血色の和平(1)
まだ降り積もった雪が融け出さない冬の時分、赤月帝国には今日も湿気を含んだ大粒の雪が舞っていた。つい先日、春を予感させるような風が吹き付けたのが嘘のように気候は冬に逆戻りしている。しかしこれが本来あるべき姿であり、凶兆とも吉兆とも言い切れない風は天の手違いだったのだろう。赤月帝国には一時の安息が戻っていたが戦況は新たな局面を迎えようとしていた。王が和解を決意し、そのための使者としてアゼルが敵国へ立つことが決定されたからである。
「むこうも、さんざん揉めてるみたいだ」
王に報告をした後に訪れたアゼルの私室で、海雲はそう告げてみた。交渉の席を整えるための先発隊を大聖堂に送ってから、すでに数日が経過している。伝達系統は確率されているので経過報告は次々ともたらされているのだが、今のところあまりいい反応は得られていなかった。先発隊として大聖堂の本拠地に赴いているのは弁が立つ者ばかりだが会談までこじつけるにはまだ時間がかかりそうである。
「もし、交渉が決裂した場合はどうする?」
様々な可能性を考慮しておかなければならない海雲は立場上、アゼルに悪い結果を予測しておくよう促した。攻撃を仕掛けてくるようなことはないが、大聖堂軍は未だ赤月帝国を包囲するように展開している。万が一の場合も、ないとは言い切れないのだ。
「その時の覚悟は、出来ている」
海雲に言われるまでもなかったようで、アゼルは表情を変えることなく答えた。この発言はアゼルの独断では有り得ない。彼の科白はそのまま王の意思であり、王族も肚を決めたようだった。壁に背を預けている海雲は腕を組み、思案に沈む。
(問題は交渉自体より、無事に戻って来られるかだな)
王が提案した交渉には賛成したものの、海雲は全面的に大聖堂を信用する気にはなれなかった。彼らは平然と味方を焼き殺せるような者達なのである。いくら戦時下とはいえ、大聖堂は許容し難い愚行を犯したのだ。そのように手段を選ばない者が相手では疑いすぎても十分ということはないだろう。しかし深い傷を胸に刻んだまま立ち直ろうとしている者に伝えるべきことではなかったので、海雲は決意だけを独白した。
「必ず守るよ」
自身の命と引き換えにしようと、アゼルを無事に帰国させることが海雲の使命である。白影の里の先代と交わした約束や王への誓い、そして友人としての責務は決して違えてはならないのだ。
「何か言ったか?」
同じく思案に沈んでいたアゼルが独白を聞きつけて顔を上げたので海雲は知らぬ振りを決め込んだ。
「自分が重症にもかかわらず、うろちょろしてる奴がいるから手をやいてると言ったんだ」
「……サイゲートか」
仕方がないといった風に、アゼルはため息をつく。海雲は壁に預けていた体重を足に戻し、扉を指しながら言葉を次いだ。
「無駄だとは思うが、一応覗いて見るか?」
「……そうだな」
アゼルも頷いて立ち上がったので、彼らは共にアゼルの私室を後にした。そしてそのまま、王城四階の廊下を歩き出す。
戦況が一時休戦となったことが宣言されると王城に避難していた国民は街へ戻って行った。それと同時に白影の里で保護していた国民も街へ帰したのである。怪我のなかった者や軽症の者はそうして元の生活に戻っていったのだが、重症の者は城内に残って療養を続けていた。サイゲートも重傷者の一人であり、彼には特別にアゼルの私室に程近い一室を貸し与えているのである。本来であればゆっくりと休養して早く怪我を治してもらいたいところだが、彼の部屋を訪れてみる時、その姿はいつもない。
「……人の気配がするな」
サイゲートの部屋の前に佇んだ時点で内部に気配が感じられることは珍しいことだったので海雲は眉をひそめた。アゼルもまた、おもむろに顔を歪める。
「まさか、働きすぎて体調が悪化したなどということはないだろうな」
「まあ、大人しくしててくれるならその方がいいんじゃないか?」
「笑えないぞ」
海雲を軽く睨みつけ、アゼルが扉を叩いた。すると内部から女の声が返ってきたので海雲とアゼルは思わず顔を見合わせる。
「いいですって。自分で行きますから」
「ダメ。そこから動いたら痛くするわよ」
サイゲートと女の会話が聞こえてきた後、扉は開かれた。サイゲートに与えられた部屋の中から顔を覗かせたのは、海雲もアゼルもよく知っている人物である。
「あ、海雲。それにお兄様」
扉を開けて二人を迎えた菜の花が、ぱっと顔を輝かせる。すかさず、海雲は頭を下げた。
「菜の花、ここで何をしている?」
付け足しのように言われたアゼルは呆れた顔をして妹を見ている。菜の花は兄の視線を気にするでもなく踵を返しながら問いに答えた。
「サイゲートとお話してたんです。ちょうど良かったわ」
菜の花が室内へ戻って行ったので何が『ちょうど良かった』のか首を傾げながら、海雲とアゼルは彼女の後に従った。アゼルの私室と同じく一人で使うには広すぎる室内には、この部屋の仮の主が無理矢理といった感じで寝台に押し込められている。室内には嗅ぎなれた鉄くさい臭いが漂っていたので海雲は顔をしかめた。
「あれほど無理するなと言っただろ」
臭いの発生源であるサイゲートは海雲に叱られて弱ったように笑んだ。彼の側に血液が付着した衣服が転がっているのを見てアゼルが黙り込んでしまう。次に口を開いたのは、雑然とした部屋を片付けている菜の花だった。
「信じられない無茶する人ね、この人」
「ご迷惑をおかけしてすみません、姫」
サイゲートに代わって海雲が頭を下げると、菜の花は一度不思議そうな表情をしてから笑った。
「どうして海雲が謝るの? 変なの」
「……言われてみれば、そうですね」
海雲が複雑な思いを抱きながら頷くと菜の花は華やかに笑った。室内に漂っているのはいつも通りの、和やかな空気である。しかしそこに、アゼルの軽口はなかった。
「……お兄様、」
空気を重くしているのが誰なのかは一目瞭然であり、菜の花は眉根を寄せながら顔を伏せている兄に呼びかけた。菜の花の声には多少咎めるような響きが混じっており、アゼルは顔を上げないまま応じる。
「何だ?」
「良い機会ですので言わせて戴きたいことがあります」
「……だから、何だ?」
「サイゲートから聞きました。二度と無茶な真似はなさらないで下さい」
かろうじて応答していたアゼルは、とうとう黙りこくってしまった。菜の花はじっと、うなだれている兄を見つめている。
「……解っている。すまなかった」
しばらくの沈黙の後に発されたアゼルの言葉は、弱々しいものだった。すかさず、菜の花が反発する。
「解っていません。お兄様を失うということが私にとってどういうことか。お父様にとって、どういうことなのか。なによりこの国にとってどういうことなのか、本当にお解りになりますか?」
菜の花が今、辛辣な言葉ばかりを選んでアゼルを諌めなければならない気持ちが海雲には理解できた。同じ心配をしているのだ。
(アゼルがまだ脆いこと、姫は知っていらっしゃる)
アゼルはこれから和解交渉のために敵地へ赴かなければならない。休戦中とはいえ敵の本拠地へ乗り込むことは非常に危険であり、一歩間違えれば死も有り得るだろう。脆い心のままでは付け込まれるだけなのだ。だが、そのために自分がいる。言葉にする代わりに目で、海雲は菜の花に想いを伝えた。
「私が言いたいのはそれだけです。もう一度、よく考えてみて下さい」
海雲の真意をしっかり受け止めた菜の花は、それだけを言うと荷物を抱えて出て行った。アゼルの手前あからさまに謝意を示すわけにはいかなかったので、海雲は菜の花が立ち去った扉に向かって密かに目礼を送る。
「……アゼル、姫は心配してるんだよ」
菜の花が去ってからしばらく沈黙が続いていたが、口火を切ったのはサイゲートだった。サイゲートにまで宥められたアゼルはふっと、苦笑まがいの笑みを浮かべる。
「解っている、つもりだ。菜の花の言うように俺は己の身のことなど何も考えていなかった。それなのに、己のことばかり考えていてサイゲートをこんな目に合わせた。 ……妙な話だ」
アゼルの苦笑には自嘲は含まれていなかったので、海雲はそこで一旦話を打ち切った。口調を明るくし、海雲はサイゲートにからかいを含んだ笑みを向ける。
「サイゲート、姫と随分仲良しになったみたいだな」
「仲良しっていうか……アゼルの妹だなって思った」
真面目に応じたサイゲートはそのまま、ここ数日の出来事を話し出した。
菜の花とサイゲートは、お互い負傷者のために王城内を走り回っていた。菜の花の方はサイゲートが怪我人であることを知らず、使いを頼んだりすることもあったようである。そんな中、調子に乗って動きすぎたサイゲートの傷口が開いてしまった。それを知った菜の花は烈火の勢いで怒り、無理矢理この部屋へ連れて来て手当てをしながらサイゲートをこっぴどく叱ったらしい。
「すまない、サイゲート。あいつはいつもああなんだ」
話を聞くだけで容易に想像がついたようで、アゼルが苦笑混じりに言う。サイゲートも笑みで応え、小さく首を振った。
「いや、いいんだ。それより、聞いてほしいことがある」
笑みを消したサイゲートはいつの間にか、真剣な表情になっている。サイゲートが何か重要なことを言い出そうとしていることは察したものの、その内容に見当のつかなかった海雲とアゼルは首を傾げながら話に耳を傾けたのだった。




