っ白な背景に金が降り注ぐような世界がそこにあった。
「もし私の声が聞こえていたら、教えて下さいマナ」
決して大きくない声は、むしろ痛みと血で侵されている声は、それなのに何故か鈴の音のように波紋する。
「あなたを苦しめているものは何ですか?大切な人に怒りをぶつけなければならなくなった理由は何ですか?」
その澄んだ音に癒されるかのように、龍はピタリと動きを止めた。
荒ぶる感情が凪いでいき、熱を冷まし、怒りに支配されていた意思を取り戻す。
元より綺麗だった瞳の金色は、奥まで透け切った幻想的な輝きを宿していった。
「ロイくんと喧嘩でもしました?それにしては大地を巻き込むなんて大騒動すぎませんかね。…良かったら私が愚痴をききますから…、一旦落ち着いて下さい」
爪に添えられていた手が段々と力をなくしていく。
「…どんな理由でも、大切なものを自分の手で失くしてしまうことは絶対に後悔しますよ」
何も感じていないなんてとんでもない。
声を発することも、目を開けておくことも、ましてや笑みを浮かべることなどありえない苦痛は現実なのだ。
瞼が重く重く閉ざされていくのをどうにか引き上げながら、闇に呑まれそうになる意識を必死で繋ぎながら、それでも緋彩は口元に弧を描く。
「マナ、一度話をしましょう…。私も…、私もあなたとお友達になりたいです」
リィン、と何処かで風鈴が揺れたような音がする。龍の返事のようだった。
その音が緋彩には本当に言葉に聞こえていたのか、納得したような表情をすると、すっと地上のノアに視線を流す。何も言わないまま、ノアもその視線を受けて剣を握る手に力を込めた。
「マナ、すみません。…少しだけ我慢してください」
ノアは龍の身体を蹴りながら高く飛び上がる。
そして、
縦一閃に空気を切り裂くと、緋彩が貫かれたままの龍の爪がスパリと切り落とされた。