夜空に浮かぶは赤い月(1)
天空に紅い月が浮かぶことから名付けられた、赤月帝国。大陸の東南に位置する王政のこの国は歴史が古い。
他国の歴史を見るに、世襲制の王国というものは大抵が長続きしない。後継者争いで国が乱れたり、他国の侵攻に失敗して衰退してしまったりと、その例は様々である。赤月帝国もまた世襲制の王国であるが他国に見る失敗を犯したことは一度もなかった。それは様々な要因が複雑に絡み合った結果なのだが、最大の理由は赤月帝国という国が建国された特殊な条件によるものだろう。
この頃毎夜訪れることになっている書庫へ足を運ぶと、そこには恒例の姿があった。小さな灯りに映し出されている背中に向けて、海雲は声を掛ける。
「また来てたのか」
背後から突然声を掛けられたにもかかわらず、少年は動じた様子もなく振り返った。海雲と同じ年頃の彼の名はサイゲートという。
海雲がいつ書庫を訪れたのか、おそらくサイゲートは気付いていない。だが根性が据わっているのか安心しきっているのか、サイゲートは最初からこうだった。
「お前がいつ来てもいいって言ったんじゃん。いいとこだったのに、ジャマすんなよな」
サイゲートが邪険に言い捨てて再び本に目を落としたので海雲はムッとした。
「確かに来てもいいとは言ったけど、昼間は絶対に来るなよ。見付かって怒られんのは俺なんだからな」
「わかってるよ、うるさいな。だからこうして夜に来てるんだろ」
「お前ね、誰のおかげで貴重な本が読めると思ってんだ?」
「わかってるって言ってんだろ」
「それがお前の感謝の態度なのかよ」
海雲が怒りを孕ませながら言うとサイゲートはようやく本から目を上げた。しかし謝るでもなく、サイゲートは海雲に手招きをして言外に来いと言う。
「なあ、これってどういう意味なんだ?」
サイゲートの口調は先程まで口論していたことなど忘れたかのようであり、海雲は呆れた。小さくため息をつきつつ、海雲も態度を改める。サイゲートが指している部分を流し読みした後、海雲は説明を始めた。
「昔、戦争で住む場所を追われた誰かがこの地に辿り着いた。ここは廃墟になってはいたが過去に人間が生活していた跡がそのまま残っていたから、そいつらはこの地に住み始めた。戦火から身を隠すにはもってこいの場所だったからな。それが、俺達の祖先だ」
「じゃあ、この里はいつ出来たんだ?」
「同じように戦火から逃げ延びた人々が噂を聞き付けてこの地に集まって来た。人間が増えると、それをまとめる者が必要になってくる。だから、最初に移住して来た者達が後から来た者達をまとめるような立場になった。それが王政の始まりだと言われている。建国の最中で戦火から身を守るための自衛団みたいな連中が組織されたらしくて、それが白影の里の始まりって訳だ」
「……へえ。物知りだな」
「当たり前だ」
「本読んでてもムズカシイ字ばっかで、あんまわからないんだ。やっぱ海雲に聞いた方が早いかも」
諦めたように息を吐き、サイゲートは手にしていた本を閉ざした。本を元の場所に戻してから、サイゲートは海雲を振り返る。
「なあ、この里の人は誰でも、海雲みたいに知ってるのか?」
「俺みたいなって……どういう意味だ?」
「自分たちが暮らしてる国の歴史を知ってるかってこと」
「ああ。子供は物事を理解出来るようになる前から様々な情報を叩き込まれる」
「ふうん……。街とはちがうんだな」
「そりゃ、一応軍隊だからな」
「そっか」
話を打ち切って、サイゲートは歩き出した。書庫の出口へと向かって行くサイゲートの姿を目で追いながら、海雲は声を投げる。
「帰るのか?」
「太陽がのぼったら仕事だから」
振り向いたサイゲートは微苦笑のような笑みを浮かべ、そう答えた。一見溌剌として見えたサイゲートの笑顔が歪んでいるように思うようになったのは、いつからだろう。海雲はそんな事を考えながらサイゲートが去った書庫の出入口を見つめていた。
家人が寝静まっているはずの深夜、サイゲートは猫のような身のこなしでこっそり自室へ戻った。窓から室内に侵入したサイゲートは足音を立てないよう気を配りながらベッドに移動する。しかしまどろみかけた頃、サイゲートは家の中から聞こえてきた破壊音で目が覚めた。
「一体何時だと思ってるの!!」
「うっさいな! そんなこと言うために起きてたわけ!?」
深夜の静寂に似つかわしくない喧騒は、この家の母娘のものである。女達の金切り声は毎夜くり返されている光景を彷彿とさせ、サイゲートは欠伸を零しながら寝返りを打った。
神経質な母親に年頃の娘、何も言わない父親。世間では戦が続いているというのに、呑気なものである。だがそれはサイゲートの家に限ったことではなく、赤月帝国は平和なのだ。サイゲート自身、海雲と出会うまでは世界情勢など考えたこともなかったのだから。
(……人間ってフシギだよな。平和なのに争いが起きるんだから)
赤月帝国の平和が誰のおかげで成り立っているのか、そのようなことを考えたことのある人間は少ないだろう。そう思うと海雲たちが少し可哀相になったが何も知らなかったのは自分も同じなので、サイゲートは頭まで上掛けをかぶって目を閉じた。




