歴史に遺る証
「ラインフェルト…って…」
その名を緋彩の声で聞いたローウェンは、横でじっと佇む男に目を向けた。
光の薄い世界にただ曇りのない紫紺を纏わせて、自分の名が出てきたことに僅かな動揺も見せず。
「なん、で…ここでノアのファミリーネームが…」
ルイエオ国とのラインフェルト家が何か因縁があるとは聞いていない。あってもノアは自分から喋りそうにはないけれど。ある程度この遺跡に何かあると予想していたローウェンでも、ラインフェルトの名前が出るとは思っていなかったようだ。
ノアはどうか。何か知っていて、誰にも話したくないことがあって、ここを訪れていたのだろうか。
ローウェンは説明を求めるように、ノアが口を開くのを待ったが、彼は口よりも先に足が動いていた。
「ヒイロ、」
まるでそうなることが分かっていたかのように、ノアは力を失う緋彩の身体を崩れ落ちる前に受け止めた。
この規則性のない文字を読む前から、読んでいる途中も、ずっと緋彩の様子がおかしかった。息は浅く、血の気の引いた顔色だったのは誰が見ても明らかだったので、当然と言えば当然の結果かもしれない。
いっそ気を失うくらいだったら良かったのだろうが、緋彩は何の意地か、ノアの腕の中で虚ろな目を開けた。
「…ノア、さん…、これ…、この遺言、みたいなの、まだたくさん書いて…」
「もういい。喋るな」
「だっ、て。この人は、誰かに伝えたくて…、誰かに分かってほしくて、これを…」
いつか、誰かが読んでくれることを願って、宛名のない手紙を書いたのだ。
死が訪れるその時まで。
「…この人は…、これを書いた人は、亡くなってしまったのでしょうか」
尚も続きを読もうとして手を伸ばす緋彩の手首を、窘めるようにしてローウェンが優しく掴んで下ろさせる。
「ここがこんなになってしまって、少なくとも百年以上は経っている。まともな人間なら死んでいるし、ヒイロちゃんが読んでくれた内容が本当なら、これを書いた人はこの時点でもう殆ど生きる力は残されていないようだった。…生きてはいないよ…」
悲しいことだけれど。
当然の答えだけれど、緋彩には何故か受け入れ難かった。この悲痛な手紙を読んだ直後だからだろうか。読んでいる間ずっと、自分がこれを書いているかのような錯覚に陥った。申し訳なくて、寂しくて、怖くて、後ろめたくて、でも諦めきれなくて。
筆者は感情が伝えきれないと嘆いていたけれど、緋彩には手に取るようにこの人の気持ちが分かってしまった。想いを伝えきれない焦れったさが、この文字の量だ。きっとここの文字一つ一つに、全ての感情が染み付いている。
「───…んて、」
「ヒイロちゃん?」
片方はノアの服を掴み、もう片方はそっとローウェンに押さえられていた緋彩の手に、僅かに力が籠る。
「…なんで…、なんでもっと早く…っ、もっと早く、ここに来てあげられなかったんでしょうか…っ」
あと少し来るのが早かったら、
あと百年来るのが早かったら、
この人は生きて、この想いを直接誰かに伝えられたかもしれない。
震えるようなこの文字全てに託す感情を、
声に出していたかもしれない。
「ヒイ────……」
ロ、と呼び掛けたノアの声は、最後まで彼女の名を呼べなかった。
自分が生まれてもいない百年以上前に、残した後悔が憎らしいと、零した涙が彼女らしくて目を奪われたから。
***
あのままでいては、無理矢理緋彩が文字を読み続けるだろうということで、一旦その場からは離れた。遺跡の中であることは変わりないが、あの文字がある場所から離れると、緋彩の顔色はいくらかマシになる。
だが、その分酷くなったものもある。
「ううううっ、うううっ…あうう」
「るせぇ。いつまで泣いてんだ」
「ノ、ノアさんにばばかりばぜんよおおおお!あの人がどんなおぼいであれをがいだがぁぁぁ!」
「何言ってるか分からん。泣き叫ぶ元気があるんなら上着返せ」
シクシクズビズビと泣き続ける緋彩は、未だに壁の残骸に記されていた内容を思い出していた。あまりに泣くものだから、ローウェンが気を遣って一旦休憩しよう、と遺跡の中を歩き回ることを止めた。
奪われそうになるノアの上着をまだ返すものかと死守しながら、緋彩はすん、と鼻を啜る。
「…読めなくても、ノアさんも見たでしょう。あの必死に書き殴った文字。まともな文字も書ける状態じゃなかったはずなのに、残された力で、命を削って刻んだ証…」
「命を削ったかどうかは分からんだろ」
ふん、とノアは相変わらずの冷淡な反応をする。何故緋彩がそこまで感情移入しているか分からないとでも言いたげだ。
逆に緋彩は何故ノアがそんなに冷めたことを言えるのかが理解出来ない、と口を尖らせた。
「はいはい、私が大袈裟なのは分かってますー。でも仕方ないさじゃないですか。…やっぱり、他人が苦しんでいるのを想像するとどうしても…」
「お前がどうこう言っているわけじゃねぇよ。確かにあそこに刻まれた文字は必死に遺されたものだろう。だが、あれを書いた人間は多分、お前が想像しているようにいつか来る死に怯えていたわけじゃない」
顔を拭け、とノアは鞄から取って投げて渡したタオルが緋彩の顔に直撃する。もう少し優しく渡せないのかとブツブツ文句を言いながらも、緋彩はどういうことかと首を捻った。
ノアは何故か探るような目で緋彩を見ると、少し逡巡してから息を吐くように言う。
「そいつは、恐らく自分で死を選んだ。…自ら自分の命を終えたんだ」
「…っ!…そ、んな、」
自殺した、ということなのか。
あんなに、使命感を背負っていながら。
信じられないと息を震わせる緋彩に、ノアはまた想像して吐くなよ、と注意してから忘れたのか、と緋彩の額を指で弾いた。
そして、決して良好な視界とは言えない辺りに視線を這わせながら、ほんの少しだけトーンを落とした声で言う。
「…ここは、ある種族が住んでいた場所だと言っただろ」
そういえば、と緋彩はこの遺跡に来た時のことを思い出した。深くは訊かなかったし、ノアも話そうとはしなかったけれど、緋彩があの刻まれた文字を読んでから、ノアも話さないわけにはいかなくなったのだ。ローウェンも恐らくその答えを知っている。
「ある種族って、あれを書いた人もその種族ってことですよね?ここで皆が暮らしていたような記述もありましたし」
「そうだ。その種族は世界で、史実で一番特殊な種族」
絶大な魔力とそれを操る技術に優れ、数々の魔法をこの世に生み出した。
枷となって今も尚残り続けるほどに、
最も恐ろしく、
最も奇跡的な魔法までも。
彼らがいなければ
人々は希望を持てなかったし、絶望もしなかった。
是も非も兼ねる奇跡的な存在
「アクア族」
ノアの冷淡な声は、よく響く。