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月に喘ぐ  作者: sadaka
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血色の和平(8)

 途中で幾度も吹雪に見舞われ、予定よりもかなりの日数がかかってしまったが、赤月帝国を発した使者はようやく大聖堂(ルシード)の本拠地に辿り着いた。神山の八合目付近に存在している大聖堂の本拠は聞き及んだ通り、遺物を使用している。遺跡の全体像は切り出した石を用いて造られた神殿風の建造物であり、それは宗教を笠に着ている大聖堂らしい本拠であった。

 到着してからさらに数日が過ぎ去ると、海雲は雪ばかりの景色を眺めることに飽きを感じ始めていた。神山の高みは耳が痛くなるほど無音に近い世界であり、広大な神殿の内部では人が動く気配すらあまり感じられない。特に監視をつけられてもいないようだったので、海雲は暇を持て余した挙句に独白を零した。

「待たせるな」

「大聖堂は複数の人間が指揮を執っているのだろう? ならば、また何か問題が起きたのかもしれない」

 海雲の独白に応えたのは、アゼルである。彼らは神殿内の一室に身を置いていて、室内には他の同行者達の姿はない。それにはある事情があり、アゼルの発言を受けた海雲は腕を組んで考えを巡らせた。

 大聖堂は赤月帝国からの使者が到着するなり、見解の相違があったので交渉は少し待ってくれと言ってきた。そしてその後、使者の数が多すぎるので減らせと注文をつけてきたのである。赤月帝国の一行はその条件を呑んだのでアゼルと海雲だけが神殿に残り、他の者は神殿に併設されている宿舎と思しき建物へ移動したのだ。だがそれは上辺だけの話であり、海雲は密かに里の者を神殿内に潜ませている。あれこれと言い訳めいたことを言い出しては会談を先延ばしにしている大聖堂の態度は警戒してくれと言っているようなものだったからだ。

(おそらく、調べたな)

 使者として敵地に赴いた赤月帝国の王子が、本物なのかどうか。それはこちらの誠意を量ろうとしているのか、それとも良からぬ企てのためなのかは分からない。だが注意しておくに越したことはないと思った海雲はアゼルを見据えて口火を切った。

「真っ当な話し合いが行われるとは考えるなよ。何が起こっても動じないよう、覚悟はしておけ」

 海雲の言葉を聞いたアゼルはおもむろに顔をしかめた。その表情には策略を巡らせることに対する嫌悪感が浮き彫りになっているが、それは大聖堂とて同じである。牽制しておくつもりで、海雲は言葉を続けた。

「騙されるなよ、アゼル」

「騙しているのは、どちらだろうな」

 まるで海雲に反発するかのように、アゼルは嘲笑(わら)った。その反応は予想外のものであり、海雲は目を見開く。

「アゼル、お前……」

 運の悪いことに扉を叩く音が声に重なり、海雲は呆気にとられたまま閉口した。海雲から視線を逸らしたアゼルは、そのまま扉の外にいる者の対応へと向かう。海雲はアゼルの背中を見つめながら不安が確信に変わってしまったことを実感していた。王の考えを、アゼルは間違いなく否定しようとしている。国の営みに伴う闇を知らない彼は駆け引きを卑怯だと思っているのかもしれなかった。

(ただ誠実なだけでは駄目なんだ)

 善人ほど長生きの出来ない世において、アゼルの考え方は危険である。いつか頃合を見計らって言い含めなければならないと思った海雲は苦い気持ちになりながら戻って来たアゼルを見つめた。

「決まったのか?」

「ここから先、話し合いには俺が一人で行く」

「……は?」

 アゼルの発言に耳を疑った海雲は思わず間延びした声を上げていた。だがアゼルは表情を動かすことなく、海雲の返答を待っている。次第に怒りがこみ上げてきたのでアゼルの横を素通りし、海雲は大股で扉へと向かった。

「すまないが、出て行ってくれ」

 大聖堂の手の者を問答無用で押し出し、海雲は荒々しく扉を閉ざした。扉の前からは動くことなく、海雲はその場で背後を振り返る。アゼルも真顔のままこちらを見ていたので、海雲は憤りを必死で押し込めながら口火を切った。

「自分が何を言っているのか、解ってるか?」

 敵の本拠地に赴くこと自体、どれほど危険なことなのかアゼルは承知しているはずである。にもかかわらず、たった一人で話し合いに臨む? 殺してくれと言っているようなものだ。

「解っている。だが彼らは、俺一人ならば話し合いに応じると言っているのだ。仕方がないだろう」

「アゼル!」

 アゼルが平然と命を投げ出す意思を見せたので海雲は声を荒げた。それでも、アゼルは表情を変えることなく静かに佇んでいる。海雲は一つ息をつき、冷静さを取り戻そうと努めながら声の調子を落とした。

「姫が、おっしゃっていただろう。本当に解っているのか、と」

 菜の花の辛辣な言葉は、兄を想ってのものである。アゼルにもそのことはしっかりと伝わっていたし、まして忘れたわけではあるまい。だが彼は己の立場を顧みず、妹や父の親愛をも振り切り、無謀なことをしようとしているのだ。絶対に思い止まらせなければならないと思った海雲は間を置かずに言葉を続ける。

「白影の里の……赤月帝国を護る者達の長として、行かせる訳にはいかない。こちらが一人でなければ話し合いに応じないと言うのであれば、俺が行く」

「海雲……聞いてくれ」

「駄目だ。王は、お前に王位を譲るとおっしゃられた。この意味を、もっとよく考えろ」

「……海雲、俺は人間(ひと)を信じたい」

 その一言にはアゼルの切実な想いが込められており、海雲は返す言葉に詰まった。海雲が怯んだことを見逃さず、アゼルは矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

「もう一度、信じてみたい。そうしなければ王になどなれない」

「……駄目なものは駄目だ」

「王位継承者以前に俺は一人の人間だ。人間(ひと)人間(ひと)を信じなければ生きていけない」

「信じられる相手と、それに値しない相手というものがいる」

「俺はそうは思わない」

「アゼル、こんなことを言いたくはないが、お前は世間を知らなさすぎる」

「……実際、俺は世間知らずなのだろう。だが俺は、それでも信じたい」

「アゼル……何度も言わせるな」

「他人を責め、傷つけ合い、欺き合うことしか出来ない人間などいない」

「…………」

「お前の言っていることは、おそらく正しいのだろう。だがお前は話もせずに相手の真価を見極められる人間なのか?」

 アゼルの問いかけに対する答えを持ち合わせていなかった海雲は閉口して目を伏せた。彼が切実であればあるほど悲しく、その問い自体に意味がない。他人の真価など、誰もが決して掴むことの出来ないものだからだ。

(何故……アゼルは王族になど生まれてしまったんだ)

 いまさら嘆いてもどうにもならないことだが、分不相応な境涯を呪いたくなった海雲は唇を噛んだ。人間を愛し、無差別に信じることが出来るのは素晴らしいが、今この場においては、その考えは必要ないのだ。悲しいほど一途な考え方しか出来ない友人を、けれど海雲は見送る訳にはいかなかった。

「……駄目だ。なんと言われようと、お前を行かせる訳にはいかない」

「解って、もらえないのだな」

 悲しそうに呟いたアゼルは諦めを滲ませながら空を仰ぐ。アゼルの表情を盗み見た海雲は心が鎖で縛られていくような苦しさを覚えた。アゼルを見送ることは見殺しにするも同じである。しかしこの機を逃せば、彼は一生立ち直れなくなるかもしれない。

(本当に、これでいいのか?)

 諦めがつかないのはアゼルだけでなく、海雲も同じであった。己の内で繰り返されている問いに答えを見出そうと考えこむ海雲の耳に、王の言葉が蘇る。

『可能性を否定しすぎてはいないか?』

 王の言葉は真意のようでいて、真意ではない。だが混沌としている思考の片隅で、海雲は否と呟いた。滞在している敵国の人員を減らし、相手は何をする?

(決まってる、人質として捕らえるためか殺し易くするためだ)

 しかし、こちらが素直に応じたならば本当に話し合いに応じようとしているのであれば?

(まったく誠意を見せない相手だ、それはない)

 それでも、こちらから誠意を見せれば相手が変わらないという保証もない。

(アゼルが信じたがっているのも、そこか)

 ここに至って海雲はようやく納得のいく答えを得たが、危険ばかりで利益がないに等しい賭けであることには変わりがない。そのような賭けにアゼルが身を投じることは、あってはならないのだ。しかし……。

『私は王としては失格者だ。だが人間としてそれでいいと、私の心が言う』

 墓前で明かされた、海雲以外の者には決して口外されることのない王の本心。そしてそれは王だけの想いではなく、アゼルもまた同じであることを海雲は知っていた。

(……王……)

 瞼の裏に焼きついている初老の男の残像に、縋るように呼びかける。だが現実にはこの場にいない彼には海雲の求めに応じることは出来ない。知らずのうちに空を仰いでいた海雲は目を開け、彼の性根をしっかりと受け継いでいる息子を見つめて嘆息した。

「……わかった。行けよ」

「海雲、」

「俺はもう何も言わない。だが王のお言葉だけは、忘れるな」

 力強く頷き返したアゼルは気力を取り戻した顔つきになり、海雲が開けた道を通って去って行く。この決断がどんな悲劇をもたらしてしまうのか、確かに予感してしまった海雲は脱力して俯いた。

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