救い
聞き覚えのある声が不愉快そうに降ってきた。ピタリと動きを止めた緋彩は、落ち着いて目の前の布を取り、顔を出して上を見上げた。
見覚えしかない顔が不機嫌を滲ませて見下ろしている。
「お前はそんなに殺されたいのか」
「え?は、はい?」
「風邪ぶり返したら殺すと言ったよな?」
「あ……」
よく見たら、頭から被せられたのは夜具だった。ふわりと香ってきた匂いから察するに、恐らくノアのもの。
確かに緋彩は薄着で、このままではまた風邪を引きそうだった。
「ありがとうございます…」
「学習しねぇな」
「私の世界でもよく言われてました」
特に四つ離れた兄に。
だろうな、と失礼な納得をしながらノアは緋彩の横に腰を下ろす。間近に来たノアの横顔は、恐ろしいほどよく整っていて、閑散とした風景とは少し不釣り合いだ。白銀の髪が光を放っているかのようで、夜には浮いてしまう色だからだろうか。
「あの子は?」
「ようやく寝た。衰弱と高熱が激しくてさっきまで眠れる状態じゃなかったからな」
「ノアさんが看病してくれてたんですか?」
「俺がすると思うのか」
「……」
当然のように言うノアに、緋彩は微笑みのまま固まった。それはそうだ。ノアが子どもの世話など進んでするわけがない。
緋彩の目の前で倒れた少年は、恐らくルイエオ国で暮らしている子どもだと思われる。意識がまだ朦朧としていて話が出来ていないが、見た目では十歳そこそこだろう。
死んだ目をしている国民が多い中で、あの少年はまだ生きようとしていた。水を求め、助けを求めていた。まだこの国にも、生きようとする意志が残っていた。それだけでも、少し救われた気がする。
手を出した手前、緋彩が少年の面倒を見ると言ったのだが、生憎緋彩に医療の知識もなく、ましてやこの世界の薬草や道具の使い方など熟知はしていない。慣れた人間がする方がいいから緋彩は休んでいろとローウェンが看病役を買って出てくれたのだ。勿論緋彩も手伝えるところは手伝うのだけれど、仕事が増えるから手を出すなとノアに睨まれた。そんなに邪険にしなくても。
「でも意外でした。ノアさんも人を助けたりするんですね」
「あ?」
「あの子に水飲ませてくれたじゃないですか。そんな奴ほっとけって言うかと思ったのに」
「お前は俺を何だと思ってる。目の前で倒れた人間を見ない振りするほど非情じゃねぇよ」
「会ったばかりの可愛い女の子の胸に剣を突き刺す人は非情ではないと?」
「だからそれは悪かったと言っているだろ」
「言ってませんよ」
不死であることを確かめるために、緋彩は一度ノアに殺されている。緋彩も改めて今思い出したが、謝られた覚えはない。というかノアは謝るということを知っていたのか。驚きである。
「まあ何にせよ、あの子どものことは、これ以上面倒見る気はねぇからな。意識戻ったら俺達は出発するぞ」
「でも、あの子このままにしたらまた同じようなことになりますよ。せめて生きていけるくらいの環境を整えてあげるとか」
「どうやって」
冷たいとも言えるノアの返答に、緋彩はうーん、と考え込む。食料確保は今の状況では難しいし、まともに居住できる建物はどこにも見当たらない。情けだけで助けられるほど現実は甘くなかった。
「…でも、このまま見捨てるのも目覚めが悪いというか…」
「見捨ててなんてねぇだろ。出来ることはした。後はあいつの気持ち次第だ」
生きようと思えば、どんな劣悪な環境でもどうにかして生き延びる。このままでは生きられないと思えばそこを出て、生きる環境を自分で手に入れる。人の手を借りる前に、死んでしまう前に、それが出来なければいくら他人が助けたって生きることなど出来ない。
ノアはまるで何かを見てきたようにそう言った。実際、目にするのも憚れる過酷な環境など何度も見てきたのだろう。紫紺の瞳に宿る陰は、言葉に出さない映像をそこに封じ込めている。
「生き続けるきっかけを与えただけでも充分な救いだろ」
不死になると、生きるということが辛くて大変で尊いことだと思い知らされる。その一方で、生死の境の感覚が麻痺する。
偶然であっても少年が緋彩にぶつかって出会ったのは、決して大袈裟ではなく、少年の運命を左右する出来事だったはずだと、ノアは温度の低い声の割に熱のこもる言葉を並べた。
「…そう、だったらいいなぁ……」
流れに任せてここまで来た緋彩にとって、自分の居場所など考える余裕もなかったが、いてもいなくても一緒だと言われると思うとそれは傷つく。何故お前はここにいるのかと問われると、答えられなくなる。お前は一体誰なんだと言われると、自分の存在を証明できない。
この世界に存在するはずのなかった緋彩が何かを救えたのなら、ここに来た意味になる。緋彩がいなければ少年はあのまま死んでいたかもしれないと思うと、ここにいるべき存在になる。
偶然だろうが必然だろうが、この世界に導かれた意味があればいいと、緋彩は多分、ずっと思っていた。