血色の和平(5)
冬になると雪の日が多い赤月帝国において、厚い雲間から太陽が顔を覗かせるような日は稀である。だがその日は雪雲が何処かへ姿を消し、赤月帝国に住む者は久方ぶりに太陽の機嫌を伺うことが出来た。雲が取り除かれた分だけ寒さが厳しくはあったが、旅路には好条件の日に赤月帝国から大聖堂に向かう使者は出立したのである。
海雲とアゼルが出立したのを機に、サイゲートは王城を出て家に戻ることにした。いつまで経っても慣れなかった異様に広い部屋で少ない荷物をまとめた後、サイゲートは窓辺を振り返る。
「何か言いたいことがあるんじゃないんですか?」
サイゲートが話しかけた相手はアゼルの妹である菜の花姫だ。理由は分からないが彼女は朝から押しかけてきて、特に喋るでもなくそこにいた。
「ねえ」
窓の外に視線を固定したまま、菜の花が口火を切る。サイゲートが返事をすると彼女は窓から視線を転じて言葉を次いだ。
「どうして見送りに来なかったの?」
真っ直ぐに見据えてくる菜の花の瞳には不可解さと少しの非難が窺えた。何を言い出されるかと身構えていたサイゲートは思わず拍子抜けする。
和解交渉の使者であるアゼルと海雲は、今朝早くに赤月帝国を発った。このことはまだ国民に公表されていないので、見送りの人員は王や大臣などの要人だけである。サイゲートはそのような場に立ち会おうという気すらなかったのだが、菜の花の目にはそれが不可解に映ったようだった。
「べつに、最後の別れって訳じゃないですから」
「意外に冷たいのね」
菜の花の発言は友人の見送りにも出向かないサイゲートを責めているかのようにも受け取れるが、実はそういうわけでもない。彼女はただ、本当に切り出したい話題が別にあるのにわざとはぐらかしているだけである。その理由も何となく解っていたが、そのことよりもサイゲートが驚いたのは知り合って間もないにもかかわらず菜の花が案外心を開いてくれているということだった。
「アゼルのことですか? それとも、海雲のことですか?」
本当は菜の花自身から引き出そうと思っていた彼女の真意を、対応に困ったサイゲートは思わず口にしてしまった。サイゲートの問いかけには脈絡がなかったので菜の花は眉根を寄せる。
「何が?」
「文句があるのは」
サイゲートが言うと、菜の花は吹き出した。もっとマシな言い方はなかったのかと自身の発言に呆れているサイゲートには構わず、菜の花は明るい声で笑い続けている。ひとしきり笑った後、菜の花は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら顔を傾けてきた。
「イヤな奴ね、サイゲートって」
「……でも、そうなんでしょう?」
「もう! うるさいわよ」
唐突に寝台へ向かった菜の花は枕を掴み、それをそのままサイゲートに投げつけてきた。だが菜の花には腕力がないため、枕はサイゲートの足下に落下する。床に落ちた枕を拾い上げたサイゲートは、それを元の位置に戻してから菜の花を見た。
(やっぱり、前にアゼルが言ってたことかな)
サイゲートの脳裏には酒が入って饒舌になったアゼルの姿と、彼が零していた内容が蘇っていた。菜の花が切り出したい話題は十中八九そのことだろう。そう思うと直接的には言い辛く、サイゲートは黙り込む。些細な心情の変化を見逃さなかった菜の花は真顔に戻ってサイゲートに詰め寄った。
「どうして突然黙るの?」
「あ、いや、その……」
「もしかして……知ってるの?」
図星を突かれ、サイゲートは呻き声を上げる。女の勘は鋭いと親方達がよく言っていたが、本当だった。そんなことを思い返しながら逃げ場を求めて目を泳がせるサイゲートに、菜の花はさらに迫る。
「やっぱり、知ってるのね?」
「た、たぶん……知ってます」
音を上げたサイゲートが白状すると、菜の花は顔を真っ赤にした。あまりにも露骨な反応を示されてしまったため、サイゲートもあ然とする。
「……お兄様ね」
しばらく間があった後、頬を両手で抱えた菜の花が恨めしげな声を発した。菜の花に可愛く睨まれたサイゲートは瞬間的にまずいことを言ったと思い知る。アゼルが戻って来たら、菜の花は勝手に暴露した兄を怒るだろう。そうなれば誰が口を滑らせたのかは一目瞭然であり、今度はサイゲートがアゼルに怒られれしまう。
「海雲は知らないわよね? まさか海雲には言ってないわよね?」
菜の花が必死な表情で問い詰めてきたので、サイゲートはその話を聞いてしまった時のことを思い返した。三人で酒盛りをしたあの夜、アゼルはサイゲートにというよりは海雲に向かって言い含めていた。サイゲートはたまたま居合わせただけの、単なる傍観者だったのだ。
「えっと……」
どう答えれば丸く収まるか考えながら口を開いたサイゲートの態度は、それだけで肯定の意を示していた。菜の花は悲鳴のような声を上げ、顔を覆って首を振る。
「なんてことしてくれたの! もう海雲に合わせる顔がないじゃない」
「ひ、姫!?」
恥ずかしさのあまり泣き出してしまったかと思い、サイゲートは慌てふためいた。だが菜の花は、泣いてはいなかった。
「それで、海雲は何て言ってたの?」
「……は?」
「だから、海雲はどんな反応してたのって聞いてるの!」
「何も、言ってなかったような気がしますけど……」
空を仰いで記憶を辿りながら、サイゲートは問いに答えた。その話をしたすぐ後にアゼルが酔い潰れてしまったので、結局海雲の返答は聞けなかったのだ。サイゲートがその時の状況を説明すると菜の花は無残に肩を落とす。それまで華やかだった空気が一変してしまい、サイゲートは言ってはいけないことを言ったのだと気が付いた。
「あ、あの……姫?」
俯いてしまったので見えない菜の花の顔色を窺い、サイゲートは恐る恐る話しかけた。今度こそ、泣いてしまっただろうか。サイゲートはそう心配していたのだが、菜の花は思いもよらぬことを口走った。
「海雲って、いい男よね」
「は?」
「そう思わない?」
「いや、思いますけど……」
「他にいないわよね、あんな人」
一国の姫君とは思えない科白を聞かされ、サイゲートは苦笑した。見た目の可憐さからは掛け離れた発言ではあるものの、彼女が零した本音からは想いの深さが窺える。海雲のことがすごく好きなんだなと、サイゲートは実感してしまった。
「ねえ、海雲は心に決めた女性がいるのかしら?」
そんなことを尋ねてくる菜の花の瞳には期待と不安が同居していた。迂闊なことは言えないなと思い、サイゲートは考えを巡らせる。しかし海雲とはそんな話をしたことすらなく、またサイゲート自身もそういった話題には疎いので、結局のところ何も分からなかった。
「よく分からないですけど、恋人がいるって話は聞いたことないです」
「だったら、まだ諦めるのは早いわよね?」
「……そうですね」
何と答えたらいいものか困りつつ、サイゲートはそれだけを口にした。おもむろに喜色を表したわけではなかったが、サイゲートの言葉を聞いて菜の花は少し元気になったようである。
「いつか、振り向いてくれるといいな」
サイゲートから視線を外した菜の花は独白を零しながら窓辺に顔を傾けた。今こうして話をしている間にも、彼女は海雲のことを考えているのだろう。その姿は恋する女性そのものであり、サイゲートは密かに菜の花の一途な想いが叶えばいいなと願った。
大聖堂との和解交渉に臨むために赤月帝国を旅立った一行は丸一日かけて雪の森を抜け、赤月帝国の領土外へ出た。赤月帝国を包囲するように広がっているかげろうの森を南に臨む位置に出現した一行は、そのまま北西に進路をとって大聖堂の本拠地を目指すこととなる。海雲にとっては赤月帝国の領土外へ出ることも珍しいことではなかったが、初めて外界に接したアゼルにとっては見るもの全てが新鮮なようだった。しかしこの旅路は視察が目的ではないので、アゼルが浮かれすぎることもない。和やかな場面はあまりなく、使者は淡々と目的地へ向かって進んでいた。
「アゼル」
小休止の途中、海雲は一人で姿を消したアゼルを探し出して呼びかけた。遠方まで果てしなく続いている雪原を見つめていたアゼルは何の感慨も表さず海雲を振り返る。使者の一員として同行している者達が追って来ていないことを確認してから海雲はアゼルの隣に並んだ。
「何を見ている?」
「世界は広いな。そのことを、改めて感じていた」
「……そうか」
アゼルの横顔から視線を移した海雲も彼が眺めている雪原を眼に映した。雲が切れている空は高く、遮る物のない大地は広い。現在は雪に覆われているが春になれば、この平原は草花で埋め尽くされるだろう。それは、赤月帝国内では見ることの叶わない光景だった。
世界の雄大さを目の当たりにしてしまったアゼルは何を感じ、何を思っているだろう。彼が進んで口を開こうとはしなかったので本意は分からないが、海雲はある種の疎外感を覚えていた。隣に佇んでいながらもアゼルとは埋めようのない距離があり、彼が見据えている世界には自分が存在しないのだ。そう感じた時、海雲は全ての墓の前で王が言っていたことの意味が解ったような気がしていた。
君主と臣下という関係が崩れてしまった夜、王は海雲に王位を譲りたいと告げた。そうすることで国の指針と現実が釣り合い、海雲が板挟みに苦しむ現状が解消されるというのである。確かに、赤月帝国の要人の誰よりも海雲は世界を知っている。王族のように理想を持ち合わせていない海雲が国政を取り仕切れば、赤月帝国が世界と歩調を合わせることも可能かもしれない。しかし海雲は自身が影であることを承知しているので考えるまでもなく王の申し出を断った。闇は陽だまりのように人々を包み込むことは出来ず、むしろ平素は隠されている狂気を溶け込ませてしまいかねない。闇に近付きすぎた者が王になったところで国は安泰ではないのだ。
海雲が自身を理解していたように、王もまた海雲の気性を理解していた。臣下に王位を譲渡するなどと思い切った発言をしておきながら、王は食い下がることもなく海雲の拒絶を受け入れたのである。その時は自身のことで手一杯だったので思いを及ばせることが出来なかったのだが、王の譲位発言の裏には王位継承者のこともあったのではないだろうか。世界を知ったアゼルを目の当たりにして初めて、海雲はそう感じていた。
墓前での密談は、誰も知らない。海雲が断り、王もそれを受け入れた以上、誰に知らせる必要もない。だが宿命から逃れられないのは海雲もアゼルも同じであり、海雲は王との会話で得た情報をアゼルに伝えておこうと思い、口火を切った。
「出立の前に少し、王と話をした」
遠い目をして雪原を眺めていたアゼルは不意に現実に引き戻されたような顔つきで海雲を振り向いた。
「そうか。父は、何と言っていた?」
「王は……やはり、お前に譲位をと考えておられた。この使者が終わったら、お前は王位に就くことになるだろう」
「……そうか」
「この交渉を提案した王自身、このまま何事もなく済むとは思っていない。そして大聖堂に彼らの情報を渡すつもりはないと、王は俺に仰られた。この意味が、解るな?」
問いには答えず、アゼルはおもむろに顔をしかめた。彼はすぐさま無表情に戻ったが動揺は隠しきれておらず、頷こうとしない。海雲はじっと、様々な想いが胸中で渦巻いているであろうアゼルの顔を見つめた。
初めから譲るつもりのない和解交渉自体には意味がない。だが赤月帝国から使者が出向くことには意味があるのだ。アゼルに王位を譲渡することと大聖堂から民心を引き離すこと、この二つを成すには時間がかかる。今回の使者は様々なことを精算するための時間を作る繋ぎのようなもので、こうしている間にも着々と準備が進められているのだ。また王子自身が敵国へ出向くことは流民達を説得する際、有利に働くだろう。誠意を見せる覚悟があるという既成事実を作っておけば、和解交渉自体はどう転んでも構わないのである。
「……ああ」
しばらく間があった後、アゼルは俯きながら返答を口にした。頷いてはいるものの口調からは苦さが拭えておらず、彼が王の考えに納得していないことが窺える。海雲はその態度に不安を覚えたが、アゼルが話を切り上げて踵を返したので何も言うことが出来なかった。




