03
目が慣れてくると、女の子の姿がはっきりと見て取れるようになっていった。小柄だと自覚している彼の身長よりも拳一つ分ほど小さい。肩口まで伸ばした艶やかな黒髪は羽根のように軽く、微かな風を孕んで揺れる。濃紺の花弁をあしらった細身のカチューシャが印象的だ。雪面のように白く滑らかな額と鼻梁、なだらかな弧を描く細い眉と、その下の勝ち気そうな双眸。細長く靭やかそうな四肢も相まって、全体的に猫科の動物を連想させる佇まいだった。
「どうして、内側からなら簡単に斬れるんだろう?」
「……なんとなく、なんだけど」
彼自身がぼんやりと抱いていた印象を、曖昧なまま口に出してみる。
「出る気になれば、出られるような仕組みなんじゃないかな?」
「……何それ?」
さほど期待もしていなかったが、やはり彼の感覚は女の子に伝わらなかったらしい。
改めて辺りを見渡す。ただひたすらに広く、不規則にうねる緑色の絨毯のような草原。思った通りここは小高い丘の頂上らしい。そしてペイルブルーの空。一キロほど先に、もう一本の根の壁を持つ大樹が見て取れた。きっと彼女はあそこの中から脱出して来たのだろう。
「……凄いものって?」
細剣を女の子に返しながら尋ねる。もう一本の大樹以外には、彼が根の隙間から見て取った以外の物は見つからなかった。
「この景色。凄いと思わない?見渡す限り、緑と青、それだけ!」
剣をベルト代わりの荒縄に挟んでから、両手を広げてはしゃいで見せる女の子。その姿に、何故か懐かしさのような感情を抱いている自分を自覚する。
「……何よ、その薄い反応」
血色の良い唇を尖らせて、女の子は不満げに彼を睨みつける。
「……いや、ごめん……。多分僕のほうが、君よりも無くしてる記憶が大きいのかもしれない。この景色が、凄いのかどうかがよく分からないんだ」
「……そっか。名前も分からないって言ってたもんね……」
一転して、彼女は心配そうに眉根を寄せる。スイッチで切り替えたように分かり易く表情の変わる子だった。
「改めて自己紹介ね。私、ユーリ。よろしくね」
「……うん」
名乗り返す名前がないということは、思ったより寂しいものだった。
「……じゃあ、私が仮の名前を付けてあげる」
「え?」
彼の内心を見透かしたように、ユーリは人差し指を立てて言う。
「うーん、そうだなぁ」
人差し指で中空に円を描きながら、ユーリは考え込む素振りを見せる。
「うん、決めた。『ハル』っていうのはどう?」
「……はぁ」
「はいはい、どーせそんな反応だろうと思ったわ。何か不満ある?春が嫌いな季節とか、知り合いに似た名前の嫌なやつがいるとか?」
「分かんない。どうなのか、それも思い出せそうになくて」
「だったら、もう決まり。キミは今からハル。よろしくね、ハル」
極めてテンポよく、かつ強引に、ユーリは彼の仮名を決定した。
「呼び名がないと困るしね」
「えーっと、困る、っていうのは……?」
「……段々、キミが次にどんな的外れを言ってくるのか、予想できるようになってきたわ」
やれやれと肩を落としながらあからさまなため息をついて、ユーリは首を振る。
「キミは、今から私と一緒に行動するの」
「な……」
「な・ぜ・な・ら。私達には記憶がありません。ここが何処なのかも分かりません。ついでに私はお腹が空いてます。まずは協力して、現状の確認と今後の対策検討をする必要があります。オーケイ?」
ハルの疑問に先回りして、ユーリは面倒くさそうに早口で説明する。
「これは、自然で当然な流れよ。理由は、あなたより多く記憶を残している私がそうするべきだと感じているから。反論は?」
「な……」
「ないね。はい決定。じゃあ早速、行きましょ」
ハルの背中を押すようにして、ユーリは何処へともなく歩を進める。延々と続く緑の平原を、とりあえず日の登ってきた東側に向けて。
道標どころか道一つない緑の丘から、二人の旅路が始まった。
「これ、持ってきちゃって良かったのかな?」
先導するように前を歩くユーリが、腰に刺したサーベルを気にしながら呟くように言う。腰の荒縄に挿した鞘は深い藍色で、両端に金色の装飾が施されている。柄には使い込んだ包帯のような滑り止めの布がきつく巻き付けてあって、柄尻には鞘と同色の宝石をあしらった涙滴型のチャームがぶら下がっている。持ち手を覆うように軽く湾曲した鍔は刀身と同じ、眩いほどの銀色だ。
「……さっき言ってたけど、君のものじゃないっていうのは確かなの?」
ハルの目には、その剣はユーリの手に違和感なく収まっているように見えたし、カチューシャの花の色ともよく似合っているように感じられた。
「間違いないわ。だって、私剣なんて持ってるはずないもの」
「……」
ハルほど酷くはないものの、ユーリもかなり記憶に混乱をきたしている。だというのに彼女の言葉は、妙な自信を伴って断ずる。
「大体、武器だったら男の子のほうが持つべきものじゃない?」
振り返るユーリの視線はそこはかとなく抗議めいていて、ハルは居心地悪そうに首を縮めた。
「……君が居た木の中にあったんだろう?だったら、それは君に与えられた物だよ」
思い返してみる。あの木の中の空洞は、第三者の意志や持ち物が介入できる空間ではなかったと感じた。だからこそ、何も持たされなかった自身の待遇は、少しばかり面白くない。
「……まあ、そういうことにしておこうか。さっきみたいに、なにかの役に立つかもしれないもんね」
呑気に笑うユーリをちらりと見遣ってから、ハルは改めて辺りを見渡した。相変わらず一面の緑が広がっている。もう歩きだしてから十分以上経っているはずだが、背後に見える二本の大樹が少しずつ小さくなっていく以外に視界には変化がなかった。一見長閑に見える風景だが、その広さの全貌が見えてこないことに対する焦りもあった。これでもし地面が砂だったら――想像してみると、現状は巨大な砂漠をあてもなく彷徨っているのと大差ないように思えてきた。
果たしてこの場所は、自分たちにとって安全な場所なのだろうか。それとも、剣が役立つような可能性を孕んでいるのだろうか。