仁義なきブラッシング
日向ぼっこをして完全に脱力している彼女に、私は息を止め慎重に忍び寄ります。右手に装備したコームを背中に隠し持ち、一歩一歩近づいていきます。床がわずかに軋み、じわりと汗が吹き出します。彼女はチラリと気だるげにこちらを振り返りましたが、特別気にする様子もなくグルーミングを始めました。
ザラザラとした舌で念入りに自分の身体を毛繕いする彼女。しかし、今は換毛期のため同時に多量の毛を飲み込むことになってしまいます。だからこそ、私はなんとしてでもブラッシングをしなければならないのです。私は彼女のすぐそばでしゃがみこみ、そっとステンレスの櫛を彼女の背中にあてがいました。
お腹をべろべろと舐めていた彼女は、冷たい金属が押し当てられる感覚に一瞬びくりと体を震わせましたが、そのまま毛繕いの作業を再開しました。私は、背中を添わせるようにして、できるだけ優しく毛を梳いていきます。短毛種とはいえ、毛の生え代わりの時期というだけあって、あっという間にコームには綿菓子のような毛の塊が溜まっていきます。
しっぽをぱたん、ぱたんと床に打ち付ける間隔が短くなったことから、刻限がすぐそこまで迫っていることを悟った私。ブラッシングは彼女の堪忍袋の緒が切れるまでの時間との闘いなのです。少しでも機嫌を損ねないよう、左手で頭を撫でながら、脇腹に標的を移しました。
ここで難所であるお腹を後回しにしたのは戦略でも何でもなく、ただ臆病風に吹かれてしまったのです。タン、タン、タンと尻尾貧乏ゆすりのスピードは増し、緊張と興奮を隠すための欠伸が発動したということは、いつ彼女が牙を剝き始めてもおかしくないという兆候なのです。
私は手の震えを必死に抑えながら、彼女のお腹へと櫛を伸ばしました。その時、手の甲に彼女の右手がぽんと置かれました。これは彼女なりの、精一杯の慈悲であり、最後通牒なのでしょう。なぜなら鋭い爪はしまわれたまま、柔らかな肉球だけが触れていたからです。
ここで今すぐ潔く退散すれば、きっとお互いに傷つかずに済むと分かっていました。けれど、私は彼女の下僕であると同時に、その命に責任を持つ飼い主なのです。彼女が健やかに過ごすためなら、たとえ危険を冒してでもなすべきことを為さなければならないのです!
彼女の右手をどかし、私はコームを握りしめ、いざ尋常に……
「痛たたたたたた!!!」
容赦なく尖った犬歯が私の手に食い込みます。猫なのに犬歯なんだなあと暢気なことを考えている余裕などありませんでした。あぐあぐと思いっきり顎の力を強めて噛み締めつつ、両手で私の手首を固定し、両足による同時連続蹴りで更に追い打ちをかけられました。
「もうしません……もう……しませんから……」
這う這うの体でなんとか逃げ出した私の右腕には、くっきりと歯形がついていました。流血沙汰にならずにすんだのは、彼女の峰噛みのおかげでしょう。
かくして本日の仁義なきブラッシングの戦いも、いつも通り私の惨敗で幕を閉じたのです。