参.翳り
「客間の用意ができていなくて」
雪原が含みのある笑みでそう言いだしたのは、夕飯を食べている時だった。栗原に、柚月の部屋に泊まってもらおうというのだ。
栗原は慌てて、「いや、しかし」と言い出したが、昼間外出していたせいで、客間の用意ができていないのも事実。鏡子も「ぜひ」と言う。
鏡子は事情を知らないながらも、雪原の思惑をくみ取っている。さらに、柚月も気に留めない様子で、「じゃあ、あとで布団運んでおきます」と言うので、栗原は何も言えなくなった。
離れが柚月の部屋である。
栗原が行くと、ちょうど柚月が布団を敷き終えたところだった。
「ケン爺、そっちな」
そう言って、奥の布団を指さす。
客人に対して、というより、家族に対するように何気ない調子だ。
だが、お泊り、という普段と違うことに、柚月はワクワクしている。
声も表情も楽しそうだ。
柚月が差した布団のそばには文机があり、本が山積みにされている。
主に兵法書。それに思想に関するような物に、海外の物が少々。
栗原は一冊手に取った。
「お前、読み書きできるのか」
「外国語は分かんないけどな。読み書きと、あとそろばんは、親父に教えてもらった」
権時か。栗原は息子を思い、優しい目になる。
「親父が死んでからは塾に世話になってたから、勉強もそれなりにはしたけど、やっぱ知らないことが多くて」
そう言いながら、柚月も一冊手に取り、パラパラとめくった。
「明倫館か」
柚月が目を見開き振り返ると、栗原は真直ぐに柚月を見つめていた。
なんで知ってるの? という柚月の顔に、栗原はにやりとする。
「それくらい分かるわい」
栗原もまた、手にした本をパラパラとめくった。
自身が息子と妻を置いて別れたのは、西の国。柚月もそこで生まれ育ったはず。そこから、下級武士である柚月が都に来る理由など、容易に想像できる。
明倫館の者で始まった開世隊。
それに参加していたのだろう。
そして、多くの人を斬った。
そのことも、栗原には想像できている。
もっと言えば、その理由も。
それだけに、胸が痛む。
「なあ、ケン爺」
柚月の声の調子は、聞きにくいことを言い出した、そんな感じだ。
本に目を落としてはいるが、その内容を見てはいない。
「ケン爺、人を斬った?」
栗原は本をめくる手を止めた。だが、視線は本に置いたまま。
「まあ、軍人上がりだからな」
何でもないことのように返す。
「そっか」
柚月の声は頼りない。
すっと本を文机に戻した。
その様子までも、消え入りそうなほど弱々しい。
「志を忘れるな」
ふいに、栗原は厳しい声を出した。
柚月が振り向くと、栗原は真直ぐに、強い瞳で柚月を見つめている。
「小姓とはいえ、お前も軍人だ。これからも刀を持つことになるだろう。だが、自分が何のために戦っているのか、これから戦っていくのか、それを決して忘れるな」
何のために、人を斬っているのか。
それを忘れては、ただの鬼になる。
「うん」
柚月の目は弱々しいくせに、その奥に、強い意志を秘めている。
その芯がある限り、道を踏み外すことはないだろう。
だがそれ故に、きっと、苦しむことにもなる、ということも、想像に足る。
栗原はすっと視線を本に戻した。
「まあ、あまり暗い顔をするな。嫁さんにも、余計な心配をかけるぞ」
「嫁さん?」
誰? という柚月の顔に、栗原はにやりとした。
「うちに一緒に来た娘は、お前の女房ではなかったのか」
椿のことだ。
しかも栗原のこの表情。
分かって言っている。
「そうか、そうか、お前の片思いか」
追い打ちをかけ、カラカラと笑う。
「うるっせえな! もう寝ようぜ」
柚月は悔しさでムキになると、布団に潜り込んだ。
悔しやら恥ずかしいやら。
頭まで布団をかぶっている。
栗原は、子供か、と腹の内でツッコんだが、ふっと寂しげな顔に変わった。
「なんにせよ、一緒におれる時間を大事にしろ。人生なんて、明日どうなるか分からん。後悔だけは、無いようにな」
栗原は冤罪により、突然職を無くして都を追われ、妻子とも別れることになり、そしてそのまま、再会することは叶わなかった。
栗原の声には、諭すような響きがある。
「うん」
柚月は素直にそう言うと、ほどなくして寝息を立て始めた。
寝つきの良さは、権時に似たな。栗原は嬉しいようなおかしいなような気持ちになり、ふっと笑みを漏らした。