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月に喘ぐ  作者: sadaka
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血色の和平(10)

 月のない夜の闇がいつの間にか全てを呑み込み、窓から差し込む夕陽によって長く伸びていた影が姿を消していた。室外を人間が行き交うような足音も聞こえず、冷えきった一人きりの室内には押し殺した呼気と自身の身動ぎだけが物音を生み出している。物の輪郭も体も自身の存在意義すらも溶け込ませてしまった闇の一点を見据えたまま、海雲は己の行動の意味を考え続けていた。


――本当に、これで良かったのか?


 囁く声が、聞こえ続けている。否と答える自身の声も、やまない。取り返しのつかないことをしてしまったのだと、思ってみる。だが、これで良かったのだと自分の声が打ち消した。

(……もう、済んだことだ)

 相反する思考の収拾に疲れ果てた海雲は息を吐き、室内に置かれている椅子に腰を下ろした。目を閉ざすと室内よりもさらに昏い闇が間近に迫ってくる。だが身を委ねてしまおうとしても、囁く声は次から次にあふれ出してきた。思考を閉ざすことすら出来なくなってしまったのかと、海雲は自嘲を零す。しかしすぐ、彼は真顔に戻った。

「……誰だ?」

 違和感のようなものを覚え、海雲はそんな言葉を口にしてみた。だが問いかけに対する反応はどこからも返ってこない。目を開いてみても闇があるばかりで、室内には誰の姿もなかった。それでも、何かいるような気がする。

(羽音……?)

 静寂に耳を澄ますと、微かな異音が聞こえてきた。目に映るような異物はないものの、どこかで翅を羽ばたかせているような音がしている。虫か何かが立てる覚えのある音だが、雪を被った山中で彼らが活動しているとは思えなかった。しかし誰かに見られているような不快感は継続しており、海雲は眉根を寄せながら言葉を次ぐ。

「気配の絶ち方でどれほどの使い手かは解る。俺を殺せとでも命じられたか」

 暗殺者が闇に潜んでいるのかと思い、試しに挑発してみた。だがやはり何の反応もなく、室内には静かな闇があるだけである。

(殺意も感じられない。何が目的だ)

 相手に明確な目的があるのならば、気配は察しやすい。だが今相手にしている者には意思が感じられず、そもそも本当にそんな相手がいるのかどうかも分からなかった。こんな経験は初めてのことであり、海雲は朦朧とした思いを拭えないまま席を立つ。刹那、室内に白い光が溢れた。

 突然の発光は自然現象では有り得ないほど不自然なものだった。不意を突かれたため目を焼かれてしまった海雲はとっさにしゃがみこみ、腰に差していた短刀を抜く。だが何者かに襲われるようなこともなく、白光は次第に収まっていった。しかし目を閉ざしたまま気配を探っていた海雲は室内が闇を取り戻したことを感じても動かないままでいる。周囲に気を配ったまま瞬きを繰り返し、ようやく目が慣れてきたところで海雲は改めて辺りを窺った。

 白光が現れる前と変わらず、室内は夜の闇に包まれていた。だが目前に、それまでなかったものが出現している。片膝を床についたまま顔を上げた海雲は、その正体を見極めて息を呑んだ。

(女?)

 海雲の目前には白い服を着た女が佇んでいた。闇に溶け込まない金の髪は艶やかな流れとなっており、白い服が独自の発光体のように光って見えるせいで面立ちを窺うことすら出来る。澄んだ湖底のような碧眼で海雲を見据えている女は、形のいい唇ゆっくりとを開いた。

「あなたは、死が恐ろしいのですね」

 囁くような小声で紡がれた言葉は、歌うように滑らかだった。まるで神聖な言葉を聞かされているようで海雲は凍りつく。

(死が……恐ろしい?)

 女の言葉を胸中で繰り返しながら海雲は考えを巡らせた。自らの死は、恐ろしくない。必要ならばいつでも捧げる覚悟は出来ている。恐ろしいのは他人の死だ。それも、大切な人なら……。

大聖堂(ルシード)はすでに時代の潮流に乗っています。これから多くの命を犠牲にするでしょう。あなたも、あなたの友も、その流れに逆らうことは出来ないと思います」

 碧眼に途方もない哀しみを滲ませ、女が言う。彼女の苦しみが計り知れないほど深いものであることを感じ取った海雲は微かに眉根を寄せた。しかし問いかける言葉はなく、それが自然なことのように女も淡々と言葉を次ぐ。

「せめて、涙を。あなたと、友のために。これで最後にします」

 瞼を下ろした女の目から、透明な涙が零れ落ちた。そして彼女は背を向けて、扉へと歩き去って行く。静かに扉が閉まって女が姿を消してからも、海雲はしばらく動くことが出来ずにいた。

「……聖女?」

 うわ言のような自分の言葉で海雲は我に返った。夢から醒めたように体を浮遊感が包んでいる。あれが、大聖堂の聖女だったのだろうか。海雲にはまるで彼女が人間ではないもののように感じられた。

(死へ向かう流れ……)

 女が残した言葉の意味を考えていた海雲はハッとして顔を上げた。今、死は海雲の方を向いていない。魅入られているのはアゼルの方なのだ。

「……アゼル!」

 抜き身のまま手にしていた短刀を腰に差し、海雲は慌てて部屋を飛び出した。アゼルが何処に連れて行かれたのか分からないので平らな石が敷き詰められている廊下を闇雲にひた走る。赤月帝国の王城よりも広大な敷地面積を誇る大聖堂の本拠において、その部屋を探し当てることが出来たのは奇跡に近かった。

 人の気配のする部屋へ飛び込んだ海雲が目にした光景は思い描いていた通りのものだった。いや、現実は予想よりもさらに惨い。その室内にいたのは身なりを正している上層部の者とは思われない貧民達であり、その足下にはぐったりとしたアゼルがうつ伏せに倒れこんでいた。海雲が入ってくるまで暴行を受けていたのだろう、力なく頭を上げたアゼルの顔には裂傷がある。話し合いに赴いたはずのアゼルがどうしてそのような姿になっているのか、経緯を見ていない海雲には知る由もない。だが立場など役割など何も関係なく、海雲は殺してやりたいと思った。

「駄目だ!!」

 アゼルの放った叫びがなければ、海雲は室内にいる者を皆殺しにしていただろう。一歩を踏み出す機会は失われてしまったものの憤りは堪えられず、海雲は歯を噛み合わせる。

(どうしてだ!)

 何故、どうして殺してはならないのか。殺さなければ殺されてしまうのに、何故。

(死なせる訳には、いかない)

 例え一生恨まれることになろうとも、その方がアゼルを失うよりよっぽどましだ。やはり殺さなければならないと思った海雲はすでに握っている短刀に力をこめる。その動作を目にしたからなのか、アゼルは体をふらつかせながら立ち上がった。

「海雲!!」

 まるで固着しようとしている蔦のように、走り寄って来るアゼルに魔手が伸びる。その腕を払うために、海雲は走り出そうとした。己の命と引き換えにしてでも護らなければならないと、思ったのだ。だが意思とは裏腹に、海雲はその場に膝をついた。無意識に腹に伸ばした手が、ぬるりとしたものに触れる。

(……アゼル)

 声にならない呟きが微かに開いている唇から零れ、海雲はその場で崩れ落ちた。

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