夜空に浮かぶは赤い月(3)
謁見の間を後にした海雲は同行して来た者達に各々指示を伝え、それからアゼルの部屋を訪問した。アゼルは広い部屋の窓辺で読書をしていたが、海雲に気付いて顔を上げる。
「父に怒られたか?」
「いや、王は寛大な御方だ」
「少し、気が弱いがな」
「欠点のない人間などいない。そのくらいのことなら、可愛いものだ」
「それを平和呆けと言わなければよいのだが」
自身の父に対して、アゼルの言葉は少々辛辣であった。赤月帝国は平和な時間が長すぎた、アゼルがそう言っていることを察した海雲は臣下として感じている王の評価を口にする。
「王も、何も考えておられない訳ではない。その証拠に、御自身でも間者を放ち情報を集めておられる」
「初耳だな。だが、国民に戦乱の世だという実感がなさすぎる」
「攻められても、天然の要塞が護ってくれる。それに、そんな時のために白影の里があるんだ」
「失言かもしれないが、俺はあまり白影の里にばかり頼るのはどうかと思う。戦になった時、己の身は己で守るくらいの覚悟が必要だ」
「道理も通っているし、その分危険も少なくなる。だが、そういうことは俺より王にお話しすべき事柄じゃないのか?」
「実は、近々進言するつもりでいた。その前に、筋の通らないことがあればお前に指摘してもらおうと思っていた」
少し照れくさそうに頭を掻くアゼルに、海雲は笑みを浮かべた。王子としての責任もあるだろうが、アゼルはそれ以上に父親思いなのである。
「その意見を聞かせるために俺をここへ呼んだのか?」
「それもあるが……今日はどのくらい時間がある?」
「夜までに里に戻ればいい」
「それならば、街へ行かないか?」
「それは構わないが……」
「羽目を外したりはしない、安心しろ」
「……だから、そんな格好で待っていたのか」
部屋に入って来た時からアゼルの服装がおかしいとは思っていたのだが、相変わらず彼は用意周到である。海雲の零した苦笑いを躱すように、アゼルはサッと立ち上がった。
「さあ、煩いのが来る前に行くぞ」
海雲の横をすり抜け、アゼルは足早に居室を出て行く。後を追いながら、海雲はアゼルの背中に声を投げた。
「うるさいの?」
「海雲が来てるの!? 何処! 何処!? ……と、騒いでいる奴がいたからな」
先導するように前を歩いているアゼルがわざわざ『うるさいの』の真似をしながら答えたので海雲は呆れながら応じる。
「姫か」
「ご名答」
「そういえば、会ってないな。一言くらい挨拶してから行くか」
「やめておけ。話が長くなるだけだ」
ため息混じりのアゼルの言葉に続き、背後からバタバタという音が聞こえてきたので海雲は足を止めて振り返った。海雲達の後方、王城の廊下に姿を現したのは渦中の人物である。アゼルの妹である菜の花姫は海雲を発見するなり嬉しそうな声を上げた。
「あ! 海雲!!」
「見付かったか。走れ、海雲!」
菜の花の姿を認めるなり、アゼルは海雲の腕を引いて走り出した。遠くから菜の花が何か叫んでいるが、よく聞き取れない。海雲は全速力で廊下を駆け抜けるアゼルに呆れながら話しかけた。
「なにも、逃げなくてもいいんじゃないか?」
「アイツの長話に付き合っていたら日が暮れてしまう。走れ走れ」
アゼルは妹姫から逃げ出していることを城からの脱出と同じように楽しんでいるらしい。もはや返す言葉もなかった海雲は苦笑を浮かべながらアゼルに従った。
森で作業をしていたサイゲートは先程まで振るっていた斧を傍らに置き、自身が切り倒した木の切り株に腰を下ろして滴る汗を拭った。太陽が上ってから『木を倒す』という作業を続けているが、そろそろ日も傾いてきたので間もなく仕事も終わりだろう。サイゲートの周囲では同じように斧を振るっている仕事仲間がいて、彼らはまだ作業を続けている。そのうちの一人に目を留め、サイゲートは自身の父親代わりである男の働く姿を見つめた。
サイゲートの養い親である親方は、気が弱い。神経質な妻とは何か反りが合わないようで、親方は毎日のようにどやされている。そんな時、彼はいつも黙ったままでいるのだ。口では言い負かされるのがわかっているのか、反論一つせず静かなものである。そのおかげで言い争いは、いつも一方的に妻が金切り声を上げるばかりで終わる。それでスッキリするのか、口論の後の妻は上機嫌だが逆に親方はストレスを溜め込んでいるらしい。そんな親方も、仲間うちで酒を飲んでいる時だけは愚痴を零す。何を言われても何も感じていないように見えるが本心では相当頭にきているようだ。けれど直接不満を口に出せないから、酒を飲んではストレスを発散している。
(なんで一緒になったんだろ?)
傍観者であるサイゲートが思わず首を傾げてしまうほど、夫婦仲は冷え切っているように見える。それでも、昔は仲が良かったのかもしれない。だがそれは、サイゲートの知り得ない過去のことだ。
「サイゲート! 休んでんじゃねえ!」
「あ、はい。今やります」
怒声が飛んできたのでサイゲートは物思いを断ち切った。一日の疲労がそろそろ顔を出し始めた体に鞭打ち、切り株の脇に置いてある斧を持ち上げる。顔を上げたサイゲートはふと、森の中に見知った姿を見たような気がして目を凝らした。
「なに、してんだ?」
「親方。今、知り合いがいたような気がして……」
声をかけてきた親方に顔を向けた後、サイゲートは先程人影があった方向を振り向いた。しかしそこには誰の姿もなく、森は静寂を保っている。サイゲートが森の奥を見ていたので親方は眉根を寄せた。
「見なかったことにしろ」
素っ気なく言うと親方はすぐ仕事に戻ってしまった。彼が知らぬ振りをしろと促したのは、サイゲートが見ている方向が立入禁止区域だからである。そのような場所を行き来するのは要人か、禁を犯した者なのだ。どちらにせよ関わるなと、親方は言っているのだった。
サイゲートにとって立入禁止区域である森の奥は、近頃毎晩のように通っている道だった。その場所へ行くことが当たり前となってきていて密かな逢瀬であることを失念しそうだが、こうした瞬間には禁を犯しているのだと改めて思い知らされる。サイゲートはもう一度だけ森の奥を振り返り、そこに誰の姿もないことを確認してから木材を運んでいる仲間の元へ戻った。




