遠い日の約束
さらに奥に進むと、これまで以上に入り組んだ構造となっていた。元々の造りが複雑な上、崩れた壁や天井が道を塞ぎ、さらに進路を迷路のようなものにさせていた。その途中途中で落ちている食器、骨董品、布の端切れなどは全て人間がここにいたという証。それから骨も、恐らく人間のもの。
「アクア族は、ここで不死を終わらせたんでしょうか」
誰に宛てた質問でもなかったが、緋彩は無意識に前を歩く背中に視線を投げかけていた。勿論応えが返ってくるとは思ってはいなかったけれど、意外にも紫紺の瞳が僅かに緋彩を刺すように見る。その鋭さに一瞬ドキリとして、緋彩は口を真一文字に引き結んだ。
「いや、何でもな」
「アクア族全てが不老不死だったわけではない。魔法を施した者に限られているから、時の流れに則して命を終えた者も当然ある」
ノアは瓦礫が積み重なった上に飛び乗る。緋彩の身の丈程ある高さをさも当然のように軽く飛ぶノアは、やはり異常な運動神経なんだろうと思う。
緋彩は上から差し出された手に掴まり、見苦しい格好になりながらもノアの足元までよじ登る。
「っはぁ、はぁ…。…でも、同時に不老不死だった人もいるわけですよね?その人達が生きることに疲れ、命を終えたいと思った時、それはここだったのでしょうか」
アクア族は永久となった命に嫌気がさし、不老不死に区切りをつける魔法を法玉に込めた。死を恐れる人間にとっては、そんな魔法を何故作るのか理解できないだろう。不老不死となり、人間かどうか分からなくなった状態でしか理解できないことだ。
そんな生き物がまた再び人間に戻り、世界から消えたいと思った場所。
それは、今緋彩達がいるこの場所だったのだろうか。
今や見る影もない遺跡となってしまったこの場所は、アクア族にとってどんな場所だったのだろうか。果てしない時を共に過ごし、苦楽を歩んだ場所は、どんな姿だったのだろうか。
永久の時を終える場所が、ここで良かったと、あの人たちは思っているのだろうか。
「ここが良かったから、ここに記したんだろ」
ノアはすっと膝を折り、足元の瓦礫を指でなぞる。柔らかく、壊れ物に触れるような手付きなのに、応える声は強く、淀みなかった。
ノアの手元には、先ほどの場所と同じような文字が彫ってある。恐らく元々は同じ場所にあった瓦礫が、年月を刻んでいくにつれて、地震や津波などで動いてしまったのだろう。ここのは削れてしまってよく見えない部分もある。
「…これじゃ、ヒイロちゃんが文字を読めても、内容がよく分からないね」
後から登ってきたローウェンが文字を邪魔する砂埃を払うが、瓦礫自体が劣化して崩れていたり、穴が開いていたりして、緋彩でも読めるのはほんの一部分だ。先ほど程、正確には内容を読み取れないだろう。
とりあえずは読んでみると、緋彩は残った文字に指先で触れる。そこに残る想いを、染み付く感情を、伝えようとしてくれた責任を、ほんのわずかな凹凸から感じる。
『我らは、魔法に長けた一族である。だが元々は、周りと殆ど変わらない魔力だったと聞く。それが何故こうして不老不死になる程の魔法力を持つことになったのか。
それは遠い昔、まだ人間が数えるほどの種族しかいなかった時代、我らアクア族は龍より力を賜ったことから始まったという』
どくん、
どくん、
と全身を血が流れる音が聞こえる。
心臓から四肢へ、内臓へ、皮膚へ、爪へ、髪の毛へ、
脳へ。
冷えた血管へ熱が流れ、やがてそれは燃えるように熱くなる。それでもまだ熱が足りないと、心臓は鼓動を速め、鼓膜を揺らすくらいの音を立てる。呼応するように呼吸は浅くなり、いろんな器官がもう限界だと悲鳴を上げていた。
「っ、」
「ヒイロちゃん!」
ふ、と意識が途切れそうになって身体の力が緩むと、座っておくことすらままならない。軸を失った緋彩の身体は、二メートル近く下の地面へ放り出されそうになった。
ローウェンが手を伸ばすが、一瞬遅く指先が服を掠めただけ。だが代わりに、一歩先へ伸びた腕が緋彩の腕を掴まえた。
かくん、と反動で揺れた頭のお陰で、緋彩の意識は少し浮上した。
「…、すみませ…、」
「重い。しっかりしろ」
そんなこと言われても。緋彩だってこうなりたくてなっているわけじゃない。文句を言われるのを分かっていてノアの手を頼っているわけじゃない。だけど頭では手が伸びてくると分かっていて、自分で支え切れない身体はノアが支えてくれると知っていた。
現にこうして、緋彩の意識が戻っても、彼は手を離さない。
「大丈夫?ヒイロちゃん」
「は、はい…。これを読むとやっぱり身体がおかしくなって…」
「読めたのはそれだけか?」
滲む汗を拭いながら、緋彩は覗き込むノアにこくりと頷いた。緋彩を気遣って、ローウェンがちょっと休ませてあげようよと言ってくれるが、ノアは聞く耳を持たなかったし、緋彩も大丈夫だとローウェンに硬い笑顔を向けた。
「あとは…、文字が潰れててところどころしか読めません。辛うじて『龍』、『共に』、『意思』という単語があるのは分かるんですけど…」
「アクア族と龍に何か関係があるのか…?」
「そういえば、法玉があったところにも護るように龍がいたね」
うーん、とローウェンが顎を擦りながら思い出す。同時に龍に追いかけ回されたトラウマも蘇ってきて顔を青くさせていた。
法玉と龍が一緒にあったことが故意的だと考えると、それは法玉を作ったアクア族の意思である可能性が高い。
緋彩が読んだ記述には、アクア族は龍から魔力を賜ったとある。それが事実か否かは今や確かめる術はないが、少なくともそんな話が出るほどにはアクア族と龍は何らかの関係があったと思われる。
緋彩は他に読めるところがないかと足元を見回し、せめてヒントになりそうな言葉だけでも拾おうとした。
「龍と、意思を、我々の中でだけで許された、秘密、約束…、本当の、アクア族、魔力…っ、うあっ…っ」
途中で、脳が斧でたたき割られたかのような痛みが落ちてくる。これほどまでに発狂してしまいそうなほどの痛みをこの十五年間生きてきて味わったことがない。両手で頭を抱えて、自分が誰だか分からなくなりそうだと思いながら痛みに耐えた。呻き散らしているのがノアの胸の中であることが悔しいと思うくらいには我を失ってはいなかったけれど。
だがこの痛みに耐えきったら、何か分かりそうな気もしていた。文字は潰れて読めないけれど、最初から緋彩は読んでいるわけではない。視覚ではないどこか別の器官で、文字を理解しているのだ。そこにある思念みたいなものを感じているのだ。
文字が潰れていようと、削れていようと、なくなっていようと、
多分、読める。
「ヒイロちゃん!…っ、ノア、さすがにもう無理だ。一旦ここからヒイロちゃんを離そう」
只事ではないと察したローウェンは、緋彩の代わりにノアに訴えた。痛いとか、苦しいとか、本気で辛い時には殆どそれを口にしない緋彩が、呻きを抑えきれないほどに苦しんでいる。人間の苦痛など馬鹿ほど目にしてきたローウェンでも見ていられないほど。
さすがにノアもローウェンに同意をせざるを得なく、呻く緋彩を抱え上げようとした。
が、ノアの袖を小さな手が力なく引っ張る。
「!」
「…、ま、って、ノア、さん…」
緋彩の瞳は、茶の色に混ざって赤が光を灯していた。
強く、熱く、
思わず見惚れるほど
「…もう少し…、あと少しで、分かりそう、だから…」
「────…、」
手が震える。声が震える。息が震える。視界がぼやける。意識が遠のく。
もう、手放してしまいたい。
ちらつく諦めを、熱が許さない。
アクア族の想いが伝わるのは今、
緋彩だけなのだ。
「お願い、です。アクア族のためにも、…、ノアさんの為にも、頑張るから…、」
どうか、
その手を伸ばしたままで。
「何故、そこまで…」
誰に強要されたわけでもなく、ノアだってこんなになってまで本気で緋彩に耐えろと言っているわけではない。
死にそうな顔色に細めたノアの目は、苛立ちにも似た色を宿していた。
それを分かってか分からずか、緋彩は対抗しようとするような眼差しを返した。
「足手纏い、でも…、役に立つところ見せなきゃ、いけないから、ですよ…」
「……」
軽口を叩く暇などないはずだ。笑みを浮かべる余裕などないはずだ。だが緋彩の顔には、不敵な表情が浮かんでいた。
それでもローウェンはこれ以上続けるのは反対だと言ったけれど、緋彩を思ってのことだということは勿論緋彩にも分かっている。だからこそその意見を無視して強行するのは申し訳なく思う。
「────…分かった」
ノアは小さく頷いて、少し浮かせていた緋彩の身体を再び下ろした。ローウェンは納得いかない表情を浮かべてはいたが、それ以上は何も言わない。
急ぐ必要なんて本当はあまりない。ローウェンの言う通り、ここは一旦引いて、休憩した後でもう一度ここに来ればいい。
それは分かっているけれど、緋彩は何処か焦ってもいた。
今この時、これを読み切ってしまわなければいけない焦燥感に駆られていたのだ。
再び文字に指を当て、そこに熱さを感じる。
焦りが、熱に代わるように。
熱く、
熱く、沸騰して、上手く頭が回らない。
焦るな、
焦るな。
歴史は逃げない。
歴史は変わらない。
次の瞬間、苦悶に歪められていた緋彩の表情が、すっと熱が冷めたように色を失った。
「アクア族は龍と意思を交わすことが出来る、唯一の種族。決して外にこれを漏らしてはならない。我々だけに許されたこの力は、他には漏らさぬという約束で龍が授けてくれた、アクア族の本当の魔力。有事の際は龍が手を貸し、またアクア族も龍を匿うと誓う。────…いつか我らが滅びる時、きっと龍は寂しく思うかもしれない。共に生きようと約束を交わした我らを探すかもしれない。だから、そのいつかが来た時、誰か龍にこのことを伝えてはくれまいか。これを読めた者になら、安心して託せる」
緋彩の口から発せられているとは思えない低い声、無感情の声。
肺にある全ての空気を吐き出し、そしてそれを補うように深く息を吸うと、緋彩の身体はそのまま力を失った。