夜空に浮かぶは赤い月(2)
その日、定期報告のために朝から王城を訪れていた海雲は花々の咲き乱れる庭先で足を止めた。
「先に行っていてくれ」
同行して来た者達に言い残し、海雲は庭へと歩を進める。その場所で剣を振っているのは海雲とさほど歳の違わない少年だ。
「王子、ご機嫌麗しゅう」
海雲がわざと堅苦しい挨拶をすると、少年は嫌な顔をしながら振り返った。
「やめてくれ。そんな挨拶は耳に胼胝が出来る」
苦い表情ながらも砕けた口調で応じる少年の名は、アゼル。彼は赤月帝国の次期王位継承者である。
「元気そうだな、アゼル」
海雲が言葉遣いを改めるとアゼルも笑みを見せた。アゼルは手にしている剣を一振りし、海雲に挑戦的なまなざしを注ぐ。
「少し、相手をしてくれないか?」
「王の下へ行く途中なんだが……まあ、少しならいいか」
「それでこそ海雲だ」
爽やかな笑みを浮かべ、アゼルは威勢良く走り去って行った。アゼルに待っているよう言われた海雲は小さく息を吐きながら視線を泳がせる。王城の庭に咲き乱れている花は美しく、赤月帝国は今日も平和である。だが海雲が王に報告しようと思っている事柄の中には、一つの懸念が存在していた。
城内に姿を消していたアゼルが庭へ戻って来たので海雲は思考を切り上げて顔を傾けた。アゼルは自身が使っていたものとは別の剣を手にしており、一本を海雲に差し出す。剣を受け取った海雲はすぐに鞘を捨て、構えをとった。
「菜の花姫もお変わりないか?」
一定の距離を保ったまま海雲が雑談を始めるとアゼルも構えながら応じる。
「ああ。白影の里へ行きたいと毎日侍従を困らせている」
「姫は里がお好きだからな。先日のご訪問の際にも、随分と珍しがっておられた」
「初めて行く訳でもないのに、懲りない奴だ」
「危険な物も置いてあるからな。姫が怪我をされないよう、皆必死で気を配っていたよ」
「すまないな。里の者達にも詫びておいてくれ」
「詫びる必要などない。皆、姫がいらっしゃるのを楽しみにしている」
「父も菜の花には甘いからな」
「姫が可愛くて仕方ないのだろう。お気持ちは、解らないでもない」
そこで話を切り、海雲から動いた。海雲が上段から斬りこんでいったのに対し、アゼルは躱して距離を取る。アゼルが飛び退いたのを見た海雲は動きを止めてニヤリと笑った。
「気を抜くと痛い目見るぜ? 王子相手でも手加減はしない主義なんだ」
「……菜の花が白影の里に行きたがるのは里が好きなだけじゃない」
突然、アゼルが脈絡のない話を始めたので海雲は眉をひそめた。
「何だ? 何か別の理由でもあるのか?」
「どうやら、白影の里に恋焦がれる人物がいるらしい」
「は?」
アゼルが言い出したことが突拍子もないことだったので海雲は思わず間延びした声を返す。刹那、アゼルがニッと笑った。
「隙あり!」
「うわっ!!」
間一髪でアゼルの攻撃を躱した海雲は均衡を崩し、地面に倒れこむ。その様を見たアゼルが笑い声を上げた。
「お前が地に伏す姿は久し振りに見たな」
「……っ、きったねー!!」
叫びながら飛び起きた海雲は剣を投げ捨ててアゼルに詰め寄った。怒気を孕んだ低い声で、海雲はアゼルに不満をぶつける。
「王子ともあろう御方がこのような卑劣な手段を用いてよろしいと思っていらっしゃるのか」
「悪い悪い。だが、先程の話は本当だ」
本当に悪いと思っているのかは疑わしかったが、アゼルから一応謝罪の言葉を頂戴したので海雲は表情を改める。
「姫のことか?」
「ああ。まったく、厄介な奴に好かれたものだ」
「好かれた方は幸せなんじゃないか? 一国の姫君だぜ」
「肩書きは関係ない。問題は性格だろう」
「そうか? 姫は容姿端麗でいらっしゃるし、性格も特に悪くはないと思うが」
「そう思うのなら、幸せにしてやってくれ」
「は? ……あっと、」
城内からの呼び声に気がつき、海雲は視線を移して顔をしかめた。いつの間にか先に行っていろと言った者達が戻って来ており、海雲に役目を果たすよう促している。夢中になっているうちに相当時間が経過したようだと反省しながら、海雲はアゼルに顔を戻した。
「じゃあな。話はまた今度だ」
「用事が済んだら部屋の方へ寄ってくれ。時間があればでいい」
「わかった」
アゼルに別れを告げ、海雲は急いで庭を後にする。同行者達と共に謁見の間へ入室すると王はすでに着座していた。通常、謁見を願い出た者が先に跪いているのが礼儀だが王を待たせてしまったようである。海雲は跪いて臣下の礼をとり、謝罪を述べた。
「遅くなりましたこと、お詫び申し上げます」
「頭を上げよ。アゼルとそなたは良き友人、顔を合わせたのなら話をしたくもなるだろう」
別段責めている様子もなく、王は海雲を促した。前王は気が短かったと聞いているが、現在の王は寛大である。ただ少し気の弱い処が見えるのが、欠点と言えば欠点だろう。そんなことを考えながら海雲は頭を上げた。
「はい。つい話しこんでしまい謁見に遅れましたこと、重ねてお詫び申し上げます」
「なんでも、剣の稽古まで付き合わされたそうではないか。礼を言わなければならないのはこちらのようだ」
王が笑みを見せたので海雲も少し笑んだが、すぐ真顔に戻る。同行者達をも下がらせた後、謁見の間に他者の姿がないことを確認してから海雲は口調を改めて本題を切り出した。
「大聖堂という存在をご存知ですか?」
短い言葉でも海雲の意図は伝わったようで、王は少し眉根を寄せながら応じる。
「そなたの手の者からある程度の報告は受けている。驚異的な速さで領地を広げているな」
大聖堂という組織は不特定多数の宗教を束ねる、言わば信仰の拠り所とされている存在である。未だ治まらぬ戦争が続くなか、立場の弱い庶民は苦しみから救われようと神を求めてきた。だが多くの国が決起を促すような集団を認めはしない。そうして弾圧された信者達が寄り集まった結果が大聖堂だと言われているが、その成立がいつなのかはっきりしていない。大聖堂には謎が多いが今はそのことには触れず、海雲は報告を続けた。
「覇権争いとは縁遠いと思われる者達でしたが有力な各国で宗教が弾圧されるに従って民草が大聖堂に流れ込んでいるもようです。当初は自衛のために戦いを始めたようですが、現在では明らかに侵略と思われる行為を重ねています」
「それでは、軍事的な組織が整ったと?」
「そのようです。信教や宗派にかかわらず、信仰を心に抱く人々が寄り集まって一つの国を形成しております」
「自然に人が集まったにしては速すぎるな。元々ある程度の体制は整っていたのではないか?」
「聖女と呼ばれる存在が中枢に位置していることは判明していますが、それ以上はまだ」
「そうか。彼等は何を目的として戦っている? 自らの国を護るという大義名分は、もはや行動と伴っていないと見受けられるが」
「おそらくは、あまりに多くの民が戦火を避けて集まったため領地が足りなくなったのではないかと」
どの国の民でもない流民は、日々膨大な数を排出している。監視を厳しくしている赤月帝国にすら、辿り着いてしまう者がいるくらいなのである。海雲がそう補足すると王は嘆息した。
「海雲よ、彼等の強さは何だと思う?」
中央の争いに参戦してからの大聖堂は、負け知らずできている。策も陣形もなく、ただ数を頼りに戦うだけの彼等が、それでも負けない理由は……。王の疑問に答える言葉を探していた海雲は複雑な思いを抱きながら口を開いた。
「兵には、女子供や老人まで混じっていると聞きます。戦わなくては生きていけない、そういう世の中なのでしょう。他宗教同士は本来対立しやすいものですが信仰として一つになり、強く結びついています。私には宗教はよく解りませんが兵は皆、死をも恐れず鬼の形相で立ち向かうのだとか」
争いは人間を悪鬼に変える。赤月帝国内にいるとそのような風潮は嘘のように感じられるが、それが現実なのである。海雲は王に知れないよう小さく息を吐き、表情を改めた。
「いずれにしても、大聖堂にはこれからも注意を払う必要があります」
「わかった。目を離さないでいてくれ」
渋い顔のまま頷く王に一礼して、海雲は謁見の間を後にした。




