月の光、砂の城
月はきっと、哀れに思ったのだとおもう。
これは今からずっと昔、この世界に魔法があって、誰もが夜の闇を恐れていて、そして、月がまだ欠けることを知らなかったころの話だ。
砂漠に近い小さな町に、一人の魔法使いが住んでいた。彼は小柄で、やせっぽちで、いつも真っ黒な服を着ていた。誰とも口を利かず、誰の話にも耳を貸さず、誰に頼ることもなく、町のはずれに粗末な小屋を建てて、独り、暮らしていた。
町の人々は彼を嫌っていた。それは、彼が魔法使いだったからだ。魔法使いが嫌われるのは当たり前のことだと、彼が私に言ったことがある。
「だって、いつ自分のことをヒキガエルに変えるかもしれない相手と、本当に仲良くなれると思うかい?」
私は少し考えて、カエルは嫌だから別のものにしてくれと頼むと、彼は楽しそうに笑った。どうして彼が笑ったのかはわからなかったけれど、彼が楽しそうに笑うことなどめったになかったから、とてもうれしかったことを覚えている。
彼は他人を嫌っていた。いや、嫌っていなかったかもしれないが、間違いなく避けてはいた。彼は一日中家の中にいて、昼は窓に厚いカーテンを引き、ランプの灯りで読書をした。そして夜になるとカーテンを開けて、夜空に浮かぶ丸い月を見ていた。飽きずにずっと、月を見上げていた。
彼の家の扉はたびたびノックされたけれど、彼が扉を開くことはなかった。なかなか止まないノックの音に顔をしかめながら、彼は私に言った。
「ここを訪ねるのは三種類の人間しかいない。魔法で安易に願いをかなえたい馬鹿か、魔法で他人を不幸にしたい馬鹿か、魔法使いになりたい大馬鹿者かだ」
私はときどき、窓からこっそりと、扉を叩く人間を観察した。ほとんどの場合、彼の言ったとおりの人間がものすごい顔をして扉を殴っていたが、ときには三種類のどれでもなさそうな人間もいた。それは高熱にうなされる赤子を抱いた若い女性であったり、老いた妻を背負った老人であったり、ひどい怪我をした友人を抱えた男性であったりした。そういった人間は一様に、必死に、声をからして、魔法に救いを求めていた。そして、そんな日は決まって、彼は特別不機嫌になった。
寂しくないのか、と、一度だけ彼に聞いたことがある。彼は優しく微笑んで、お前がいるからね、と言って私の頭をなでた。そしてぽつりと、言った。
「人に囲まれているよりはいい」
少し悲しげに、そう言った。
彼は魔法を嫌っていた。魔法使いのくせに、彼が魔法を使ったのは、私の知っている限り、たったの二度だけだった。一度目は、馬車に轢かれて動くこともできず、ただ終わりを待つだけだった、薄汚れた黒猫を助けたときで、二度目は、砂漠の中に小さな、透ける城を建てたときだ。それ以外に彼は誰にも魔法を与えたりしなかったし、自分自身のためにさえ、魔法を使うことはなかった。
どうして魔法を使わないのかと私が問うと、彼は決まって不機嫌になって、
「人を馬鹿にしているからだ」
吐き捨てるようにそう答えた。
その年には病が流行った。各地で多くの人々が倒れ、そのほとんどが命を落とす死病だった。砂漠に近いその小さな町にも病は等しく訪れ、そしてやはり多くの人々が倒れた。医師たちの懸命な治療も効果はなく、病に伏せる人々は急速に衰えていった。そして、命消えゆく愛する人をその腕に抱えて、人々は魔法使いの家を囲んだ。
「どうか、どうか、助けてください」
人々は叫んだ。
「あなたの他に、もう頼るものがないのです」
休むことなく叫び続けた。
「あなたの魔法があれば、助けることができるのでしょう?」
どれほど待っても、人々の声が離れることはなかった。ひどくいらだっていた魔法使いは、やがて耐え切れなくなったのか、席を立って家の扉を開けた。
姿を見せた魔法使いに、人々から歓声が上がる。魔法使いの下へと殺到しようとする人々の動きを制するように、魔法使いは口を開いた。
「確かに、私の魔法はお前たちを救うことができるだろう。お前たちを救う方法は、私の魔法しかないのかもしれぬ。だからといって、なぜ私がお前たちを救わねばならない」
人々の動きが止まった。信じられないものを見るように、人々は目を見開き、言葉を失っていた。魔法使いは言葉を続ける。
「お引取りいただこう。お前たちの望みは叶わぬ。お前の腕にある者にお前ができることは魔法を乞うことではない。お前の腕にある者にお前がすべきことは、魔法に頼ることではない。私に向かって無駄に声を嗄らすより、言葉を与えるべき者がおろう」
彼の言葉の意味が人々に伝わるまでには、少しばかり時間がかかった。そして、その言葉が人々に理解されるに従って、辺りは息苦しいほどの憎悪に包まれた。あまりの激しい怒りに、誰もが言葉を見つけ出せずにいた。誰かがひとこと声を上げれば、人々は一斉に彼に襲い掛かるだろう、そんな張り詰めた沈黙の中で、彼は独り、人々の憎しみのまなざしを平然と受け止めていた。
沈黙はそう長くは続かなかった。人々の憎悪が限界に達する寸前、魔法使いは皮肉気に口の端を歪め、そしてよく通る声で人々に言った。
「私はお前たちを救わないが、もしお前たちが全てをあきらめ、来世に幸福を求めるというのなら、私とて魔法を惜しむことはない。青い炎で骨のかけらも残らぬほどに焼き尽くし、確実に天国の門まで送り届けて差し上げるが、如何かな?」
その言葉で、沸騰寸前だった周囲の空気が急速に冷えていくのが分かった。彼の言葉は、人々に彼が魔法使いであることを、今目の前にいる小柄でやせっぽちなこの男が、瞬きの間に人々を灰に変える力を持っているということを、思い出させたようだった。人々のまなざしは憎悪から恐怖へと変わり、誰かの上げた言葉とも悲鳴ともつかぬ声を合図に、その場にいた全ての人間が転がるように町へと逃げ帰っていった。
「哀れだな」
魔法使いが独り言のように言った。その顔は仮面のように無表情で、彼が今何を思っているのか、知ることはできなかった。
人々が去ってすぐ、魔法使いは家を出て、砂漠へと向かった。もうあの粗末な小屋には戻らないと、彼は私に言った。私が、少し寂しい、と言うと、彼は、ごめんな、と私の頭をなでた。なでられながら私は、彼の姿がひどく弱々しいような気がして、言いようのない不安を覚えた。彼は何も持たず、身一つで砂漠へと入り、私は彼を決して見失わないよう、彼のすぐ後ろについて歩いた。
凍えるような寒さもまるで感じていないというように、彼は平然と夜の砂漠を歩いた。やがて、誰も訪れたことのない、誰が訪れることもない、砂漠の真ん中にたどり着いたとき、彼は不意に立ち止まって空を見上げた。夜空には、欠けることのない月が静かに世界を照らしていた。ここは町より空に近いのだろうか。ここから見上げる空の月は、大きく、美しく見えた。
ここがいい、とつぶやいて、彼はつまさきで軽く足元の砂を叩いた。すると次の瞬間、小さな竜巻が目の前に現れ、砂を次々と舞い上げていった。多量の砂埃が視界をさえぎり、何も見ることができない。私は不安になって、彼の足元にぴったりと体を寄せた。すぐに視界は元に戻り、そして、私は目を丸くした。何もなかった砂漠の真ん中に、小さな、透明な城が建っていた。その城は月の光に淡く透けて、ほのかに光を放っていた。彼は私のほうを向いて、
「幻みたいだろう?」
そう言って笑った。
ひどく、悲しかったことを覚えている。
そして彼は、砂漠に建てた透ける城で暮らし始めた。強すぎる日差しを避けて、昼間は日陰で眠り、日が沈むと目を覚まして、夜空の月を見上げる。そんな毎日が続いた。私の不安は日を追うごとに強くなって、片時も離れることのないように、私は彼の傍らに体を寄せていた。彼が少しずつ幻になっていくようで、とても恐ろしかった。
奇跡は突然に起きた。
そのころの魔法使いは、もう話すことも、体を動かすこともなくなり、城の壁に背を預けて、月だけを見ていた。彼の体から伝わる体温だけが、彼がまだ幻ではないということを確認する、たった一つの手段だった。私は彼に何度も呼びかけたけれど、私の声はもう、彼に届いてはいないようだった。
その日、数日来瞬きさえすることのなかった彼の体が、少し揺れた。私が彼を見上げると、彼の右腕がゆっくりと持ち上がっていくのが見えた。彼は夜空の月に触れようとするかのように、まっすぐに月へと手を伸ばした。いたたまれなくなって、私は彼に、月は遠いよ、と言った。私の言葉に、彼はゆっくりと腕を下ろし、ひどく穏やかな瞳で私を見て、そしてそっと私の頭をなでて、言った。
「……そうか。月は、遠いか……」
私は、泣いていた。彼をつなぎとめることのできるものが今、失われてしまったのだとわかった。彼は優しく、優しく私をなでながら、ごめんな、と言った。謝ってほしくなどなかった。でも彼は、私が泣いている間ずっと、その言葉を繰り返した。
泣き疲れて、私は少し眠ってしまったようだった。夜明けが近いのか、辺りは少し明るくなっていた。私はあわてて飛び起きると、魔法使いの姿を探した。彼は私のすぐ傍らにいて、私は大きく安堵の息をついた。
彼の姿を見て安心し、余裕ができたのか、私は周囲の様子が少しおかしいことに気付いた。辺りに満ちる光が、射抜くような砂漠の陽光ではなく、静かにそっと世界を包む白光だったからだ。私は魔法使いの顔を見上げた。彼はひどく驚いたように、呆然と中空を見上げていた。私は彼の視線を追い、そして、奇跡を、見た。夜が明けたのではなかった。遠く、届かぬと知った奇跡が今、私たちの目の前にあった。
月が、砂漠の小さな城に、舞い降りたのだ。
それから魔法使いは、その小さな城で月と暮らした。城は月の光に満ちて白く輝き、何もない砂漠の中心に幻想的に浮かんでいた。彼は月だけを見つめ、月は彼だけを照らした。夜空にあって世界を平等に照らしていた月は、他の誰も照らすことなく、彼だけを光で包んだ。それはきっと、彼にとって最も幸福な、そしてたった一度だけの、幸福な時間だった。
愛しいものを見る瞳で月を見つめる魔法使いの足元に、私はずっと寄り添っていた。私の不安は消えず、むしろ日を追うごとに大きくなっていった。きっと月は、いつか空へと帰るだろう。そのとき彼はいったいどうなってしまうのだろう。私は静かに輝く月に向かって、彼を連れて行かないでと、ただそれだけを願っていた。
そして終わりは、唐突に訪れた。
「夜空から月を盗んだ悪党め! 月を返してもらおう!」
やや芝居がかった、滑稽とでも言うべき声が、砂漠の城に響き渡る。魔法使いは顔を軽くしかめ、招かれざる訪問者――大きな剣を手にした一人の若者――を見やった。若者は遠慮する気配も無く、砂漠の城に足を踏み入れる。魔法使いは私に少し下がるよう告げると、月をかばうように手を広げ、若者と対峙した。そして無表情に、若者に言葉を返した。
「おかしなことを言う。月がお前たちのものと誰が決めた? 私が月を盗んだと、どうして分かった? 月が、自らの意思でこの地に降りたのだとは考えないのか?」
馬鹿にされたと思ったのか、若者は顔を赤くして剣の切っ先を魔法使いに向けた。
「下らぬことを! 月に意思などあるはずがない! 月が世界の夜を照らすものである以上、誰かが独占していいはずがない!」
魔法使いが、かすかに笑った。そして私は、彼が選んだ未来を悟った。身体から力が抜け、私はその場に座り込んだ。魔法使いは不敵な表情を作ると、挑発するように、若者に向かって言い放った。
「月を返すつもりはない。取り戻したくば、力尽くで奪うがいい。手に持つ剣が飾りでないなら。私の魔法に立ち向かう勇気を、お前が持っているのなら」
返事をする代わりに、若者は剣を構え、魔法使いに向かって走った。魔法使いは逃げるでも、構えるでもなく、場違いにぼんやりと、近付いてくる若者を見ていた。私は彼に、魔法を使って、と叫んだ。彼の魔法は若者を、一握りの灰にすることも、氷の彫像にすることも、塵にも石ころにだって、何にだってできたはずなのに、若者の剣は、彼の身体を、貫いた。
剣が彼を貫く瞬間、彼は笑った。全てをあきらめたように、笑っていた。
でも、泣いていた。泣いていたのだ。
月は若者の手で空へと返され、月の光に淡く透ける、砂の上の小さな城も、砂漠の風に溶けて消えた。涙は出なかった。ただ、彼がこんな結末を望んだことが、悲しくてたまらなかった。
若者は何を思ったか、私のほうに近付き、手を伸ばした。私は若者をにらみつけると、差し出された手を力いっぱい引っかいてやった。若者は痛そうに顔を歪め、手をさすりながら私に言った。
「お前の主人はもういない。こんなところにいると、お前まで死んでしまうぞ」
私は魔法使いと一緒にいるつもりだったから、散々抵抗したのだが、若者は一向にあきらめる様子はなく、ついには首の後ろをつかまれ、私は町に連れ帰られることになった。魔法使いの亡骸は、砂漠の砂に埋もれ、もう見えなくなっていた。月は空にあり、砂漠には砂だけがあった。月が地上に降りたことも、砂の上の透ける城も、魔法使いがいたことさえ、すべて幻だったのだと言われている気がして、私は一声高く鳴いた。私の声は砂漠を渡り、そして、消えた。
町に帰る途中、若者の顔は冴えない様子だった。考え事をしているように、宙を見ながら、何かつぶやいていた。しばらくして、若者は右手に捕まえている私を見て、こう尋ねた。
「お前の主人はどうして、魔法を使わなかったんだろうな」
その言葉を聴いたとき、私の目から涙が溢れた。一度あふれ出した涙をとどめる術はなく、私は声を上げて泣きじゃくった。彼を救えなかった。彼を救いたかった。彼のことが、大好きだった。
突然泣き出した私を、若者はあやすように胸に抱えた。若者が私を慰めようとしていることが、たまらなく辛かった。町に着くまでずっと、若者は私を胸に抱えていて、町に着くまでずっと、私は泣き続けた。
人々は若者を熱狂と共に迎え、空に月を取り戻した英雄である若者は、この国の王となった。新たな王の誕生を人々は喜び、祝いの宴は長く続いた。人々が祝賀の雰囲気に酔いしれる中、私は砂漠に近い小さな町の外れにいた。私が魔法使いと暮らした粗末な家は、わずかに燃え残った木の欠片を残して、跡形もなくなっていた。思い出のほかに、彼のいた証は何も、なくなっていた。
私はあてもなく町を歩いた。町には、王を称える言葉と、神への感謝の祈りと、そして魔法使いへの呪詛の言葉で溢れていた。いつの間にか魔法使いは、病を流行らせ月を盗んだ極悪人になっていた。そしてそのとき、私はこの町で、病に倒れて命を失った者が一人もいないことを知った。人々はそれを神の奇蹟と呼んだ。魔法使いを良く言う者は、誰もいなかった。
魔法使いを失って、いくらかの時間が過ぎたとき、人々は夜空の異変に騒然となった。夜の闇に真円を描いて世界を照らすはずの月が、日を追うごとに欠けていることに気付いたのだ。魔法使いの呪いかと人々は騒ぎ立て、無駄な儀式を数多く繰り返したけれど、欠ける月をとどめることはできず、やがて月は完全に姿を隠した。再び月を失った人々の嘆きを横目に、私は月のない夜の空を見上げた。魔法使いが月を呪うはずがない。月はきっと、他の誰も照らさぬように、姿を隠したのだ。そう思った。
月は、姿を隠した翌日にはまた人々の前に姿を見せた。少しずつ欠けていったのと同じように少しずつ満ちていき、やがて再び夜空に真円を描いた。そしてあまねく世界を照らし、また少しずつ欠けていく。月は満ち欠けを繰り返すようになった。最初は欠けゆく月を嘆き、満ちゆく月を喜んでいた人々もすぐに慣れ、月が欠けることのなかったころのことを忘れた。時は流れ、魔法使いを討った若者も、魔法使いを罵る町の人々もいなくなった。魔法そのものもこの世から消え去り、魔法使いを知る人間は誰もいなくなった。彼を覚えているのは、私と月だけになった。
彼は何よりも強い力を持った魔法使いだったけれど、決して強い人ではなかった。優しくて繊細な、どこにでもいるような青年だったのだ。だから、闇の中でひとり超然と佇む月に憧れ、そうあることのできない自分を憎んだ。救いを求める人々を拒みながら、その声を、願いを無視することもできずに、傷ついていた。彼は人を、愛していたのだ。
私は今日も、町の片隅で空を見上げる。変わらぬもののないこの世界で、月は変わらず空にある。少し欠けた月を見つめて、私は彼のことを想った。欠けた月の光は、彼の魂を照らしているのだろうか。月ではない他の誰かが、彼の光になることができたら、違う結末を迎えることができたのだろうか。
目を閉じて、私は静かに歌い始める。彼の孤独を、存在を、忘れぬように。歌は月に届くだろう。月がまだ欠けることを知らなかった時代の、ひとりの魔法使いの物語は、風に乗って遥か彼方の空に消えた。