11
「……えいっ!」
サーベルの切っ先が蔦の隙間に食い込む。ほとんど当時に、蔦の断面が触手のように蠢いて剣に絡みつく。
「もう……このぉっ!」
綱引きのような動作で剣を引き抜くユーリ。構え直す頃には、壁の傷はすっかり修繕されてしまっていた。
荒い息をつきながら、ユーリは幅の狭い肩を落とした。
「ダメかぁ……」
木の根に穴を開けたときのようにはいかないようだ。それどころか、気を抜くと剣を絡め取られてしまいかねない。
渋々剣を鞘に収めた後で、ユーリの体がぐらりと揺れた。
「……あ、あれ……?」
ハルが慌ててその背中を支えて、手のひらに触れた冷たい感触に驚く。
左の二の腕から広がった血のシミが、チュニックの肩甲骨のあたりまでを覆っていた。
ふらついて当然だ。小柄な彼女の体を考えると、その失血量はすでに危険域に達しているのかもしれない。
言葉を失う。あまりにも呆気なく、悪意は結実しようとしている。
「ちょ、ハル……。放して。大丈夫、ちょっとふらっと来ただけだから」
我知らず両手に力が入っていたことに気づいて、ハルは慌ててユーリを解放した。
ユーリは目を逸らしたまま、何故かしきりに髪の乱れを手櫛で整えて、居心地悪そうに身じろぎする。
その場違いとも言える反応を目の当たりにして、ハルは更に焦りを募らせた。
危機に陥っている本人は、事の重大さを実感していない。状況がどれだけ彼女に過酷な仕打ちをしているか、きっと死に際に追い詰められるまで理解はしないだろう。
もしこのまま失血を止めらなかったら?
ユーリの瞳に灯る活力の光が、絶望や諦念にかき消される様を目の当たりにすることになったら?
「……っ!」
そんなこと、耐えられない。
意を決して、ユーリの左腕を掴む。二の腕の下に体を潜り込ませ、肩を貸す。
「な、な、なに?!いきなり!?」
「黙って」
「やだ、ちょっと……っ、放して!」
「っ暴れないで。出血がひどくなる」
「一人で歩けるから!」
「……ダメだよ!」
叫ぶ声に、抵抗が止まる。
「……頼む。嫌かもしれないけど、僕の言う通りにして欲しい」
「い、嫌っていうか……」
「こうしてれば、傷口が心臓より高い位置になる。少しはマシになるはずなんだ。あと、体重は預けていいから、出来るだけ体力を温存して。心拍数が上がると、出血も進んじゃう」
「でも……」
なおも異存を唱えたそうなユーリを引きずるようにして、ハルは歩き出す。
「戻れないなら、先に進むしかない。樹村の奥がどれくらい深いのか分からないけど、何とかして抜け出さないと」
「……」
「急ごう。ほら」
納得はしていない様子で、それでもとりあえず黙ったユーリ。強張っていた体が脱力して、ハルの肩にかかる重みが微かに増した。不安になる程軽く、柔らかい感触だった。
再び幹の道に差し掛かる前に、ユーリの腕をしっかりと担ぎ直す。乾いた血が手のひらにこびりついてカサつく、嫌な手触りがした。
腹を決めて登り出す。数十歩も行かないうちに、自分が体力に自信がある方ではないことを思い出す羽目になった。
息が乱れる。全身に汗が滲む。
しかし体を預けろと言っただけに、弱気は見せられなかった。
歯を食いしばって歩を進める。
坂道の上に、村人たちの人だかりが見えた。緑のローブ姿の5、6人の男女が、一様に警戒するような視線をこちらに向けている。
ゆっくりと二人が近づいていくと、示し合わせたように人だかりは解散して、それぞれ別々の木の家の中へと姿を消した。
助けの手を差し伸べてくれるような村人の存在は、期待できない様子だった。
あてにしていた訳でもないが、こうまで露骨に見て見ぬ振りをされるとも思っていなかった。
憤りとともに、また少しハルの胸の中に巣食う靄が色濃くなる。
歯嚙みをして、意地になって歩調を早めるハル。
「……もし、私がさ」
不意に、呟くように切り出すユーリ。
「……今、『私なんかどうなってもいいから、放っておいて』って言ったら、どう思う?」
ハルは足を止めて、息がかかるほど近くにある横顔を睨みつけた。
「……ムカつくでしょ?」
血の気が失せかけている顔を微かに背けて、ユーリは小さく笑った。
「最初の木の中で、キミが言ったのは、そういうことだったんだよ?私の気持ち、分かった?」
そう遠くないはずの記憶を辿る。たしかにハルはあの時、あの木の中で朽ち果てても構わないと思っていたし、そう伝えた気がする。
「……そっか」
仕返しをされたのかと納得して、ハルは小さく曖昧に答え、また足を進める。
お互いを助けようとする二人の行動は、似ているようで明確に異なるものだ。動機が全く違う。
ハルが今意地になっているのは、自分たちに向けられた悪意に対する反発だ。ユーリのように、純粋な倫理観や親切心に衝き動かされている訳ではない。
自分とユーリの間に横たわる境界線のようなものを感じる。
生き続けることに疑問を持たないこと、考えるより先に動き出せること、そして、剣を与えられていたこと。
ハルにとって、自分と違うそんな彼女は、理解し難く、妬ましく、少し疎ましく、少し眩しい。
今はまだ、すべての気持ちを合算してユーリをどう認識しているのか、はっきりしない。
だからこそ、自分の中の衝動を強く信じることができた。
こんな顛末で、罪もない命が失われて良いはずがない。それだけが、彼にとって疑いようのない確信だった。
どれくらいそうして登り続けていたか。
幻想的ではあるが、代わり映えのしない風景に変化が現れたのは、負荷に耐えかねたハルの足が小刻みに震え始めたのと同時だった。
木の家を見かけなくなった。視界の中には、螺旋を描く幹の道と、樹村全体を覆い尽くす蔦の壁のみ。
蔦の隙間から漏れ入る陽光が、針のような形の日向を無数に作り上げる。
埃か、それとも何かの胞子なのか、舞い遊ぶ無数の小さな粒が、光を受けて瞬くように輝く。
天国へ続く道というものがあるとしたら、こんな風なのかもしれない。そう考えかけて、ハルは小さく頭を振った。
幻想的な雰囲気に飲まれてはいけない。この世界は、おとぎ話のように優しくなどない。
「……ハル、見て」
「ん?」
十数分ぶりに口を開いたユーリの声は、幾分か弱々しくなっていた。
「上。行き止まり、かな?」
促されて仰ぎ見る。
幹の道の行き先が、円盤状に広がっているのが見て取れた。下からは裏面しか確認できないが、ユーリの言う通り、道としてはそこから先は繋がっていないように見えた。
蔦の壁も、円盤の真上あたりでドームのように内側に窄まってしまっている。
村からの出口がその先にあるとは思えない。
「……大丈夫。あの上に、何かあるはず」
「……」
ハルの発言の根拠について尋ねかけて、思い直したように口を閉ざすユーリ。
命の危機を感じ始めているはずの彼女が、無言で自分に身を委ねている。その重責に、ハルは自身の喉を締め付けられるような息苦しさを覚えた。
しかし、間違いない。
今までこの村付近で見てきた事柄から、この先がただのデッドエンドであるはずはない。
確信と言う名の鞭を自身に振るい、最後の長い坂に差し掛かる。
近づくほどに、目指す円盤状の足場の異様な巨大さを実感する。遠近感がおかしくなりそうだった。
到着してみると、円盤の広さは直径にして実に7,80メートル。
そしてその中央には――
「ハル……。これって……」
「……ああ」
二人がこの世界で目を覚まして一番最初に目にした、洞を持つ木がそびえ立っていた。