夢なのに痛い
あ、死んだ。
本当の意味でそう思うことは人生の中で然程多くはないと思う。
ちょっと頭の出来具合が残念なだけのごくごく一般的な女子高生、雨野緋彩だってそうだ。十五年間という諸先輩方にとってはまだまだ頼りない人生経験の中ではあるが、自らの死に直面したことは母親のプリンを勝手に食べた時を除いて初めてだ。あの時はまじで殺されると思った。夕飯が一週間米粒三つだった。
一ヶ月前のそんな懐かしい思い出が走馬灯のように脳内を巡るくらい、多分自分は今死に近しいところにいるのだと緋彩は思った。死ぬというのにいやに冷静だなと、他人事のように思うのと同時に、死ぬ前とはこんな感じなのかと学びを得た。今から死ぬけど。
助かるかもしれないじゃないかという励ましをくれる人がいたなら、この胸の傷を見てほしい。
ギャルのスカルプネイルよりも鋭く尖った太い爪で、
心臓を一突き、
なのだから。
「────…ん、ぬぅ……」
酷く、悲惨な夢だった。
瞼を突き破ってくる眩い光に、深く沈んでいた意識は浮上する。一生沈んだままだと思っていたのに、やはり太陽というのは偉大である。どんなに暗い世界にも光を届けてくれるのだから。
「…………太陽?」
覚醒した意識は何よりも先に、この状況がおかしいと気付いた。
太陽が見えるわけがないのだ。緋彩は部屋の中にいた上に、今は確かに夜であったはずだ。しかも結構夜中。雨野家の長である母親も、父親も兄も弟も皆寝静まっている夜だったはずなのだ。ちょっと目が覚めて、水でも飲もうと二階の自分の部屋から下のキッチンに行こうとした時だった。途中、物置にしている部屋から物音が聞こえた気がして、恐る恐る中へ入ったのだ。幽霊とかそういうものの可能性を全否定はしていない緋彩にとっては、かなりの勇気を要した。けれど中は特別変わった様子もなく、いつも通りいらなくなったもの、置き場所に困るものが雑多に敷き詰められているだけだ。
緋彩の家は古い家で、置いてあるものも最近はやりのものだとかおしゃれで綺麗なものだとかは殆どない。和洋折衷の家の中は、古民家の雰囲気なのか洋館のような雰囲気なのかいまいち形容しがたい様相だ。
そんな家だから、物置の中にあるものは特段古臭い物がたくさんある。その中でも一番古いのは、多分アンティークの姿見だった。緋彩が生まれる前からあるとは聞いていて、父親の祖母の母親の叔父のそのまた従弟の、とにかく遠縁の親戚が持っていたものらしいが、詳しい入手ルートは知らない。何故緋彩の家にあるのかも分からない。
とにかくその姿見が、光がない夜の世界では特別気味が悪くて、物音もそこから聞こえてきたのではないかと疑いたくなるほどだった。被せてある布をめくってみても、鏡を小突いてみても、裏側を覗いてみても何もなかったので、きっと物音は気の所為だったのだとしてさっさと水を飲みに行こうととしたところまでは覚えている。
窓から覗く月も満月だと確認した。
なのに今緋彩の視線の先で輝いているのは月ではなく太陽。ついでに快晴。雲一つない真っ青な空。至極気持ちがいい天気ではあるけれど、優雅にこうして日光浴をしている場合ではなかった。
「どこ?ここ……」
そういえば仰向けで寝そべっているままだったと、むくりと体を起こすと、絵に描いたような大草原が視界いっぱいに広がっていた。え、という驚きの声も呑み込んでしまうくらい美しく、まるでファンタジー世界に飛び込んできたようだった。新緑の色に混じるのは赤や黄色の花々、虫や小動物。野生のリスなんて初めて見た。
多分ここは丘の上で、少し先に目を凝らすと、色とりどりの屋根が犇めき合った町がある。どこかで似たような光景を見たなと思ったら、中学生の頃に遠足で言った美術館にあった外国の絵だ。壁一面に描かれた大きな絵画はインパクトがあってよく覚えている。まさかその絵の中に飛び込んできたとでも?いやまさか。そんなことが仮にあったとしても、緋彩がいたのは家の物置だ。無意識のうちに美術館に行ったわけでもあるまいし、ありえない。
小学生のころは本の中に吸い込まれないかな、とか海の底で豪勢な宴を催してないかなとか考えたものだが、さすがに高校生になってまでは夢見ていない。
夢。
ああそうか。
「これは夢かべぶぅっ!!」
やっと答えに辿り着いた途端、後頭部に突然の衝撃を受けた。地面に顔面を打ち付けるほど強く殴られたような気がする。前も後ろも痛くて、最近の夢ってリアル。
「えっ…あ、ご、ごめーん!」
「…う…、は、へい…?」
潰れた鼻を押さえながら顔を上げると、心配そうに眉を顰めた爽やかな顔が覗き込んでいた。薄いベージュの短髪にこげ茶の瞳。バランスのいい顔のパーツは俗に言うイケメンを作り出していたのだが、ブリーチを何回か決め込んだような髪の色に、うわヤンキー、と緋彩は心の中で呟いた。
「立てる?」
「へ、あ、はい」
男性の手が目の前に差し出され、善意しか感じられぬそれを拒否するわけにもいかず、緋彩は手を借りて立ち上がる。この人が緋彩の後頭部に何かの衝撃を食らわせたことは間違いないだろうけれど、謝ってくれていたし、手を貸してくれたし、わざとではないようだった。
男性は緋彩よりも頭一つ分背が高くて、上から緋彩の髪についた土や葉を順々に払っていきながら、途中でふと手を止めた。
「あ、えーと………なんか…、大丈夫……?」
「はい?」
頭から肩、身体の方へと下げた目線が明らかに戸惑っていて、緋彩はどうしたのだろうと首をかしげる。
大丈夫か大丈夫じゃないかで言うと鼻も後頭部も痛いし大丈夫ではないけれど、男の目線は明らかにそのことを言っているのではない。
彼の目線を辿り、自分の身体へと目を向けた。
「────…へ?」
そこは、お気に入りのもこもこパジャマが鮮血に染まっていた。
左胸を中心に、ぽたり、ぽたりと裾から滴り落ちるほどにじっとりと。
「っへっ!?えっ!?な、なん…っ、えぇ!?」
「おおおおっちょちょちょちょちょ!脱がないで脱がないで!」
一体何がどうしてどうなってこうなった!?
自分の姿を見た緋彩は男性よりも動揺して、自分の身に何があったのか確認しようと襟元から服の中を覗き込んだり捲り上げてどこから出血しているのか探そうとした。慌てて男性が緋彩の手を掴んで止めるが、その男性の手も血でべっとりと汚れてしまう。
「と、とりあえず落ち着いて。君、どこか怪我してるの?」
「え…、怪我…?…いや…」
言われて意識してみれば、痛いのは顔と後頭部だけ。血だらけの身体は痛くも痒くもなければ、恐らく傷もない。ただ、お気に入りのパジャマが血で染まった心の痛さだけだ。
「これは、君の血じゃないの?」
「え…、知らな…」
「痛いところはある?」
「鼻と後頭部」
「それはごめん」
自分以上に混乱している緋彩に、男は黙って自分の上着を掛ける。それから、よいしょ、という掛け声と共に、何やら肩に担いだのだ。自分よりも遥かに大きな、熊四頭分程もある大きさの得体のしれない塊を。
「とりあえずその恰好のままじゃあんまりだ。着替えないと血の匂いでこの辺の野獣に襲われるよ」
「……や…じゅう…?」
ついておいで、という男性の肩に担がれているそれ。黒い毛が生えた、鋭い牙と爪とトサカみたいなものがあるそれ。恐らく緋彩の後頭部はこれにぶつかったのだということは分かったが、これが何なのかは分からない。
「そう、野獣。こいつみたいなね」
「……っ!?」
男は自分の肩に担いでいる黒い塊を顎で指し、これはもう死んでるから大丈夫だとにっこり笑った。