15
ほぼ垂直だった壁が登るほどに傾斜を持ち、十数メートルの高さに至る頃には側面に直立出来る角度になっていた。
張り詰めていた神経と全身の筋肉を弛緩させると、同時に疲労と脱力感が襲ってきた。
倒れ込みたい欲求に抗いながら、両足を引きずるようにして頂上部を目指す。
根から繋がる目的地。つまり、この巨木の幹にあたる部分だ。
根の壁が作る半球がドームなら、その幹はちょっとした塔のようだった。
ハルの予想が正しいなら、構造的にもそうであるはずだ。
つまり、『中には意味のある空間が存在している』はず。
両手で柄を握り直して、腰の高さに構える。
そのまま、全体重をかけて切っ先を幹に突き立てる。
スポンジの塊を貫いたような呆気ない感触。
刀身は鍔のそばまであっさりと埋め込まれた。
そのまま、剣というよりノコギリの扱いで真下に切り下ろす。
足元には相変わらず無表情な樹人の顔。
自分の体を切り刻まれているというのに、文句の一つも言わずに大人しくしている。
不気味ではあったが、問いただしている暇はなかった。
縦長の直方体の形に切れ目を入れ、靴底で押し込むように蹴る。数回目の蹴りで、大きな戸口が出来上がった。
同時に驚く。内部の空間は、目がくらむような光に満たされていた。
中に入り込んで見上げる。数十メートルの高さで幹はラッパのように広がっていて、上部からは直射日光のような強い光が降り注いでいた。光源はとても直視できそうにない。
ホワイトアウトする視界に目を細めながら、どうにか内部の様子を観察する。
内部の直径は十メートル前後。どこに繋がっているのかは眩しくて確認できないが、上から二本のロープが垂れ下がっている。よく見るとロープの先は繋がっており、巨大な輪になっていることが分かった。
そして、足元には、木製の壺が2つ。同じく木製の浅いボウルが1つ。さらに、そのボウルの蓋に使えそうな大きさの黒く丸い石の円盤が1つ。
一つずつ確かめていく。壺の蓋を開けてみると中身は、1つは水、そしてもう一つは白い粉だった。風車の木で挽いていた小麦粉のようだった。
水、小麦粉、ボウル。
これだけ揃えば目的は誰の目にも明確だ。
「……生地が作れたとして……」
問題は、焼き方。火をおこすような設備は見当たらない。
しかしそれも、この部屋の明るさから考えれば容易に予想がつく。
ハルは荒縄をほどき、ユーリの体を慎重に地面に横たえた。
天井から垂れ下がるロープの、片方を引く。重い感触。片方を引っ張ると、もう片方のロープが上に向けて引き上げられているのが分かった。
続けてロープを引っ張る。次第に、上部から降り注ぐ光の量が弱まっていることに気づいた。
改めて見上げる。塔の天上に当たる部分に、キラキラと輝く何かが見て取れた。
「あれは……鏡?」
天井は半球状。片側はぽっかりと穴が空いており、反対側にいくつも鏡が貼り付けられているようだ。
「そうか……。これで天井が回るようになってるのか」
先ほどと逆のロープを引っ張る。天井の穴の角度が変わり、また光が幹の中を満たす。
「天井の穴が、まっすぐ太陽の方向を向けば……」
光が最も強くなる角度に天井を調整する。
数秒後、地面の一部から細く煙が上がり始めた。幹の中に焦げ臭い匂いが充満する。
天井に配置された鏡に反射した光が、一点に集中するよう調整されているようだ。
「これなら、確かに火を使わなくても高温になる……」
ボウルの中に生地を入れ、黒い石版で蓋をして光が当たるようにしておけば、石版が熱せられて生地が焼き上がるということなのだろう。
それにしても鏡とは。ハルはどこか納得いかない気持ちを表情に滲ませる。
鏡の材料は、確かガラスと金属だったはずだ。人工物を嫌って排除するはずの森の秘密のタネがこれとは、お粗末が過ぎるのではないだろうか。
「名誉のために言っておくがね」
音もなく登場して弁明がましく切り出す樹人の言葉に、もうハルは驚かなくなっていた。
「あれは、人が作った鏡ではない。『鏡の樹』の葉だ。文字通り鏡面のように日光を反射する葉を茂らせる樹だ。日陰に光を届けるために、この樹村に生まれた」
「……」
何とも都合の良い話だ。
そんなことが許されるなら、レンズの実だって灼熱の種だって勝手に生み出して、教義には反していないと言い張ればいいことになる。
ともあれこれで、やっと熱を得る手段を見つけた。
横たわるユーリの様子を伺う。顔色は紙のようだが、まだ小さく呼吸しているのが見て取れた。
何とか間に合うだろうか。
ハルは光の焦点の場所に、鞘ごと剣を置く。感触によると材質は金属だ。色も濃い藍色なので、集光と蓄熱には適している。
数十秒待つ。煙が上がるなどの変化は見て取れないが、全体が熱を帯び始めている。
試しに壺から水を掬って加熱部に水滴を垂らすと、音を立てて一瞬で蒸発してしまった。
消毒には十分な温度に達している。
ロープを引いて、集光を解除する。
「……少し、我慢して」
服の切れ目を割いて広げ、傷口を露出させる。
締めの甘い蛇口のように、細く血を吐き出し続けている傷口に、ゆっくりと鞘を近づけていく。
「……っ!」
じゅうっと嫌な音を立てて、血が蒸発し皮が焦げる。
目を背けたくなる欲求を抗って、傷口全体を慎重に加熱する。
意識がないことが幸いしてか、ユーリの反応は軽く眉根を寄せる程度だった。
ゆっくりと、剣を離す。
赤く腫れ上がった跡が痛々しいが、たしかに血は止まった。消毒と言うよりは、溶接のような作業だった。
剣を投げ出し、その場に尻餅をつく。同時に呼吸を止めていたことを思い出して、大きく息を吐き出した。
……やった。
この村の仕組みを、ルールを、出し抜いてやった。
脱力感と、達成感。
まだユーリを助けられたと決まった訳ではないにもかかわらず、ハルの顔にはうっすらと笑みすら浮かんでいた。
「上手くいったようだね」
ハルが一息つくのを待っていたように、樹人が話しかける。
「……おかげさまで」
精一杯の皮肉を込めて、ハルは口元を曲げながら言う。
樹人の顔が口惜しさに歪んでいるかと期待したハルだったが、相変わらず能面のままだった。
「……ところで、この村の蔦が、分解を試みる対象がどんなものだったか覚えているかな?」
「……?」
「人間の手によってその有り様を著しく歪められたものを選別し、森は蔦を使って溶かす。これは、兵器と呼ばれる類のものを進化させないための抑止力だ。では、我々はどのような判断基準で、それらを特定していると思うね?」
「何を……」
背筋を這い上がってきた悪寒に、ハルは身を起こす。
「思い出して欲しい。この村でその姿を保っていられなかった物質が、どんなものだったかを」
「……」
聖堂の建材として使われていたはずの金属の梁。木の枠にはまっていたガラス。そして、ユーリが持ち込んだこの剣……。
一方で、同じ加工品でも、木を削っただけの器や、繊維を紡いで織った服、皮を割いて縫い合わせた靴などは標的にはされていない。
「まさか……」
自身の推察を口にすることが出来ない。
もし、それが間違いでないとしたら、今ハルがしたことは。
今、してしまったことは。
「そう。『意図的に熱を加えて変質させたもの』だ」
その言葉が合図だった。
ハルが開けた入り口から、数十本の蔦が幹の中になだれ込んできた。
ハルがユーリの体に駆け寄ろうと一歩踏み出す前に、蔦はユーリの胴体に絡みついた。
「……くそっ!!」
剣を拾うが、抜刀を封じるように鞘と鍔にも蔦が絡まる。
有無を言わせない力で剣が引っ張られる。
離すまいと縋り付くハルの体を易々と宙に持ち上げ、壁に向けて叩きつけた。
背中をしたたかに打ちつけて、ハルは言葉もなく地面に倒れこんだ。
明暗を繰り返す視界の中で、蔦はみるみるうちに本数を増やし、ユーリの胴体、四肢、首と頭を覆い尽くす。
その様は、まるで貪欲な食虫植物の食事風景のようだった。
あっという間にユーリの全身は蔦の波に飲み込まれていった。
「……どうして……」
呆然と呟く。
ユーリは、この森に食われる。血を失うだけでは飽き足らず、全身を溶かされ、跡形もなく消し去られる。
結局、ハルの奔走は無意味だった。
体に力が入らない。
ついさっきまで剣を振り回して、ユーリを抱えて駆け回っていたことが信じられない。
ただ目の前で繰り広げられる残酷な光景を、眺めていることしか出来なかった。
こんな場面でも、ハルの記憶は彼に既視感を与える。
……どこかで、こうなることを予想していたのかもしれない。
自分の力では、世界を変えることなどできない。
希望を鼻先にぶら下げられて走り回り、疲れ果てて倒れこむ。
いつものことだ。
だからこそ、あの木の根の中から出たいとも思えずにいた。
彼女が声をかけて来なければ、あそこで朽ち果てていけたのに。
そう望んでいたはずなのに。
「……」
声を思い出す。
生きることに疑問を持たない、屈託のなく芯のある言葉たち。
……彼女だけは、どこかが違うと感じていた。
眩しすぎて目を背けたくなるような、暖かな輝きに満ちていた。
奪われてから気づく。自分は、その光が翳ることが許せなかった。
……許せなかった?
諦めたのか、と自問する。
自分一人が空回って失望するのは構わない。
多分、ずっと繰り返してきたことなのだから。
だが彼女は違う。
こんな泥沼に、足を踏み入れてはいけないはずだ。
怒りのままに、蠢く蔦を睨みつける。しかし、体は痺れたように動かない。
だからせめて、叫んだ。
何になるかなど考えもせず、ただ声の限り、彼女の名前を。
「ユーリ!!」