まもりたい(1)
赤月帝国を抱くように広がっているかげろうの森は、国内と外界を結ぶ交通路である。だが人の往来に必要な道などは整備されておらず、平素であれば国内外を問わず進入しようとする者は少ない。鬱蒼とした木々が茂るかげろうの森は密林であり、天然の迷路となっているため土地勘のある者でも一歩道を誤れば迷ってしまうからだ。だが未開拓で人の踏み込めない森は敵を迎え撃つのに都合がいい。侵入口もここしかないので、白影の里はかげろうの森に罠を張り巡らせて敵を迎えたのだった。
赤月帝国に侵攻してきた大聖堂軍は幾度となく罠にはまった。その度に人数を減らし、一度退却し、それでもまた日を改めて攻めて来る。罠の種類なども日々変えてはいるのだが、それでも幾度となく攻めてくる度に慣れ始めてきているようだった。
自ら森に赴いて指揮を執っていた海雲は大聖堂軍の思わぬしつこさに考え込んでいた。早期に諦めさせることが重要であったが、その機会はもう逸してしまっている。小競り合いに時間がかかっている分だけ実力の差が雲泥であることは大聖堂軍にも解っているはずなのだが、それでも彼らは諦めようとしないのである。何かが彼らを駆り立てているのか疑問を抱いていた海雲の元に妙な報せがもたらされた。
「聖地?」
配下の口から飛び出した耳慣れない単語に海雲は眉根を寄せる。聖地というものが宗教用語であることは知識として得ているものの、それが何を意味しているのか海雲には理解出来なかったのだ。大聖堂軍の様子を探りに行っていた配下は頷いてから言葉を次ぐ。
「大聖堂軍は皆、赤月帝国こそ聖地だと叫んでいました」
「それはどういうことだ?」
「どうも、大聖堂の上層部が赤月帝国の様子を大袈裟に説明したようです」
報告によると、大聖堂の上層部は戦線に赴く兵達にこう言い含めたらしい。『赤月帝国は長く戦のない平和な地で、それは神に護られた聖地だからに違いない』と。
信仰を抱く兵達は神に護られた地ならば変わらぬ平穏を約束してくれると思い込み、また聖地に先住民がいるのが許せないのだ。我らが死の淵を這いずり回っている時に何故お前達だけが平和を手にしていたのかと、彼らは憎悪しているのである。そうした説明を受けた海雲は理解に苦しみながら空を仰いだ。
(予想はしていたが……)
想像以上にその、聖地という言葉が効いている。海雲には宗教というものがよく解らないが、大聖堂の上層部が追い詰められた民の心をうまく利用していることだけは嫌というほど感じられた。
「警戒を強めろ。敵は民ではない」
本当の敵は赤月帝国に侵入してきている輩ではなく、大聖堂という組織そのものだ。報告に戻って来ていた配下に再び大聖堂陣営に潜り込むよう指示を出し、海雲は険しい表情で地図を睨んだ。
信憑性に乏しかった会戦宣言が程なく現実のものとなり、赤月帝国と大聖堂の戦争が始まった。会戦の舞台は赤月帝国を包囲するように広がっているかげろうの森である。だが森は広大なため街からは戦雲を窺うことも出来ず、赤月帝国内は未だ平穏を保ち続けていた。敵が攻め込んで来ているという情報だけは常に流れて来るが、街まで侵攻されたことはない。初めのうちは敵兵の来襲に緊張感を高めていた国民も近頃では安心しきっており、街に暮らすサイゲートは空気が緩んでいるのを肌で感じていた。
「戦が始まるっていうから張り切って行ったのによ」
「まったく、無駄足だったな」
「白影の里があるかぎり赤月帝国は安泰だ」
戦の準備をすると言って森から姿を消していた仕事仲間もいつの間にか戻って来ており、意気込んだことを無駄な労力だったと言わんばかりに愚痴を零している。その状態はもはや、公布がなされる前とまったく同じであった。兵に志願した若者で結成した自衛団も散会状態のままのようである。
(……戦はまだ続いてるのに)
すっかり安心しきっている仲間達に違和感を覚えずにはいられず、サイゲートは胸中でそう呟いた。終戦宣言がない以上、戦はまだ続いているのである。
開戦前、海雲は戦などすぐに終わると言っていた。だが現実は、戦はすぐには終わらなかった。それは大聖堂軍が何度も何度も攻め込んできているからである。何度押し返しても再び攻め寄せて来る敵の情報を得るたび、サイゲートの中では敵の存在が次第に大きくなってきていた。だが安全な場所で護られているだけの人々は、そうではないらしい。
「サイゲート、手伝え」
「あ、はい」
親方に声をかけられたので、森の奥を気にしていたサイゲートは急いで仕事に戻った。親方と二人で幹の両側から斧を入れ、切り倒した木の枝を落としていく。だが力いっぱい斧を振るっていても、枝を落とすという細かい作業をしていても、サイゲートは戦場となっている森の向こうが気になって仕方なかった。
「……親方」
「なんだ?」
黙っていられなくなったサイゲートが話しかけると親方は無愛想な返事を寄越した。親方は戦が始まると聞いた時から顔色一つ変えたことがなく、いつもとまったく変わらない。それまで気が弱いとばかり思っていた親方がここぞという時は堂々としているので、サイゲートは羨ましく思いながら言葉を次いだ。
「親方は怖くないですか?」
「何がだ?」
「ルシードって、追い返しても追い返しても攻めて来てるみたいじゃないですか」
「それだけ生きるために必死なんだろ」
「それは……そうですけど」
「戦争なんてもんがなくても、誰もが生きるために必死だ」
手を動かしながら親方と会話していたサイゲートは驚いて顔を上げた。親方は木に目を落としたまま黙々と作業を続けていて、自身が発した言葉にも感慨はない様子である。だからこそサイゲートには、先程の言葉が自然な考えのように感じられた。
生きるために必死なのは、なにも戦をしている者達だけではない。こうして森で木を切り倒しているサイゲート達も生活のために身を粉にして働いているのである。だが人間同士が命を奪い合っている戦と日々の暮らしを同列と考え、結び付けられる発想が凄い。そこが親方の秀逸な点であり、他の人とは違うと思ったサイゲートは嬉しくなって笑みを浮かべた。
「親方」
「……まだ何かあるのか?」
「育ててくれて、ありがとうございます」
嫌そうな表情で顔を上げた親方はサイゲートの率直な言葉に面食らったような顔をした。だがそれも束の間のことであり、すぐ無表情に戻った親方は何も言わずに作業を再開させる。返ってくる言葉はなくとも心は通じたと感じたサイゲートも笑みを浮かべたまま仕事に戻ったのだった。




