血色の和平(4)
赤月帝国を抱く腕であるかげろうの森は降り積もった雪によって白く染まっていた。それは白影の里がある彼岸の森も同じであり、一面の銀世界へと姿を変えている。新雪を踏み固めながら彼岸の森を歩いていた海雲は樹木のない開けた場所で歩みを止めた。雪はすでに止んでいて、空に浮かんでいた厚い雲も取り払われている。月光によってキラキラと輝いている雪面に目を落とし、海雲はしばらくそのまま立ち尽くしていた。
(……困ったな、何を言っていいのか分からない)
語りかける言葉を探していたものの、結局見付からなかったので海雲は苦笑を浮かべた。この場所を訪れる時は大抵心中が穏やかではないので、探すまでもなく言葉が溢れてきたものだ。しかし今は、本当に何もない。
海雲は今まで、様々な想いを全ての墓に葬ってきた。何かあった時、一番に訪れるのはこの場所だったのだ。それが今回は、真っ先にサイゲートの元へ行ってしまった。そのおかげで説教をされてしまったのだが、海雲の心はいつになく満たされていた。
(説教されるなんて、本当に久々だったな)
普段は説教をする側である海雲にとって、それは貴重な体験だった。サイゲートと別れて里へ戻って来てからも、まだ胸の中に新鮮さが息衝いている。案外説教されることを求めていたのかもしれないと思った海雲は苦笑いを零したが、背後で雪を踏む音がしたので真顔に戻った。
「迷いが、ありました。今もまだ、迷っているのかもしれません」
目前に広がる白い墓に目を留めたまま、海雲は独白を声に出した。応えるのは、背後から歩み寄って来ている人物。それが誰であるのか、海雲は振り返る前に知っていた。
「迷わせているのは、私だな」
しばらくの後、海雲の隣に並んだ王が先程の独白に対する言葉を返す。海雲は体の向きを変え、王に向かって深々と頭を下げた。
「このような雪の降る夜にいらっしゃらずとも、呼んでいただければこちらから参りましたのに」
「……頭を、上げてくれ」
王に促された海雲は頭を上げ、そのまま瞠目した。雪の上に膝をついた王は海雲と目を合わせ、その後、雪面に額をこすりつける。
「王!! 何をなさるのです!?」
海雲は慌てて王の傍へ寄ったが、彼は土下座をしたままでいた。低頭したまま呻くように、王は苦しい声を絞り出す。
「すまない」
いたたまれない気持ちが先立って胸苦しくなり、王の傍にしゃがみこんだ海雲も雪に額をこすりつけた。
「どうか、お立ち上がり下さい。この様なお姿を誰かに見られては困ります」
「では、共に立ち上がってくれ」
王が固辞することもなく頭を上げたので海雲はホッとした。しかし共に立ち上がることは出来ず、王が立ち上がったことを確認してから海雲も姿勢を正す。お互い低頭したために額が濡れており、冷たい雫が滴った。
「里へ参りましょう。このようなお姿でお帰しする訳にはまいりません」
「いや。もともと、余人を交えず話をするつもりでここへ来た」
「ですが、お体にもしものことがあれば……」
「そのように、」
遮るように言葉を重ねた王の口調は、いつになく強いものだった。これほど強く意思を示されたのは初めてのことであり、海雲は思わず閉口する。海雲が口を噤んだのを見て王は言葉の続きを口にした。
「そのように、いつも苦労をかけてきた」
「王……」
「私の決断がお前に更なる苦悩を強いていることは、知っている」
「…………」
「そうしていつも、いつも、お前は己を殺しながら私に尽くしてくれた」
「……そのような……」
「当然だと、お前は言うのだろう。白影の里の棟梁として。だが、それは違う。白影の里の棟梁としての判断ならば国を滅ぼしかねない私の決断に従うべきではない。私を、殺してでも阻止するべきだ。違うか?」
王の意見は正論であり、だからこそ海雲には答えることが出来なかった。白影の里の先代であれば、王が言うような決断を下したかもしれない。海雲もまた選択肢の一つとして考えたことはあるのだが、彼にはその決断を下せない理由があった。王はそのことすら知っていて本心を曝け出しているのかもしれないと、海雲は話に耳を傾けながら唇を噛む。
「我ら王族の考えがお前の行動を縛っている。そのために、死なずに済んだ者も命を落とした。国の頂点に据えられた者として国のことを第一に考えなければならないことは承知しているのだ。だが私は、そのために非情にはなれなかった。私は王としては失格者だ。だが人間としてそれでいいと、私の心が言う。これ以上、私は王であることが出来ない」
「では、やはり……」
「息子に……アゼルが戻ってきたら譲位をと思っている。だがアゼルもまた、王には向いていない」
「…………」
「代が替わっても同じ苦悩を続けさせることに、私はおかしくなりそうだ。どれだけ、お前に苦労をかけさせればすむのか」
王の姿は直視するに耐えず、海雲は目を伏せた。堅く握られた王の拳が、寒さにではなく震えている。
「滅んでしまえばいいと、思ったこともある。だが重ねてきた歳月がそれをするには遅すぎたと伝えている。彼等の存在が、言葉が、世界を揺るがす力になってしまうと、今回のことでよく解った。誰かが管理し、護っていかなければならない。しかしそれを大聖堂に委ねることだけは、出来ない」
利己的な大聖堂に全てを委ねれば世界は誤った方向へ進んでいく。その流れを止めるために赤月帝国は戦わなければならないのだ。開戦前に交渉の場が設けられなかったように、この戦は話し合いで解決出来る類のものではない。そのことを王はよく解っているが、自身が人間でいたいがために和解交渉をしたいなどと言い出したのだった。だが同じように、交渉に応じてきた大聖堂にも初めから和解の意思はないだろう。話し合う以前から思惑が食い違っている会談がうまく運ぶはずはなく、無意味な交渉によってどんな結論がもたらされるかは混迷である。
「実に身勝手だ。大聖堂の考えと何も変わらない。今になってこんなことを言い出すことは私を更なる卑怯者にする。それでも、聞いてもらえるか?」
王に微笑みを向けられた時、海雲は自戒してきたものが崩れ去っていくのを感じた。王の表情には二人三脚で国を動かしていく者に対する絶大な信頼と、海雲が若くして背負わなければならなかった業に対する悲哀や、海雲に投影する自身の苦しみなどがないまぜになっている。自身でも明言しているように王の発言は非常に利己的だが、海雲には彼の瞳に濁悪を見出すことは出来なかった。
(卑怯者でも、その優しさに触れて俺は人間であれた)
それは海雲だけの想いではなく、おそらくは白影の里の先代……海雲の父親も同じだったはずである。王であることには失格でも目の前の初老の男が好きだと、心が叫んでいた。
「……聞かせて下さい」
視界を揺るがす感情の波を隠すように俯き、海雲は弱々しく返答を口にした。




