第十二話 契約
口元に笑みを浮かべたまま、緑服の女はゆっくりと立ち上がった。そのままヴェリアの方をまっすぐに見据える。
そんな悠長にしてる場合じゃねーだろ!? と焦ってるのは俺だけみたいで、ヴェリアの方も顎を突き出して緑服の女の方を睨みつけていた。
相変わらず足元からは水が溢れ出してきてるし、徐々に水位が増している。ヤバいと焦ったところで手足の鎖は一向に外れる気配を見せてはくれないんだが。
「ここに来る前に、船底に穴を開けさせてもらったよ」
はあぁぁぁ~!?
ニヤニヤしながらそう言う緑服の女に、ヴェリアもようやく危機を感じたのかツカツカと近づいて行って女の胸ぐらをつかみ上げた。
「キサマ、正気か!?」
「早く逃げないとここにいる全員が海の藻屑となるぞ? ああ、貴様のようなキメラのまずそうな肉は魚も好き好んで食わんだろうがな」
「チッ、ふざけた真似を……!」
狂ってる……。そう思ったのは俺だけじゃないだろう。ヴェリアは手を離して戦闘を放棄すると、外へと走って出て行った。まだ床上でチャプチャプといっているぐらいだ。今逃げれば助かるだろう。
っていうか! その前にこの鎖外してけよ!!
焦ってガチャガチャやっている俺の目の前に緑服の女がゆったりと近づいて来た。
「お前に頼みがある」
「あ!?」
「お前の力量はしばらく見させてもらった。私の名は桔梗という。私の失われし村を取り戻す手伝いをしてほしい」
「は、あぁ!? 何言って、っか、分かんね、し。このまま、じゃ、死ぬっ、つの!!」
痛みと疲労と焦りで思考が全く巡らない。それどころかこんな悠長に話してる場合じゃねーだろ、と思ってしまう。
「助かりたいんだろう? だったら私と契約しろ。村を救ってくれ」
こんな意味不明のやり取りをしている間に、非情にも水はどんどん増えてくる。さっきまで足首の辺りにあった水は、今はふくらはぎの辺りまできていた。もうやけくそだ。こいつが敵だろうが何だろうが関係ない。俺はまだ死にたくはないんだ、と頭の中に俺を待っているであろうタケルの顔を思い浮かべながら叫んだ。
「わ、かった! 契約、する!! お前……村、助、ける!! だ……から、俺、助け……て、くれ!!!」
息も切れ切れで、かなり間抜けな叫びだったが仕方ないだろ!? 俺は必死なんだよ! どんなにダサくてもいい。助かるためなら命乞いでも何でもしてやる。
緑服の女、桔梗はニヤリと笑うと、呪文を唱えだした。そうか、こいつ呪文を唱えないと魔法が使えないのか。俺が紋章に触れないと使えないのと同じ、制約がかかってるんだ、なんてぼーっと考えてる間に俺の手足の鎖を水の刃が斬っていく。ものすごい威力だ。
あっという間に手足の拘束が解かれ、俺はバシャンっと水の中に倒れた。桔梗がすかさず支えて起こしてくれる。
助かったぜ。立ち上がる気力もねーし、そのまま倒れてたらここで溺れ死んでるところだった。
「お前、封印が施されているな」
「うっ!?」
何のことを言っているのかさっぱり分からないと思っていたら、桔梗はいきなり俺の紋章に触れて呪文を唱えだした。胸に激痛がはしる。
これはアレか? 助けたと思わせていきなりどん底に突き落とすアメとムチパターン。もうダメだ……と思ったら、胸の紋章が急に熱を帯び始めた。
「回復は自分でしろ。私は苦手だ、出来ない」
何の事だと思っている間に、桔梗は俺から手を離し外に向かって歩き出した。ふざけんなよ! こっちは立ち上がる気力もないっていうのに!
やけくそだと言わんばかりに自身の熱を帯びていた紋章に触れた。なんだか力が湧いて来る気がして以前のように魔法を発動してみる。
「う、そ……だろ!?」
力を使った途端、辺りに光が満ち溢れてきた。冗談かとも思ったが間違いない、前より力がどんどん湧いてくるみたいだ。俺は傷ついていた自身の胸や擦り切れていた手足を魔法で治療すると、慌てて桔梗という女の後を追った。
「封印ってどういうことだ? さっきの奴らの仕業か?」
扉を出てすぐのところで俺を待っていてくれたのか、そこに居た桔梗に俺はすぐ問いかけた。桔梗は急ぎ足で上階に向かいながら答えてくる。俺も後に続いた。クロレシアの奴らはもう逃げたのか、辺りに人影はないみたいだ。
「さぁな。なぜ封印されてたのかなんて私が知るわけないだろう? だが、かなり強力な力だ。お前以上の力の持ち主の仕業だろう。解除も完璧にはできなかった。まぁ、どちらにせよ奴らがやったのでない事だけは確かだ。そんな事するぐらいならお前の魔力を全部吸い尽くしていたはずだろうからな」
そこまで聞いて俺はある考えが思い浮かんだ。
もしかして、俺が魔法を使えなくなってたのは……。
「父さん……」
息も絶え絶えだったはずなのに暴走した俺を止めてくれたのかもしれない、と俺は胸の紋章に触れ、きつく拳を握った。
俺、知らない間に助けられてたんだ。そんな事にも気づかずに、のうのうとツイッタ村で暮らしてた。
父さん、俺を見て笑ってただろうな……。
そう思ったらここで諦めるわけにはいかない、と余計に思った。俺に今できることをしないと。
必ず生きて地上に戻ってやる。
覚悟も新たに、俺は顔を上げた。
「ところでお前、俺の力量をしばらく見てた、とか言ってたよな? いつから見てたんだ?」
素朴な疑問を投げかけてみる。だって変だろ? 俺、こんな女の顔も姿も見たことなかったんだからさ。
桔梗はなぜかニヤリと笑った。
「迷いの森の魔物」
それだけ聞いて俺は悟った。ジャバジャバと足元の水をかき分け桔梗に一気に詰め寄る。桔梗は振り返って口元を歪めたまま俺を見上げてきた。
「っ……! あ、れ! あの木の魔物テメ―だったのか!? 本気で死ぬかと思ったんだぞ!!」
「あの程度で死ぬようじゃ利用価値なんてないだろう? 私は村を救ってくれる奴を探してたんだ」
「だからってっ……! あー! くそっ、もういい!!」
何を言ってもどうせ本気の謝罪なんて聞けないと桔梗のニヤついた口元を見て悟った。しぶしぶ一歩を踏み出した途端ぐらりと船が揺れる。
「っ……と! とと!」
バランスを崩し、とっさに手近にあった何かを掴む。ふにゃりと柔らかい感触がした。
「っ……貴……様!!」
「へ?」
てん、てん、てん、と自分の腕を伝って見、自身が掴んでいるものを確認した瞬間バッと手を離す。
「ばっ……! ちがっ……!! 不可抗力だ!! アクシデントだ!!! 海の陰謀だッ……!!!」
桔梗はとっさに自身の胸を左腕でかばい、右手で俺に強力な平手打ちをかましてきた。バシャンと水の中に俺の体が倒れる。ちょっと待て! こいつの平手打ち、ヴェリアと大して変わらねー威力だったぞ!?
ビビる俺を桔梗は凶悪な笑みで見下ろしてきた。
「役目が終わったとき覚悟していろ」
逃げるが勝ち、そう思った俺は悪くないと思う。
「そ、それより早く脱出しねーとマジで死ぬって!」
ヒリヒリ痛む頬をさすりつつ、適当に話題をそらしながらザバザバと水をかき分けて起き上がり、上階に向かった。階段を登り切ればようやく水がない場所だ。そこからさらに急ぎ足で甲板へと出た。
「脱出ボートに乗り込むぞ」
桔梗のセリフに俺は一瞬固まった。だがこの後の一言で更に固まる事になる。
「あ、しまった。脱出ボートの確保を忘れたな」
はああぁぁぁ!!???
「ふっざけんな!!! これじゃマジで俺達海の藻屑じゃねーかぁぁぁぁぁ!!!!!」
すでに小舟は散り散りに海に漕ぎ出し、ボートは一隻も残っていない。
俺達以外誰もいない甲板の上、広い空と青い海がただ煌めいているその場所に、俺の悲鳴交じりの声だけが響き渡った。