06
左右に壁のように並んでいた木々が、突然途絶えた。いや、正確には途絶えたのではなく、空間が大きく膨らんで開けたのだった。足元には草原で踏みしめてきた物と似た芝が広がり、ずっとここまで二人を導いてくれていた黄土色の道は、つれないことにあっさりと途絶えてしまった。その様が伝えようとしている意図を翻訳するなら、『ここが目的地』といったところだろう。
ちょっとした競技場ならまるごと閉じ込めてしまえそうな、蔦の天井を擁する半球形のドーム。その中央には、何とも形容し難い奇妙な建造物がひっそりと横たわっていた。
一言で言ってしまえば、それは廃墟のようだった。レンガの壁は七割以上苔に覆われてしまっているし、ガラスが嵌っていたと思しき窓は木製の枠を残して素通しになっている。
奇妙と感じた一番の理由は、その建物が『樹木と同化しかけている』ところにある。老朽化した石の土台の代わりに、巨人の掌のような形をした広葉樹の幹がその足元を押し上げるように支えている。普通に考えれば柱や梁が通っているはずの箇所を、節くれだった木の枝が貫いている。
ハルはその建物に近づくべきかをユーリに相談しかけて、やめた。ユーリはもうそこに向けて歩きだしていた。蔓で出来たアーチゲートをくぐって前庭に入る。腰の高さで切り揃えられた生け垣が小さな迷路を作っている。ハルにはそれが、子供のために作られたものであることが直感的に分かった。
二人の来訪を待ち構えていたかのようなタイミングで、半円状に石材を積んだゲートの陰から、ひょろりと背の高い人影が姿を現した。石材を覆う苔よりも更に色の濃い、新緑色のローブを纏った女性だった。
「あ、あの……!」
さすがのユーリも緊張するのか、少しどもりながら声をかける。その声に気づいた女性は、目深に被ったフードをゆっくりと外して、こちらに向き直る。
身長はハルよりも頭一つ分ほど大きい。肌は浅黒く、髪はかすかに光沢を帯びた灰色。ひと目見て、自分たちとは違う人種であることが分かった。
「……どうなさいました?」
アイスグレーの瞳で二人を交互に見つめながら、彼女は透き通るような声で応えた。言葉が通じるか、突然怒鳴りつけられないか、襲いかかってこないか、などといった懸念がまとめて消えてほっとする。
「え、えー……っと……」
照れ笑いを浮かべたユーリが、両手の指先を合わせながらハルに視線を飛ばす。予想したとおりの事態だったので、ハルは取り乱すことなく緑のコートの女性に応答できた。
「旅のものなのですが、地図を無くしてここに迷い込んでしまいました。もしよろしければ、このあたりのことを少し教えて頂けないでしょうか?」
隣でユーリがうんうんと大げさに頷いている。彼女に任せておいたら何の脈絡もなくパンをねだって追い返されかねないところだ。
「そうでしたか。どうぞ、こちらにいらして下さい」
柔らかい声で歌うように言うと、胸に手を当てて恭しく一礼する女性。その顔に浮かぶ穏やかな笑顔に招かれて、二人でゲートをくぐる。
まず最初に目に飛び込んできたのは、石造りの礼拝堂らしき空間だった。石柱を横たえたような簡素なベンチが五列、奥に向けて並べられている。四方の壁を飾っていたであろうステンドグラスは外から見た窓と同じように、ガラスがすっかり抜けて枠だけになっていた。祭壇の上は蔦の繁殖が激しく、元々何を祀っていたのかさえ定かではない。ローブの女性は祭壇に向けて一礼をしてから、ハルたちを奥の回廊へと案内した。
「どうぞ、こちらに」
建物内には、外よりも濃い緑の匂いが充満しているような気がした。地面には絨毯のように毛足の細かい芝が敷き詰められていて、歩くと靴底がかすかに沈み込むように感じる。煉瓦の壁や天井のあちこちに蔦や根が這い回っていた。素通しの窓の外に、先程通ってきた前庭と生け垣の迷路が見える。
「ここって、教会?ですか?」
ユーリの問いに、先を歩く女性は控えめな笑顔を浮かべて振り返りながら、上品な口調で答えた。
「ええ。サント・ミルドベリ聖堂と言います」
「随分、年季が入った建物ですね。……まるで遺跡みたい」
遺跡とは言い得て妙だとハルは小さく笑った。教会と呼ぶにはあまりにこの有様は、荒れるに任せてほったらかされているというか……手入れをしようとする努力の痕跡も見当たらない。
「教義にも関係することですが、遺跡というのは強ち間違いではありません。『私達』がこの教会を使い始めたのは三百年ほど前からですが、この教会自体は千年以上前に建てられたものです」
「?……それって?」
「……ご興味がお有りでしたら、後ほどゆっくりと」
回廊の左手にある一室に、二人は通された。レンガ敷きの床の上に、簡素な長机と切り株のような椅子が八つ並んでいる。食堂と思しきこの部屋にも、相変わらず窓にガラスはなく、外の庭が丸見えだった。促されて、隣り合った切り株に腰掛けるハルとユーリ。緑のローブの女性は彼の向かいに立った。
「申し遅れました。私、当教会で修道女を勤めさせていただいてます、アミルと申します」
恭しい一礼。銀に近い灰色の髪をひっつめにしたその清貧そうな雰囲気は、なるほど聖職者然としている。緑のローブと、茶色のミトン。肌の浅黒さも手伝って、そのまま森に紛れて潜んでいられそうな佇まいだった。
「この辺りのことについてお知りになりたいということでしたが……。何からお話しましょうか?」
ハルとユーリは顔を見合わせる。ユーリが手振りで、ハルに任せると伝えた。
「あー、うん。じゃあまずは……」
慎重に言葉を選ぶ。この世界については何も予備知識がない。変なことを口走って訝しがられることは避けたかった。
「さっき言っていた、この教会の歴史のことって」
「ああ」
アミルは姿勢良く直立したまま、微かに口元を綻ばせる。
「元々この教会は、暁の女神様を信仰するとある教派によって、およそ千年前に建造されたものと言われています」
「暁の女神」
「ええ。ですが数百年前、黄昏の魔女の呪いによって信仰の象徴であった女神像が失われてしまった」
「黄昏の魔女……」
オウム返しをするユーリを、ハルが視線で嗜める。アミルが何も補足の説明を加えないことから、女神と魔女というのはこの世界においては常識的な存在であることが伺えた。
「絶望した信徒たちは、次々とこの教会を離れていきました。先程おっしゃった遺跡という言葉が間違いではないというのは、そういう意味です。そして三百年前、私達の教派の開祖である聖ミルドベリ卿が、朽ち果てかけたこの教会に祝福を施し、新たな信仰の象徴を設けました。爾来、ここは私達、グリアリス会の本山としての役割を果たしています」
「はぁ……」
曖昧な相槌を打つユーリ。ハルも彼女の言葉全てを理解することは諦めて、おおまかな経緯だけを記憶することにした。要するにアミルたちは、一度は放棄されたこの教会を、三百年前に自分たちのものとした、という理解で間違いはないだろう。
「ここには、アミルさんの他には?」
ハルの探るような質問に、アミルは少しばつが悪そうに眉を寄せた。
「今は私だけです。樹村の人たちが礼拝に来るときには、司教も参上なさいます」
「樹村……というのは?」
思い切って尋ねる。常識を疑われるかもしれないが、何も情報を得られないよりは良い。
「ああ、この森の奥の村のことです。風車の木はご覧になりましたか?」
二人は森に入る前の事を思い出して同時に頷いた。
「あの風車と同じような木を住まいとして暮らしている人たちの村がこの先にあります」
「樹木の村で、樹村ですか」
「ええ、その通りです」
とりあえず、集落があると分かっただけでも収穫だ。更にハルは、会話の中で気にかかったことについて尋ねてみることにした。
「その、アミルさんが所属しているグリアリス会というのは、どういう教えを?」
「やっぱり、ご興味がお有りなんですね」
アミルの口調が嬉しそうに跳ねる。布教熱心な性格らしい。
「かつて、この教会が放棄された経緯は、ご説明した通りですが」
「魔女の呪い、ですか?」
「はい。その呪いの発端は、女神信仰です。創造、誕生、豊穣の象徴たる女神と、死滅、腐敗、終焉の象徴たる魔女。私達グリアリスは、そのどちらも崇拝の対象とはしません」
「と、言うと……」
「私たちは、生と死を巡らせる、この世の理そのものこそが神拝に値するものと考えています」
いよいよ話が難しくなってきた。自信が信じる神の名前すら思い出せないハルにとっては、なおのこと理解は難しい。雲をつかむような話だ。