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月に喘ぐ  作者: sadaka
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血色の和平(3)

 日中でも喧騒から遠い王城は夜になると無音に近い世界となる。一般の者は立ち入ることが出来ない上階では尚更顕著であり、例え息を殺して潜んでいる者がいたとしても微かな呼気すら耳についてしまうような静けさだ。雑然とした狭い室内で夜を過ごすことを常としてきたサイゲートは王城で与えられた広すぎる部屋が落ち着かず、寝台の上で膝を抱えていた。

 夜を迎える前、サイゲートの元を訪れた菜の花が支援の話が実行に移されたという情報をもたらした。菜の花は純粋に哀れな流民が救われることを喜んでいるようで嬉しそうな顔をしていたが、サイゲートの抱える想いは複雑である。海雲とアゼルに菜の花の提案を伝えたのは彼女が人間として正しいと思ったからなのだが、サイゲート自身は支援に反対だった。何故、あんな連中を助けてやらなければならないのか。理性ではなく感情が、そう囁き続けているのである。

 城内で縮こまっていた人々とは違い、サイゲートは戦場に飛び込んだ。その結果多くの死を目の当たりにして、自身も命を落としそうになったのである。薬が切れると熱く疼く腹の傷よりも、サイゲートは心に痛手を受けていた。狂気に満ちた敵の瞳、他人を責める人々の瞳、虚ろな死体の瞳。一人になるとどうしても、狂乱の中で目にした異様さが蘇ってくるのだ。

 眠ることを諦めたサイゲートは寝台を下りて窓辺に寄った。自室は小さな窓が一つあるだけの簡素な造りだが、この部屋には大きく取られた窓が幾つも並んでいる。広すぎて暖の行き届かない室内はそれだけでも寒いのだが、雪の降っている窓辺はよりいっそうだった。

 不意に凍てつくような空気が流れ込んできたのでサイゲートは顔を傾けた。突然外気に晒された体が震えたが、それよりも異常な事態にサイゲートは身構える。四階にある部屋にも関わらず、窓の外から侵入者が現れたのだ。しかしサイゲートのいる部屋に侵入して来た者は静かに窓を閉めたきり動こうとしない。ある可能性が頭に浮かんだので、サイゲートは警戒を解いて侵入者に声を投げた。

「……海雲?」

 返事はなく、窓辺に佇んでいた影は室内に向かって歩き出した。その人物はどっかりと椅子に体を預けたので、その動作でサイゲートは確信する。返事くらいしろと呆れながら、サイゲートは燭台に火を灯した。

 燭台の淡い明りに映し出された侵入者は、やはり海雲であった。常に背筋を伸ばしている彼らしくなく、海雲は気怠そうに座り込んでいる。そのような無気力な海雲を見るのは初めてのことであり、サイゲートは眉根を寄せた。

「何か、あったのか?」

「いつかの話の続きを聞かせてやろうと思ってな」

「話の続き?」

 脈絡のない海雲の一言を受け、サイゲートは記憶の糸を辿った。しかし慌しい日々が続いていたため、何も思い出せない。サイゲートが考えこんでいると海雲は姿勢を正して口調も改めた。

「その前に、一つ報告がある」

「何?」

「交渉の日取りが決まった。使者は、予定通りアゼルが立つ。出立は三日後だ」

「そうか。海雲も?」

「ああ。一人で行かせる訳には、いかない」

「……そうだな」

 サイゲートは一時休戦に至るまでの詳しい経緯を知らないが、彼が考えていることも海雲と同じであった。大聖堂(ルシード)は、信用ならない。そんな人間の集う場所へ、アゼルを一人で行かせるわけにはいかないだろう。

「……オレも」

「駄目だ。連れて行けない」

 サイゲートが言いかけた科白を遮って、海雲はきっぱりと拒絶した。しかし海雲がサイゲートの申し出を受け入れなかったことには理由があるらしく、彼はすぐに言葉を次ぐ。

「連れて行くわけにはいかないが、お前の体が完治していないことを理由にするつもりはない。それを、話しに来た」

「……わかった」

 海雲が何かしらの覚悟を持ってやって来たことを察したサイゲートは食い下がることをしなかった。サイゲートが閉口したので海雲は衣服から何かを取り出す。テーブルの上に置かれたそれは、中身の入った小瓶だった。

「これは?」

 意図が分からぬまま、サイゲートは小瓶を指して海雲を見る。海雲は即効性の毒だと答えた。

「……毒?」

「怖いか?」

「……いや、」

 明確な回答を避け、サイゲートは口をつぐんだ。テーブルの上にある小瓶に視線を落としてみても、怖いというよりは現実味がない。海雲が受け取れと言うので、サイゲートはとりあえず寝台の脇にある台の上に小瓶を移動させた。自分の元へ戻って来るサイゲートを見据えたまま、海雲は話を続ける。

「この国が建国された理由、以前少し話したが覚えているか?」

「戦火を避けた人たちが自然に集まって、それが国になったってやつか?」

「そうだ。もともと、先人達の暮らしがあった場所に定住したことも話したな」

「ああ」

「この地は、俺達の祖先が移り住んで来た時にはすでに天然の要塞だった。こちらから攻め込むことをしなければ誰も攻めて来ない、平和な場所だったんだ」

 遠い目をして窓辺を振り返り、海雲は降りしきる雪を見つめながら説明を始めた。

 人間が集団が生きていくためには多少なりとも規則というものが必要である。赤月帝国はそうした些細な規則を積み重ねて自然発祥的に発生した王国であったが、ここまで外界を遮絶するようになったのにはある理由があった。先人達の遺した記憶……それを見付けてしまった時から赤月帝国は特殊な国への道を歩み始めたのだ。

「キオク?」

「そうだ。遺物、と言った方が解り易いか?」

 遺物とは、今に残る昔のものである。それは過去に誰かが使っていた装飾品のような物から住居跡まで、大小様々なものを指す。首を傾げているサイゲートにそう前置きしたうえで、海雲は石碑の存在について語った。

 問題となっている石碑は現在も王城の片隅にひっそりと存在している。だが赤月帝国に暮らす者の大半がそのような石碑の存在など知らず、興味も抱いていない。それは長い歳月をかけて、一部の者が人々の記憶から石碑の存在を消し去ってきた結果だった。

「その石碑に刻まれているのは古代の文字だ。どれほど昔に彫られたものなのか、今でも見当はついていない。天然の要塞に護られて戦火から遠ざかった俺達の祖先はやがて、その文字の研究を始めたんだ」

「へえ。じゃあ、今は読めるようになったのか?」

「ああ。そこには、こう書いてあった」

 海雲は一度言葉を切り、静かに息を継いでから石碑の内容を口にした。



全知全能の神(ゼウス)により生み出されし無知なる者達よ、我等は愚者。この世の果てを垣間見た者。予言しよう、やがて世界は終焉を迎える。だが再び新たな生命を育むだろう。しかし標の先には永久に変わることのない宿命(さだめ)が、既に用意されている。汝等が縛られし糸を断ち切りたいと望むのならば、我等を求めよ。我等七人今一度集う時、人間(ヒト)の歴史は次なる世界への標となるだろう』



 これが、石碑に刻まれていた内容である。海雲の口から聞かされた言葉は現在のものには違いなかったが、サイゲートは故人の言葉を耳にしている時だけ過去に身を置いているような不思議な気持ちになった。

 意味を理解しようというよりも、石碑に刻まれている言葉は耳に残る。その言葉を口にした者も、石碑という形で残そうとした者も、海雲も、ひどく真剣なのだ。実際に海雲から発せられている空気には放電に晒されているようなピリピリとした感じがあり、サイゲートは眉根を寄せながら未だに続いている話に耳を傾けていた。

「本格的な調査をした結果、他にも幾つか遺物が見付かった。石碑の他にも愚者と名乗った者達に関する記述があったんだ。そして実際、古代の人々が残した通りの現象が今も起きている」

「……どんな?」

「紅く染まった空を艇が泳ぐ。信じられない光景だ」

「海雲は見たことがあるのか?」

「子供の頃に、一度ある」

 その光景を目の当たりにした時は肌が粟立ったと、海雲は淡々と語った。実際に見たことのないサイゲートの想像力では限界があるが、それでも愚者という者達が人間以上であるのだということは理解することが出来る。けれど、とサイゲートは顔をしかめた。

「神って、ようするにすごい力を持ってる奴のことなんだろ? そんな奴がいるなら、どうして戦争なんてあるんだよ」

 人間を超越した者がいるのであれば、全てを力でねじ伏せることも出来るはずである。流民達のように縋る人間の望みを叶えてやることも、大聖堂のように支配することも容易いはずだ。しかし現実には、争いを止めるような者は存在していない。もし人間以上の者が実在しているのならば、彼らは人間の争いを傍観しているということだろう。そんな不確かで残酷な存在は信じたくもないと、サイゲートは思った。

「彼等が仮に実在するのだとしても、神と呼ばれる存在なのかどうかは分からない。だが大聖堂のような連中にとって脅威だということは確かだ」

 神を餌に人間の心を操っているのは人間である。偶像だからこそ神という存在には利用価値があるのだ。本物がいては困るのだと、海雲は言った。

「じゃあ、大聖堂が戦争をしかけてきた本当の理由って……」

「赤月帝国の持つ情報を奪うことと、神の抹殺が目的だ」

「そんなことで」

 真実を理解して初めて、サイゲートは絶句した。一部の人間が利益を得るために、どれだけ無関係な命が奪われたのか。そのことを思えば冷静ではいられず、サイゲートは肩を震わせて憤慨した。無言で激昂しているサイゲートに対し、海雲は平静さを保ったまま言葉を紡ぐ。

「むきになるなよ。少し、落ち着け」

「落ち着いてられるかよ。お前、そんな連中と話が出来るって、本当に思ってるのか?」

「……最初から、思っていない」

「だったら意味ないじゃないか!」

「なら他にどうしろって言うんだよ!!」

 お互いに張り上げてしまった声は、静かな夜に大きく響き渡った。怒声が消えてからの静寂が異様なほど痛く、サイゲートも海雲も口を噤んだままでいる。しばらく経っても室外に動きがないことを確認してから、サイゲートは小声で口火を切った。

「……ごめん」

 冷静になってみると海雲に悪いことをしたという思いがこみ上げてきた。和解交渉は海雲が独断で決めたことではなく、またサイゲートが怒りを感じているのも大聖堂にである。憤りを海雲にぶつけること自体、間違っているのだ。

「……俺は、そう思っている。だがアゼルや王は、それでも信じたがっているのだと思う」

 どこか諦めを思わせる海雲の口調にサイゲートは何も言えなくなった。普段のアゼルを知っている者ならば、海雲の言っていることは解りすぎるくらいに明白だったからだ。サイゲートの返事を待たず、海雲は淡々と言葉を続ける。

「交渉次第では全てを明け渡しても構わない、アゼルはそう考えている。そうなれば赤月帝国という国は、消滅する」

「……海雲?」

 今まで一度たりとも聞いたことのない悲壮な声を聞いて初めて、サイゲートは海雲の様子がおかしいことに気がついた。燭台の炎に照らされている海雲の顔は、陰影のせいなのかもしれないが泣きそうに見える。

「赤月帝国という国がなくなれば白影の里はその存在理由を失う。だがお前は違う。王を、アゼルを、この地の暮らす者達を、護ってやってくれ」

 海雲の弱々しい微笑みを見た刹那、サイゲートは頭に血が上るような感覚を覚えた。怒りなのか憤りなのか、自分でも分からない感情が体を動かす。サイゲートは衝動のままに、海雲の腕を取って無理矢理引き寄せた。

「なに、言ってんだよ」

「サイゲート……」

「オレを連れてかないとか言ってるくせに、なんだよそれ。いつもエラそうに説教するくせに、自分はそれでいいのかよ」

「……すまない」

「ずるいぞ! あやまるなんて、みとめるってことじゃないか! 許さないからな。オレは絶対そんなの許さない」

 締め上げるように拘束している海雲から反応が途切れてしまったが、サイゲートは構わずに言葉を続けた。

「理由なんて、なくなったってまた探せばいいだろ。弱気になるなよ。らしくないことばっかり言うなよ」

「……サイゲート、」

「お前がどうしても考えを改めないって言うんなら、オレにだって考えがあるからな!」

「サイゲート、解った。解ったから、放してくれ」

 それまで大人しかった海雲があがき出したのでサイゲートは言われた通りにした。彼の口調はいつもの調子に戻りかけているようだったが、それでもまだ腕は捕まえたままで尋ねる。

「本当にわかったんだな?」

 海雲は頷くこともなく真顔のままでいたが、不意に顔を背けて吹き出した。抑えた笑い声が、静かな室内に響き渡る。サイゲートはムッとして唇を尖らせた。

「なに笑ってんだよ」

「いや、悪い。つい、な」

 まだ完全には笑いを堪えきれずに、海雲の顔は引きつっている。真面目に言い聞かせようとしていたサイゲートはムスッとしたまま押し黙った。しかし海雲は、悪びれることもなく言葉を紡ぐ。

「そうだよな。お前にこんな話すれば、そりゃ説教するよな」

「…………」

「少し考えれば解りそうなものなのに、どうして思い付かなかったのか」

「…………」

「怒るなよ。ふざけてる訳じゃない」

「……まだ声が笑ってる」

「嬉しいんだよ。説教なんて、しばらくされたことなかったから」

 海雲が笑みを見せる時は茶化すような小馬鹿にするような、そういった別の感情を含ませていることが多い。だが今の彼が見せている笑顔には照れ隠しのようなものが一切含まれていなかった。こんな笑みを見るのは初めてだなと思いながら、それでも簡単に許す気のなかったサイゲートはぶっきらぼうに応じる。

「オレの言ったこと、本当にわかったのか?」

「ああ。 ……ありがとう」

 もう取り繕うこともなく、海雲は素直に頷いて見せる。心の底からの想いを感じ取ったサイゲートはそこでようやく捕まえていた海雲の腕を解放した。

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