血色の和平(6)
一時は戦渦に呑まれたものの、赤月帝国には再び平穏な日々が戻って来た。太陽が昇れば仕事に行き、仲間にどやされながら働き、日が暮れれば酒場へと繰り出すというサイゲートの日常にも変化はない。夜毎に繰り返される母と娘の口論も健在であり、呆れと逞しさを同時に覚えたものだ。だが、もはやこの平穏は一時のものでしかない。そのことを知っているサイゲートは舞い戻ってきた日常に身を置いていながらも、以前とは違った何かを感じながら日々を過ごしていた。心持ちが変わったのは海雲に渡された小瓶のせいかもしれない。
「サイゲート」
自室で液体の入った小瓶を眺めていたサイゲートは扉の外から聞こえてきた呼び声に顔を上げた。家人の目に触れないよう小瓶を寝台に隠してから、サイゲートは扉を開ける。するとそこには親方が佇んでいた。
「今日は少し早いですね。もう行くんですか?」
「いや、今日の仕事は中止だ」
仕事に出かけるものだとばかり思っていたサイゲートは親方の発言に首をひねった。サイゲートが疑問を感じていることを見て、親方は言葉を次ぐ。
「さっき報せが回ってきた。王から話があるとかで、城の広場へ来いとさ」
特に表情を変えることもなく告げると親方はさっさと踵を返した。まだ眠たそうにしている夫人と娘も姿を現したので、サイゲートは奇妙な感覚に囚われながら親方の後を追う。
(……なんだろ)
この家の母と娘は朝に弱く、サイゲート達が仕事に出かける時は大抵眠ったままである。そのため親方もサイゲートも自分で朝食を用意するのだ。そんな人物も起き出してきているところを見ると、召集されているのは国民全てのようである。果たして、朝方の街にはいつになく人出があった。だが召集されている理由が不鮮明なので城へと向かう人々の顔には不安が浮かんでいる。自然と口数も少なくなっており、サイゲートは人出にそぐわない静けさの中を歩いていた。
赤月帝国の王城は街のほぼ中央に位置している。絶壁の聳え立つ城の西部には人が住んでいないが、それ以外の三方には民家などの建造物が連なって街並みを形成しているのだ。西部を除く三方から集まってきている人々は一様に、堀を渡る唯一の手段である橋を目指している。そのため外堀からして混雑しており、城へ辿り着くまでにはかなりの時間がかかりそうだった。
少し進んでは立ち止まり、また少し進んでは立ち止まって待つという行動を繰り返していたサイゲートはふと、続々と橋を渡る人々の姿に目を留めて顔をしかめた。一時は戦場となった橋に多くの人間が集まっている光景は嫌な記憶を呼び覚ます。今この場所に集っている人々が何も知らずに渡っている橋の下には敵味方を問わず多くの死者が沈んでいるのだ。
複雑な思いを抱きながら橋から視線を外したサイゲートは次に、巡回している兵に目を留めた。戦時中のように防具を身につけている彼らは混乱が起きないよう人々を誘導しているのだが、その中に知った顔がある。勤務中に声をかけては悪いと思ったサイゲートは意思表示をしなかったのだが、彼らの方がサイゲートに気がついて走り寄って来た。
「サイゲート様」
一国民にすぎないサイゲートを『様』づけで呼ぶのはアゼルの私兵達である。彼らは主が不在なので、王城内の様々な仕事を振り分けられていた。背中に人々の好奇の視線を感じながらサイゲートは戦友達に苦笑を向ける。
「もう大丈夫なのか?」
「はい。命懸けで王子をお救いいただいたこと、聞きました。ありがとうございます」
一人が深々と頭を下げたので後の者もそれに従った。公衆の面前で低頭されたのでサイゲートは慌てて声を上げる。
「やめてくれよ」
彼らは王子に忠誠を誓っているが、そんな仰々しい関係の以前にアゼル個人が好きなのだ。だから彼らは危険を顧みず、アゼルに従った。忠誠というものがないだけで、サイゲートも彼らとほぼ同じなのである。
「もう行くよ。後がつかえてるからさ」
先へ進むこともなく傍観している者達がいたので、サイゲートは話を切り上げてそそくさと立ち去った。人出がすごいので親方達とはぐれてしまったものの、サイゲートはあまり気にすることもなく行列に参加する。長い時間をかけて堀を渡った後は人の流れに従って王城内へと向かった。サイゲートが城内一階の広間に入ってから、どれだけの時間が経過しただろう。やがて中二階に王が姿を現すと、人々は一様にそちらを見上げた。開戦を告げた演説の時とは違い、今は王一人が舞台に立っている。彼の傍にはアゼルの姿も、海雲の姿もない。そのことが妙に物悲しく、サイゲートの胸を重くさせた。
「多くの民を危険に晒し、また多くの民の命が奪われた。それは私の責任だ」
突然、王は国民に向かって頭を下げた。しかし静まりかえっている広間にはどよめきも、囁きも起こらない。絶句ともまた違う白々しい空気が、その場を支配していた。常人であれば顔を上げることすら躊躇うような沈黙の中、姿勢を正した王は淡々と言葉を次ぐ。
「この度、我が国は和解交渉のための使者を大聖堂へ送った。だが交渉とは相手のあるもの。相手の出方次第ではどうなるか分からない。再び我が国を戦火が襲うことも、あるだろう」
再び戦渦に巻き込まれるかもしれないと知ると、今度は人々の顔にも表情が生まれた。また、家を失うのか。また、大切な人を奪われるのか。また、自身の命を失うかもしれない恐怖に駆られるのか。囁く声はなかったものの、広間にはそういった不安が渦巻いていた。
(ちがう、本当に怖いのは何もしないことだ)
周囲の人々の顔を見て、サイゲートは強く思った。平穏な生活を奪われることはもちろん恐ろしいが、それ以上に無力を痛感することは恐怖である。気力が萎えてしまえば絶望を覚え、苦しみだけが残るからだ。サイゲートはそうした考えを抱いているものの、どうすれば人々に理解してもらえるのかまでは分からなかった。
「長く我が国を戦火から護ってくれた森は、もう亡い。一度敵を退けても、もはや我が国は争いに巻き込まれることを避けられないだろう。赤月帝国にも間もなく本当の戦乱が訪れる。そのことを、知っていてもらいたい」
重苦しい言葉で王の演説は終わった。王が姿を消すと広間に集まっていた人々も退場を開始する。あちこちで上がっている不安の声に耳を傾けながら、サイゲートは自分に何が出来るのか考え始めていた。
大聖堂の本拠地は赤月帝国の北東にある神山の中に存在している。神山の八合目付近にはいつの時代の物とも知れぬ遺跡があり、新興国家である大聖堂はその住居跡を本拠地としているのだ。配下からそうした報告は受けているものの海雲自身は大聖堂の本拠地を目の当たりにしたことがなく、雪深い山の中では目指す建造物もまだ見えていなかった。
「アゼル、少し休もう」
雪を被った山を登るのは想像する以上に厳しい。アゼルは愚痴を零すこともなく黙々と歩を進めていたが、彼の体調が気がかりだったので海雲は小休止を告げたのだった。やはり慣れない山道を登るのは辛いようで、アゼルは無言で賛成を示す。足を止めた海雲は頂と思われる方角を仰ぎ、同行している里の者に声をかけた。
「まだ遠いな。あとどれくらいだ?」
「そうですね……あと五日というところでしょうか」
「そんなにか」
雪山に進入してからすでに二度ほど夜を迎えており、海雲はうんざりしながら嘆息した。里の若い者は傾斜があるので下りは楽だと笑っている。軽口に付き合う気分でもなかったので海雲は辟易しながら顔の横で手を振り、黙るよう指示を出した。
「使者はもう着いたのだろうか」
道案内は不要だったので、赤月帝国に出向いてきた大聖堂の使者には一足先に帰ってもらった。同じ道を辿っているのかは定かではないが、一行は今まで使者の痕跡に出会ったことはない。アゼルが不意に零した一言を受けて海雲はあることを思い出した。
「何か、移動手段があるんだったな」
海雲が振り返ると里の者はすぐさま頷いて見せた。アゼルが興味を示したので、海雲は簡単に説明を加える。
白影の里は戦が始まる以前から大聖堂について調べていた。その報告の中には往来する人間が山中で忽然と姿を消すといった不可解なものがあったのである。さらに詳しく調べていくうちに、人間が突然姿を消すのは何か乗り物のようなものを使用しているのだということが解った。しかしその全貌は、未だに不明である。
『乗り物』のことも含め、大聖堂には不可解な点が多い。誰も見たことがないような高度な技術を保有しているのであれば兵器の開発などもしているのだろうが、今回の戦においても目新しい武器などは何もなかった。むしろ大聖堂の兵が使用していたのは刃こぼれしているようなお粗末な武器ばかりであり、彼らには防寒具すらまともなものがないのだ。もっとも大聖堂の上層部が兵としている流民を捨て駒としているのであれば、筋の通る話ではある。そこまで考えたところで思考を中断し、海雲は話を元に戻した。
「おそらく、使者はそれで帰ったんだろうな。もっとも同行すると言っていたらそんなものは使わないんだろうが」
海雲の口調が皮肉混じりだったため、アゼルは反応を示さなかった。同行者達も閉口していたので静かな雪山に沈黙が流れる。海雲は不用意な発言をしたかもしれないと思ったが、後悔はしていなかった。
「……行こう。雪が止んでいるうちに距離を稼いでおきたい」
やがてアゼルがぽつりと呟いた。その意見には同感だったので海雲も無言で歩き出す。山の天気は変わりやすく、使者の行く手には暗雲が広がり始めていた。




