08
「ハル、キミ、何でそんな平気な顔して食べてられるの?」
再びこそこそと話しかけてくるユーリに、ハルは憮然と答える。
「平気じゃないよ。でもアミルさんが言うことも最もだと思って」
「最もだって何だって、味が変わるわけじゃないでしょ……」
「栄養があるのは確かだろうし。ちょっとでもお腹に物を入れておかないと、後悔するかもよ。この先いつ食事にありつけるか分からないんだから」
「そ、そりゃそうだけど……」
「あの」
切り出しづらそうに、アミルが声を上げる。ユーリは慌てて姿勢を正した。
「は、はい」
「……もし食べられないようでしたら、鳥の卵はいかがですか?」
「卵!はい!ぜひ!」
もはや体裁を繕うことも出来ずにユーリはその提案に飛びついた。再び部屋を出て行くアミルを見送った後で、ハルは横目でユーリを睨んだ。
「良いの?」
「良いも悪いも、こんなの私食べられない!他に食べられるものなら、もう何でも良いから持ってきて欲しい!」
「……卵っていっても、火が使えないんだったら……」
「あ……」
戻ってきたアミルの手にあったのは、鶏のそれよりも一回り小さい茶色の卵と、小さな木のカップだった。慌てるユーリに気づかないまま、優雅な手つきでカップに卵を割るアミル。
「どうぞ。滅多に手にはいらないんですが、今日は珍しく二つも産まれていたんです。召し上がって下さい」
誇らしげな笑顔を浮かべ、アミルはユーリにカップを差し出した。当然、中身は生の黄身と白身だ。
「……あ、あ、ありがとう、ございます」
結局、ユーリは目を白黒させながらそれを一気に飲み干した。ハルは心の中でユーリに同情しつつも、彼女が貴重な食材を吐き出さないことを祈るばかりだった。
「信じらんない!何あの食事。あんなの人が食べるもんじゃないわ。人の口を耕した畑と勘違いしてるんじゃないの?!」
先を歩くユーリは、もう十分以上この調子だった。肩を怒らせ握りこぶしをぶんぶんと振って、大股で歩く。ろくに食事をとれなかった割には元気な歩調だった。
「まあ、アミルさんも好意でああしてくれたんだし……」
ハルは頭の中にあるありったけの言葉を使って彼女を宥めようと試みているが、あまり効果はないようだ。
聖堂を後にして、更に森の奥へと続く道を二人は歩いている。アミルが言っていたことが正しければ、間もなく樹村に到着するはずだ。
「ハル。食べ物の恨みは恐ろしいのよ。やっとご飯が食べられると思ったのに、出てきたのはどんぐり、臭い豆、硬い種、生卵!教義だか何だか知らないけど、人生最大の喜びを人から取り上げるなんて、許されることじゃないわ!それこそ大罪よ!罰せられるべき悪徳よ!」
「……独特な宗教観だね」
ハルが彼女の機嫌について諦めかけた頃、視界に拡がる木々のトンネルが今までよりも一際高く広くなっていた。足元はごつごつとした木の根に覆い尽くされ、なだらかな上り勾配が続く。やがて、道の左手にそびえ立つ飴色の大木が見えてきた。
「あれ、風車の木と同じだね」
やっと話題を切り替えられそうなものを見つけてハルは安堵した。
「……じゃあ、ここが樹村?」
足元は、いつの間にか地面から遊離していた。坂道だと思って登っていたのは、斜めに生えた巨大な木の幹だった。幅五メートルほどの橋のようなその幹の道は、微かにうねりながら更に森の奥へと続いている。その足場に寄り添うように、幾つもの大木が林立していた。
「すごい……。まるで空中都市ね」
先程までの怒りもどこへやら、しきりに感心して辺りを見渡しながら、ユーリは更に歩を進める。彼女についていく自分の足取りが重くなっていることを自覚して、ハルは自分が軽い高所恐怖症であることを思い出した。
こつこつと足音を響かせながら足場の上を進んでいく。足場に隣接する木の家には、風車の木と同じようなドアが取り付けられていたが、流石のユーリも無遠慮にノックしたり無断でドアを開け放ったりはしなかった。村というからにはこれらの木は村人にとっての家なのだから、それは懸命な判断だと思えた。
「……誰もいないね」
「うん……」
もういくつ木の家の前を通り過ぎたかわからない。だというのに、村人らしき人とは一度も行き会わない。人の声や生活音らしきものも聞こえてこない。誰もいない森の中を歩いているのと変わらない雰囲気だった。
ふと、足場から伸びた枝の先の葉が、がさりと音を立てる。ハルは警戒して足を止めたが、ユーリは気付いてもいない。
「危ない!」
ほとんど反射的に、ハルは叫んでいた。ユーリはその声に驚いて振り向くが、すぐ真横の枝の異変にまだ気づかない。茶色の塊が、ユーリに向けて飛びかかる。
「きゃっ!」
ユーリの短い悲鳴。茶色の塊はユーリの左半身を掠めて足場に落ち、そしてすぐ反対側の枝に向けて飛び退く。
「な……なに!?」
例えるならそれは、小型の肉食獣を思わせる動きだった。その物体が飛んだ先、濃い緑の葉をたっぷりと蓄えた枝の上で、それはいた。頭を低くして、威嚇するように歯を剥いている。体に不釣り合いなほど巨大な犬歯がぎらりと輝いた。
「……猿?」
体長にして五十センチほど。こげ茶色の短毛を纏った体はずんぐりとしていて、手足だけが異様に細長い。白と茶の縞模様の尻尾をぴんと真上に立てて、漆黒の双眸から牽制するような視線を飛ばしている。見れば、彼女のチュニックの二の腕あたりが、鋭い刃物で切りつけられたように破れていた。
「……このまま、ゆっくり距離を取ろう。急に動くと刺激しそうだ……」
ユーリだけにやっと聞こえる声量で、ハルが指示を出す。ユーリは微かに頷いて従った。一歩、また一歩……。足音を殺して後ずさる。猿の警戒の姿勢が一瞬緩んだかに見えたその瞬間、ユーリの体の左側でまたしてもがさりと葉が擦れる音が聞こえた。恐る恐る、ユーリがそちらに視線を向けると、その枝にももう一匹、同じ姿勢で歯を剥く猿の姿があった。
「……っ!」
声にならない悲鳴を上げて、ユーリが飛び上がる。それが合図だった。二匹の猿が前と左、両方から同時に飛びかかってきた。頭を抱えてしゃがみ込むユーリの頭上を、茶色の影が交差する。足場に着地した猿達は、今度はハルに狙いを定めて飛躍する。