友(2)
凶兆を告げるような南風が吹いた翌日も空気は温んでいて、赤月帝国は春とも冬ともつかない奇妙な季節の中に浸されていた。温暖な風は降り積もった雪を融かしており、街が水浸しになるかと思われるほどあちこちで雫が滴っている。そんな日中、サイゲートは所用を言いつけられて街のほぼ中央に位置している王城付近にまで出向いてきていた。
街は平素と変わらぬ様相を呈していたのだが、異変は唐突に訪れた。南の方角から上がった悲鳴に、サイゲートを含め街中を歩いていた者達は一様に足を止める。群集の中には何が起きたのかと悲鳴のした方へ走り去って行く者もいた。だがそれも、悲鳴が大きくなるに従って自然と途絶えていった。尋常ではない人々の声が、南から押し寄せてきている。
周囲の人々と同じように呆然と足を止めていたサイゲートは、やがて南の方角に立ち上った煙を目にした。何かが、あったのだ。そう確信したサイゲートは何が起きているのかを確かめるため悲鳴の発生源に向かって走り出した。
南へ向かったサイゲートが目にしたものは、武器を振り回す人々と凶刃から逃れようと必死に逃げ惑う人々の姿だった。さらには火が放たれており、民家が燃えている。何が起きたのかとっさに判断をすることは難しかったが、サイゲートは無意識の内に自宅のある東へと走り出していた。
(火は、なんとかなる)
そのために、国を挙げて堀を巡らせたのだ。それよりも問題なのは、あの武器を振り回す人々が誰であるかということだった。武器を持って街の人間を追いまわすなど敵でなければするはずがない。そう思いつつも、サイゲートにはまだ敵兵の襲撃が信じられなかった。
(どうやって……)
戦が始まってから敵兵の襲撃は幾度となくあったが、街まで達せられたことは一度もない。加えて、例え戦場が街から見えない森であろうと敵が来た時には必ず国民に一報があったのだ。だが今回は、それすらもなかった。
(まさか、海雲たちが……)
そこまで考えて、サイゲートは頭を振った。あの海雲が、簡単にやられるはずがない。そう自分に言い聞かせ、サイゲートは混乱している頭を落ち着かせるために足を止めて息を吐いた。
(とにかく、城に行かないと)
無意識に自宅の方へと走り出してしまったが、今は城へ向かうべきである。何が起きているのか、アゼルに会えばはっきりするはずだからだ。サイゲートは親方達の無事を祈りながら踵を返し、城のある西へ向かって再び走り出した。
つい先程まで悲鳴が上がっていた街も、サイゲートが通行する頃にはひっそりと静まり返っていた。家に閉じこもっているのか避難をした後なのか、人気は皆無である。辺りを窺いながら慎重に歩を進めていたサイゲートは、角を曲がったところで不意に足を止めた。その先に広がっていた光景はあまりにも惨たらしく、歩みを止めざるを得なかったのである。
無造作に捨てられた塵芥のように、路上には人間が転がっていた。ある者は頭から、またある者は腹からといった具合に血を流しており、倒れている人々は一様に血だまりの中にいる。動く者はなく、誰もがすでに息絶えているようだった。
殺された死体を目にしたのは初めてのことであり、サイゲートは衝撃のあまり動けなくなってしまった。逸らすことも出来ない目に、血だまりと死体が焼きついていく。時の経過と共に少しずつ衝撃が引いていくと替わりに激しい憤りがこみ上げてきたのでサイゲートは拳を民家の壁に叩きつけた。
(くそっ……!)
これが、戦争というものなのか。戦うことの出来ない者を一方的に殺めるのが、戦争というものなのか。
血の臭気と憤慨が眩暈を引き起こし、サイゲートは頭を抱えてしゃがみ込んだ。刹那、天をも切り裂くような女の悲鳴が街中に響き渡る。とっさに体を起こしたサイゲートは考える間もなく悲鳴がした方向へ走り出していた。
現場に駆けつけたサイゲートが見たものは泣き叫んで取り乱している女と、その女を見下ろしている集団だった。真冬だというのにボロボロの薄布を纏っている集団は全員が手に得物を握っている。敵の数が多かったので、サイゲートは飛び出すことを躊躇した。すると、その間隙を狙いすましていたかのように貧相な集団が女に武器を突き立てる。もう一歩を踏み出すことさえ出来ない、一瞬の凶行だった。
敵が立ち去ってから、サイゲートは倒れている女の傍へ寄った。女の体からは真新しい鮮血が流出しており、地を赤く染めていく。
(……息は、ある)
呼吸と心音を確かめ、サイゲートは女を背に負った。浅い呼吸を繰り返している女はもう助からないかもしれないが、ここでは応急処置も出来ない。自己満足なのかもしれないが、二度も見殺しにすることはサイゲートには出来なかった。
(あんな、かんたんに……)
無抵抗の人間に躊躇もなく武器を振り下ろした人々の姿が、蘇る。あんな簡単に人間は人間を殺めることが出来るものなのか。殺してもいい、ものなのか。
背中に滲む命の暖かさに歯噛みしながら、サイゲートは王城への道を急いだ。
敵の侵入を許したことを知ってすぐ、王城では会議が開かれた。議題はもちろん、この事態にどう対処するかということである。だが白影の里からの連絡もまだない状態では決断を下しようもなく、話し合いは行き詰っていた。今は動くことが先決だと感じたアゼルは席を立ちながら声を上げる。
「父上、橋へ行きます」
森林火災の一件で逃げるなら城だという意識が国民に植え付けられたのか、王城は避難してきた人々であふれている。それを追うように、王城へと続く橋には敵が殺到していた。今はとにかく、城内への侵入を許さないことである。アゼルがそう提案すると王は慎重に頷いて見せた。
「うむ。気をつけよ」
止めないでくれた父に深く頭を下げることで黙礼し、アゼルは会議室を後にした。そのまますぐ橋へ向かうつもりでいたのだが、廊下に整列している兵達を目にして足を止める。彼らはアゼルの私兵であり、一番年長の者が全員を代表して口火を切った。
「橋へ、行かれるのですね」
「ああ」
「お供させてください」
年長の者が顔を傾けたことを合図に、下手に控えていた者が防具を持って進み出てくる。他の者達も心は決まっている様子で頭を垂れたので、一人でも臨むつもりだったアゼルは胸が詰まった。だが今は、感慨を露わにしている時間はない。腹の底からこみ上げてくる熱い感情を押さえ込み、アゼルは平静を装って私兵達に応じた。
「命の保障は出来ない。それでも着いて来るか?」
「お供します」
迷いない配下の一言に、アゼルは防具を受け取った。
「よし、行くぞ!」
防具を身に着けたアゼルは掛け声と共に王城の廊下を歩き出す。その後に、隊列を組んで私兵達が従った。
「王子だ!」
「王子、お気をつけて!」
「がんばってください、王子!」
アゼルの姿を目にした民衆から激励の声が上がる。現状を打破してくれという期待のこもった目を嫌というほど感じながら、アゼルは私兵達と共に王城一階にある正面門へと向かった。
「兄上!」
人だかりの中から不意に、知った姿が飛び出して来た。妹の姿に目を留めたアゼルは複雑な思いで走り寄って来る彼女を迎える。
「菜の花……」
父は許してくれたが、菜の花には止められるかもしれない。アゼルはそうした危惧を抱いていたのだが、しかし菜の花は毅然として言った。
「お気をつけて。ご無理は、なさらないでくださいね」
不安を感じていないはずはないのだが、菜の花は怯えた様子など微塵も見せなかった。それはおそらく、ここで自分が動揺する姿を見せれば国民を不安にさせると思ったからだろう。健気にも彼女なりの戦いをしている妹を、アゼルは思わず抱き締めた。
これから赴く戦場はアゼルにとって初めての実戦である。自身の命を失うかもしれないということも、他人の命を奪うことも、本当は恐ろしかった。だが行かない訳にはいかない。護るべきものが、あるから。
「行ってくる」
「ご無事を、お祈りしています」
密かに別れを交わし、アゼルは菜の花から体を離した。そして再び、振り返らずに歩き出す。城の正面入口である扉の前で門番が敬礼した。アゼルは扉を開くよう指示を出し、二人の門番によって少しずつ開かれていく扉の先を見据える。狂乱と怒号の叫びが、すでに聞こえてきていた。




