生きる意志に手を伸ばして
「やっと国境ですね」
今や緋彩の背の高さくらいまで崩れてしまった防壁の名残がある。恐らく昔はここが国境だという明確な線があったのだろう。
ルイエオ国は決して大きな国ではないのだが、閑散とした周りの景色と荒れ果てた雰囲気の所為で気が滅入ってしまった。随分と長い距離を歩いていた気がする。
期待はしていなかったが、やはり歩いてきた道のどこにも水を補給する場所などなく、途中で見つけた蛇口は捻っても当然のように空回りするだけだった。元は魔法で稼働していたものだろうから、魔力が働かなければ蛇口は役目を果たさないし、吸い上げる水すらないだろう。
空気が乾燥しているからか、汗は掻かなくても通常より早く喉が渇く。ここに来るまでも何度も水筒に手を伸ばしそうになって、ぐっと手を握ってきた。ルーク国まではまだ長く、一口すら惜しい。
「ヒイロちゃん、飲まなくても口の中を水で潤すといいよ。喉の渇きが多少和らぐ」
緋彩が水を飲むのを我慢しているのが分かったのか、ローウェンが緋彩の後ろから声を掛ける。ノアもそうだろうが、彼らはこんな物資困窮など何度も直面しているのだろう。経験豊富な先輩からのアドバイスは有難かったが、一度口に一滴でも水分を与えてしまうと、次の一滴が欲しくなる。人の渇きに対する強欲さを甘く見てはいけないと、緋彩は礼を言いつつもまだ我慢できるから大丈夫だと笑った。
「それより、ノアさんやローウェンさんの方が長いこと水飲んでないでしょう?私は遺跡での一件でたくさん飲ませてもらい────…わっ!」
突然緋彩の目の前に、影がふっと現れた。前を見ていなかった緋彩は声を上げて立ち止まるが、咄嗟のことに上手く避けられず、バランスを崩して倒れてきた影諸共、派手な音を立てて尻餅をついた。
「いってててて…」
「何やってんだ」
「だって何かが飛び出して来て…」
ノアが緋彩の腕を引っ張り上げると、半分覆い被さっていたものがゴロリと地面に転がる。よく見るとそれは人型で、緋彩よりいくらか小さい。
「……男の子?」
「…う…っ…」
転がった拍子に土塗れとなった頭が動き、微かな呻き声が聞こえた。どうやら起き上がろうとしているようだが、力が入らずにまたパタリと地面に突っ伏した。
「ちょっ…、大丈夫?」
「ヒイロ、触れない方が…」
「言ってる場合ですか!」
動かなくなった子どもに寄りそう緋彩に、何の病気を持っているか分からないとノアは難色を示したが、相手は先ほどまで見てきたような抜け殻になった人間とは違う。どうにか動こうと、生きようとしていた。放ってなどおけるはずもない。
黙ったノアを気にする様子もなく、緋彩は子どもの身体を抱き上げた。汚れてしまった金色の髪、開けば恐らく大きいであろう瞳、小さな口や鼻は、きっとこんな姿でなければ美少年だっただろう。乾き切って干からびた肌や唇は罅割れ、所々膿んでいるところもある。四肢に全く力は入っていないけれど、それでも緋彩が優に抱えられる体重は、凡そ見た目の年齢ともそぐわないだろう。
辛うじて息はあるが意識はなく、魘されているのか口が何かを求めるようにパクパクと動いていた。
「───、───、」
「え?何?」
聞き取ろうと耳を近づければ、小さな掠れた声が微かに空気を揺らす。
「────…み…、み、ず……」
見れば分かることだっただろうに、異様なものを見過ぎていて感覚が麻痺していたかもしれない。こんなに痩せ細り、こんなに干からびて、最初に求めるものなど水以外に何があるのか。緋彩はすぐに荷物から水筒を取り出して、少年に水を飲ませようとする。だが、意識もなければ飲む力もないのか、少年の喉は水を飲み込む動きは見せない。
「貸せ」
「ノアさん…」
短く言ったノアは、膝を折って緋彩の手から水筒を奪う。そして、長く乾燥など知らないような指に水を滴らせ、舐めさせるように少年の口に軽く入れた。水分を弾いてしまうほど乾燥して硬くなった唇は、それを何度か繰り返すうちに柔らかくなり、口の中に入れる水を増やしていけば、ゆっくりと喉が動いていった。じれったいほど時間をかけて、少年の意識が戻るまで、ノアは黙々とそれを繰り返した。
***
国境に来ても、ルイエオ国の夜空は薄く濁っていた。雲がかかっているわけでもないのに、空の紺色は鮮やかさが見当たらないし、月や星の輝きも何となく弱々しかった。だが多分これは地球と一緒。この世界に来てから澄んだ空しか見ていなかったので、日本で見ていた空が普通ではなくなった。もし日本に還ったのなら、この世界の夜空を惜しむことになるだろう。
それにしても、そもそも還るなんてことが出来るのだろうか。何となく流されてこんなことになってしまったけれど、本当に日本に還れるのだろうか。既視感すら覚える夜空の所為で大して慌てることもなく、緋彩はぼんやりそんなことを考えていた。
熱を発するものが極端に少ないからか、砂漠のように夜は非常に冷える。青白くなってしまった指先を息で温めながら、膝を抱えて小さくなる。
と、弱々しい月明かりや星の輝きが余計見えなくなるほど突然視界が真っ暗になる。
「っ!?」
そして、顔を上げたが、何だか身動きが取りづらい。どうやら頭の上から何かの布を被せられたようだった。まさかこのまま黒いワゴン車とかに詰め込められて誘拐とかされるのではないだろうか。変な薬とか嗅がされて、気が付いたら手足を縛られているとかされるのではないだろうか。いや待て、つい最近実際似たようなことあった気がする。
こんな生気のない国でまでそんなことがありうるとは思っていなかったけれど、可能性はゼロじゃない。またこの間のように心臓とか刺されて死んだりなんかしたら、ノアに大目玉を食らうことになるだろう。そんなこと真っ平ごめんだと、緋彩は必死になって手足をバタつかせて視界を塞ぐものから逃れようとした。
「わ、私を攫ったりなんかしたらノアさんが黙ってませんからね!鬼になって、ナマなハゲとかになって、『死ぬ子はいねがー!』って探しにくるんですからねー!」
「俺がどうしたって?」
「………へ?」
耳にした音はすぐに何か分かったけれど、それが意外すぎて、緋彩は何度も目を瞬かせた。