表面張力状態
何度も耳にした単語だ。当たり前だ。緋彩達はそれを求めて旅をしているのだから。
だが、何事もタイミングというものは大事なのである。理解して状況を呑み込むのと、予備知識なく状況を呑み込むのとはわけが違う。
「ア、っ、クア、族…っ!?」
「どうした。アヒルみたいだぞ」
「あんたがさも当然のように衝撃的なこと言うからでしょうが!」
口をパクパクさせる緋彩に、ノアは訳が分からないと疑問符を浮かべる。ローウェンもノアに掴みかかりそうな勢いの緋彩をどうどう、と宥める。そりゃあんたも知っていたみたいだから冷静なはずだ。
「ったく、何でノアさんはいつもいつも一言少ないんですか。そのくらい、教えてくれておいてもいいじゃないですか」
「だから言っただろ。ある種族が住んでいた場所だと。普通それだけ言えば充分アクア族のことだと予想は出来るはずだが?脳みそ腐ってんのか」
「大事な一言は少ないのに余計な一言は多いんですね!」
ある種族が何の種族かが大事なところなのに、そこを言わなかったのは絶対ノアが言い忘れていたのだと緋彩は確信している。いけしゃあしゃあと緋彩の頭の造りの所為にするノアは、ついさっきまで優しく緋彩を支えていた人物だとはとても思えない。
しかしここで言い合っていても仕方ない、と緋彩は怒りを抑えて訊けていなかったことを改めて問うた。
「…アクア族が住んでたって、知ってたんなら何故最初からここに来なかったんですか?調べものをしたりするのも大事だとは思いますが、初めにここに来てたら…」
「俺はここに訪れたのはもう三回目だ。初めてなわけねぇだろ」
「……さいで」
それもそうだ。不老不死を解呪することに対してだけは意欲的なノアが、知っているアクア族の情報を探らないわけがない。緋彩と行動を共にする随分前から、この場所の調査には来ているという。
だが、ノアが過去二回訪れていても大した情報は得られていなかったわけだ。今回再調査したからと言って、得るものがあるかどうかは分からなかったのだろうが、ノアにとっていい意味でも悪い意味でもイレギュラーだったのは緋彩の存在だった。
「…まさか、あの文字を読むなんてな」
ボソッと零れたように呟くノアの声がよく聞き取れずに、緋彩は何か言いました?と距離を詰めて耳を傾けるが、頸動脈に指を突き立てられた。そこは駄目、死んじゃうところ。
強制的に緋彩に距離を取らせたノアは、至極不本意だという目で彼女を睨みつける。
「足手纏いがよくやったっつってんだよ」
「はい?貶してんですか、褒めてんですか」
「どっちもだ」
緋彩が読んだあの文字は、ノアが何度解読しようとしてもしきらなかったものだった。そもそも暗号でもないものを解読しようとするには、その文字自体が何を表しているか理解しないと難しい。どの文献を漁っても、どこの国の文字か、どこの民族の文字か、いつの時代の文字かも全く分からなかったのだ。
それをこの世界の人間でもない緋彩は、自分の国の文字かのようにスラスラと読んでしまったのだ。
「…そういえば」
二人の喧嘩を傍観していたローウェンが、思い出したようにぽつりと呟いた。
「ヒイロちゃんはあの文字を読むとき、読んでいるのとはちょっと違うって言ってたよね?あれってどういうこと?」
「うーん…。言葉で説明するのは難しいし、私もよく分かっていないんですけど…」
目で見て読んだというのとは違う、と緋彩は難しい表情を滲ませながら何とか説明した。
実際、当たり前だが緋彩はあの文字を知っているわけではない。漢字テストで半分の点数しか取ったことのない、母国語すら危うい女子高生が、他国の、それも異世界の文字など知るはずもない。
何故読めたかという点に関しては、端的に言えば頭の中に内容が入ってきた、と言うのが一番しっくりくる説明だった。視覚で捉えた知らない文字が、頭の中で変換されていき、それが書かれた情景までもが浮かんできたのだ。
緋彩自身は何もしていないのだけれど、とにかく脳が熱湯に入れられているかのように熱く、酷く疲れたことは覚えている。知恵熱とはこういうものだろうかと思った。
「まだ少し違和感はありますけど、あれを読んでからというもの、さっきまでしていた頭痛と眩暈がなくなりました。…何か関係しているんでしょうか?」
「法玉から聞こえていた音っていうのも?」
何も聞こえない、と緋彩は首を横に振った。
ローウェンが鞄から取り出した法玉も、相変わらず不思議な雰囲気を持ってはいるものの、さっきまでけたたましく鳴り響いていた音は何も聞こえない。
「不可解なことが多いね。…もしかして、ヒイロちゃんにあの文字を読ませるために呼んでいた、とか」
「可能性がないわけじゃないな。こいつが何故読めたかはさておき、法玉が文字を読める人間を呼んでいたのかもしれない」
ノアはローウェンの手から法玉を取り、手の中に握った。ノアの瞳のなかに映る法玉は、彼の瞳の色と相まって濃い紺色をしていた。
「この法玉は元々アクア族が作ったものだ。故意的がどうかは知らんが、文字を読めるものをここへ導く何かしらの仕掛けをしていたとしても不思議ではないな」
「ここに、導かれた…?私が…?」
何故。
その疑問に答えてくれるものはここにはいない。文字を書いた人なら、応えてくれるだろうか。あの続きを読んだら、それが明らかになるだろうか。
ノアに偶然喚ばれたこの世界に、緋彩は何の縁もあるはずがない。偶然喚ばれた人間を、偶然導くとでも言うのだろうか。
ぽつ、ぽつ、と締まりの悪い蛇口から水が滴るように、違和感が溜められていく。
法玉を見つけた時だってそうだ。
確かに緋彩はノアから不死をもらって、法玉に込められた魔法と全くの無関係とは言えなくなってしまったけれど、それなら一緒にいたノアの方が余程濃厚な関係者であるだろうし、緋彩が法玉の発見者でなければならない理由はなかった。
たった一滴の雫も、重ねれば重ねるほど確実に溜まっていき、
それはいずれ溢れるようになる。