(3)
良平が秘頭ヶ丘の森に辿り着いた時、針葉樹が生い茂る森全体は異様な雰囲気に包まれていた。
先行した魔物達と退魔師達の戦いが行なわれる戦場と化していた。森の中から得体の知れない声が聞こえてくる。この森全体が蟲毒の壺と化していた。
希が黙り込んでいることが気になって、良平は声をかける。
「辛いのか?」
「そうじゃない。珠江お姉ちゃんのことを思い返してただけ」
希の言葉に良平は何も言えなくなった。
「あれは?」
希が空の扉を指した。空にできた穴は急激に塞がりつつある。
「あの陰陽師だろう。急ぐぞ」
魔王は鴨野篤弘のことを口に出した。そして、山道に足を踏み入れる。
「あの扉を封じられたらどうなる?」
「我には特に影響はないが、この街で暴れてる魔物達は大きく弱体化するだろうな。そして、汝も。……折角、退魔師にぶつけ合わせたのだから、今のうちに奥までゆくぞ」
魔王は早歩きで上りながら答える。良平も同じくらいのスピードで後に続く。
「結界とか張ってないんですか?」
「その為に許可を求めていた奴等を先行させた。既にこの森の結界は崩壊している」
希に答える魔王に、良平は一人が二役を演じているように思えた。
希自身も魔王も否定していたが、希が魔王に侵食されているのだろうか。そう考えて、それを打ち消す。良平にはそんな風には見えない。
二人は契約以外の何かを共有しているとしか思えなかった。
「やはり、あの魔物達は役に立ってくれたようだな」
退魔師らしき男が木に倒れこんでいる。既に男は亡くなっていた。
「お喋りは終わりだ。魔王! お前が封じられた場所で終わりにしてやる!」
森の奥から、靖花の声が響いた。良平は辺りを探すが、暗さも相俟って、彼女の姿は見当たらない。
「臆病風に吹かれたか」
「黙れ! 貴様の放った魔族共に殺された同胞の敵討ち果たさせてもらう」
魔王は挑発する。しかし、靖花の声は聞こえてくるが声が反響して、位置が特定できない。
「時間稼ぎに付き合うな。社を目指せ」
魔王が前を向いたまま、告げると同時に山道を走りだす。常人には追いつけない速度で。
良平も希の方を見て頷き合った後、駆け出す。魔王との契約の影響か、普段よりも速いスピードで走っている。
それでも、魔王の足は宙を舞う鳥のように速い。
「あの少年から優先なさい。あの女も。契約を絶たれれば、弱体化する筈」
「少年が最優先ですか?」
「魔王の目的は彼だ」
森の中から、靖花と部下の声が木霊する。それと同時に複数の破魔矢が良平を狙って迫る。
反射的に良平は森の中に飛び込んで破魔矢を避けた。
その瞬間、背中に鈍い感触が走る。その場を離れながら、体を捩ると男が日本刀を持って立っていた。
森に潜んでいたその男が日本刀で斬りつけたらしい。良平に凌ぐ時間を与えずに刺殺せんと踏み込んでくる。
だが、良平に到達する前に空間の歪み――衝撃波が男の首を直撃。首があらぬ方向に曲がったまま、斜面を転がっていった。
衝撃波の放たれた方向を見れば、魔王が錫杖から放ったようだ。
「大事ないか?」
魔王の声にリュックを脱いで確かめる。
リュックは破け、中に入っていたゴミ……ペットボトル二本まで切り裂かれていた。双葉と裕太が護ってくれたのだろうか。けれど、良平には二人の顔がはっきりと思い出せない。
「背中。大丈夫」
駆け寄ってきた希が良平の背中を触って調べる。傷口に冷たい感触がした。
「大丈夫。ちょっと背中の皮が切れてるだけ」
希が強引に良平を引っ張って、山道へ引き戻す。リュックを回収する暇はなかった。
魔王は錫杖を手に退魔師達と交戦していた。
そんな魔王の整った横顔を見ると、良平が男であるせいもあって、靖花達、人間の方が間違っているとさえ思える。
鞘から小剣を抜き、今度は逆に希を引っ張りながら、山道を駆け上がる。
「どけ」
魔王はあっと言う間に取り囲んでいた退魔師を叩きのめして進路を確保する。
良平は魔王に一撃を受け、山道を転がってくる男を斜面へ蹴り飛ばし、魔王と合流した。
森の各所で人の悲鳴が聞こえる。ほぼ同時に複数の場所から爆発音が鳴り響き、緑の中に火の手が上がる。
たちまち、黒と緑が赤に塗り替えられていく。
「何事!」
「上空で扉の守護をしてた魔族が見切りをつけ、森に火を放ちました」
「鴨野め。こうなることを分かっていて」
声が聞こえる中、魔王は先頭をきって走りだす。良平も希を連れて後を追う。
「これ以上は!」
横から出てきた男が良平に斬りかかる。
良平は希の手を離して、その斬撃を小剣で受け流し、一瞬で後ろに回り込み、斜面へと蹴り落とす。
男は爪を立てて、転落を防ごうとするが、抵抗虚しく斜面を転がっていった。
「社までどのくらいだ?」
「まだ、半分も達しておらぬ。だから、急げと言っておる。扉が閉じられると、形勢が逆転する。その前に決着を着けねば」
現れる男達を錫杖で薙ぎ払いつつ、答える。
良平の鼻が木や肉が焦げる臭いを感じ取った。どうやら、森全体から火の手が上がっているようだ。
絶え間なく、パチパチと木が爆ぜる音が聞こえる。
「不愉快ね。予定外だが仕方がないか」
後ろを走る希が言った。意識が混濁しているのか、先程、悪魔と戦った頃から発言がおかしい。
「火を消すのは後からでもよい。魔王と男を止めろ!」
それと同時に頂上付近から、巫女装束を着、玉串を持った靖花が現れた。良平達のいる山道からはかなり遠い。
「真打ち登場か。時間がない。先に回り込む方が……よいな」
魔王はまったく衰えた様子を見せず、山道を飛ぶように走り続けた。
良平も希を引っ張りながら、足がもげても構わない速度で後を追う。
山道を半分以上登った位置で、良平は下へ降りる道が炎に包まれていることに気付いた。退路は絶たれた。今は進むしかない。
良平は瘴気が薄れていくのと同時に悪寒が走る。それでも、足を前に出そうとして、躓く。
「大丈夫」
希が素早く、良平の体を支える。良平は頷いて答える。
魔王との契約があるとは言え、普通の人間なら死んでいるような怪我を負ってているのだから、その反動がくるのも当然のことだろう。
「拙いな。扉が閉じられ、瘴気も収まりつつあるようだな。急いで儀式を行なわねば、間に合わぬか」
魔王は周囲を警戒しながら、焦燥感に駆られているように思えた。
「半死人では瘴気が薄れると、活動するには辛いか」
靖花の声と共に上から飛来する護符を魔王は錫杖を一振りして衝撃波を作り出し、周囲の木ごと引き裂く。
良平はその声の方向を探すと、靖花が右手に玉串を、左手に護符を持っている。
「知らなかったのか? 巧妙に隠されていたので最初は気付かなかったが、貴様は既に人として半分死んでいる。故に今の状態では瘴気がないと生命活動に支障をきたす。タイムリミットは日の出までか?」
愚弄するかのように靖花が言った。魔王は沈黙している。
その事実を聞いて、良平は不思議と驚かなかった。リンチを受けた時、肋骨を折られた時、悪魔に雷を受けた時、覚悟はできていた。
良平は自分を支えている希の目を真正面から見た。
もし、希が魔王と意識を共有してるのなら、このアイコンタクトで考えていることが伝わるかもしれない。伝わったのか、希が頷く。
良平は希からふらつきながら、一歩踏み出して離れる。
「現在、四時手前。貴様等に残された時間はどのくらいだ?
手を打たねば、この男は完全に死ぬことになるんだろう。一緒にいた男も蘇生されることはできなかった。さしもの魔王と言えど、貴様を存命させるだけで手一杯のようだが」
靖花の言葉に反応するように良平は森の中へ走る。できる限り自然に。
「死にたくない。死にたくない。僕は死にたくない」
良平は叫びながら、靖花の気を引く。視界の端で石を拾う希の姿があった。
「……魔王。お前は男に」
靖花は嘲弄らしい笑い声を漏らすが、魔王は意に介さず、錫杖を構え、衝撃波を生み出す。
「その程度の陽動など」
靖花が簡単にその一撃を回避する。しかし、その避けた先に希が投げた石が靖花の額に直撃した。
魔力を帯びていなかったから、事前に察しできなかったのか。
予期しなかったらしく、靖花は割れた額を押さえることもできないまま、森の斜面を転がっていく。
「急ぐぞ」
魔王が手招きする。その表情は切迫していた。
「契約が不当なのは分かってたけど、ちゃんと言えよ。人に言われる前に」
良平はそれだけ言って、山道に戻る。
既に自分の命に価値がなくてもここで言い争う気はなかった。こうなったら、最後まで付き合ってやる。男の意地だ。……いや、魔王の目的を達成させたかった。
それを見た魔王はバツが悪いのか、背を向けて、社へと疾走する。良平も希の手を繋いで後を追いかけた。
「結構、辛くなってきた」
「希、もう少しだけ辛抱してくれ」
希も体力が尽きてきたのか、速度が落ちてきた。彼女の運動神経から考えるとここまで持った方が僥倖だ。
良平は気力だけで希を引っ張って走る。瘴気が薄れた影響と同時に、この五十時間ほどの疲労がピークに達しているのか、体が思うように動かない。
「貴様等は小生が滅すると言った筈だ」
走りながら後ろを見ると、靖花が左手で額からの出血を抑えながら、決死の形相で追ってくる。巫女装束を血に染めながら、叫ぶ姿は鬼としか思えない。
「しつこい奴。まるで鬼女だな」
魔王は振り返って、こちらの様子を確認し、追跡してくる靖花を睨む。
「あそこ! 鳥居」
希が声を上げた。良平も山道の終わりに鳥居らしき物を確認する。後、もう少し。
「屈め!」
咄嗟に良平は希を引き倒し、天然の階段に身を隠す。
魔王が錫杖を山道の脇に生える木に向かって振った。生み出された衝撃波に針葉樹が薙ぎ倒され、山道を塞ぐ。時間稼ぎくらいにはなるだろう。
「今のうちに」
魔王の声に良平は希の手を引いて、鳥居に向かって走りだす。良平と希は鳥居を駆け抜け、社へと辿り着いた。
後ろを振り返っても靖花の姿はなかった。
社の敷地内に入った瞬間、良平は吐き気を催し、地面に這い蹲って、ないに等しい胃の内容物を吐きだす。殆どは黄色の胃液だった。
「だ、大丈夫」
「平気。それより、二人は?」
希の呼びかけに良平は何とか、声を絞りだす。彼女も意識を繋ぎ止めて立っているのがやっとの状態に見えた。
「あたしは何とか」
希はリュックを下ろし、中に手を突っ込んで何かを探している。
「我の活動には支障はない。結界は潰れておる。だが――」
魔王が言うや否や、空を見た。上空にあった扉、穴が綺麗に塞がり、消滅した。
「空の穴が、扉が塞がった」
希が縋るような声で言った。扉守市全体に満ちていた瘴気が徐々に薄れていく。恐らく、鴨野篤弘が扉を閉めた後、完全に塞いだのだろう。
靖花の言うとおりだとすると、良平の命は夜明けまで持たない。
「魔王! 追い詰めたぞ。これで貴様の完全復活も水泡に帰す。もう何も思い残すことはないだろう。ここで完全に滅してくれる!」
鳥居とは別の方向、怨念の声と共に靖花が現れた。額には血に染まった白い布が巻きつけられている。退魔師と言うよりはそれに払われる側の存在に見えた。
「貴様はあの陰陽師よりも愚かなのだな。それとも、あやつの差し金か?」
「鴨野の指示は不愉快だが、この場が終着点だ」
冷淡な反応に靖花は勝ち誇ったように言う。それに対して、魔王は錫杖を構えた。
良平も小剣を掴み、最後の気力を振り絞り、立ち上がる。
何も言わずに靖花が魔王に襲いかかった。既に良平と希を戦力と見なしていないのか、全力で玉串を振り下ろす。
魔王はそれを錫杖で止めるが玉串の紙垂の先が肩に触れ、その部分を切り裂かれ。赤い血が飛び散る。
だが、それと引き換えに魔王は錫杖の柄で靖花の頬を打つ。それと同時に鈍い音がした。恐らく、靖花の頬骨が砕けたのだろう。
しかし、肩を斬られたのが堪えたのか、魔王は地面に膝をつく。
良平は残された体力では一回攻撃できるかどうか。機を窺って、靖花の隙ができるのを待つ。
隣で希がロンデル・ダガーを握り締め、靖花を睨んでいる。
靖花が良平と魔王を見比べた後、端袖から護符を撒き散らすように放出。その護符は空中に舞い上がり、杭のように形作り、魔王の頭上を蝶のように滞空する。
「希。逃げろ」
良平が意図に気付くと同時に護符の杭は魔王ではなく、良平を襲う。
魔王が錫杖を投げて、生み出した真空波で杭の大半を撃墜するが一部が良平を襲う。この軌道なら下手に避けない限り、隣の希には命中しない。
良平は目を瞑って覚悟を決めた。
訪れない死の瞬間に震える瞼をゆっくりと開けた。
同時に良平の視界が真っ赤に染まる。自分の血ではなく、希の鮮血で。
希が吐血しながら咽る。その表情は苦痛ではなく、満足げな笑みを浮かべている。彼女は自分の身を投げ出して、良平の盾になっていた。
「どうしてだよ。どうして、こんな風になる。希は関係ないじゃないか! 僕を殺せば、済むんだろう!」
良平は小剣を捨て、目を閉じ、崩れ落ちる希を抱き締める。涙で視野が歪んで像がぼやけていく。
どう見ても希の傷は致命傷だった。即死していない上にまだ、意識があるのが奇跡と言えた。
「何を勘違いしている? 式神を介して、遠物見で魔族、仲間同士の戦いを見せてもらった。
お前も見たのだろう。この女の力を。その女の障壁を破るのは困難だ。それほどの力を持つその女こそ、魔王の転生体にして本体。
障壁を無効化するにはお前を庇うようなタイミングでなければ、な。お前を餌にすれば、割って入ってくるのは分かっていた。だから、そうしたまでの話。……魔王から解放されたのだから、感謝してもらいたい。
まあ、この女が庇わなければ、お前はこの世に留まれなかったが――」
靖花は当然と言わんばかりの口調で言い返す。視界の端で魔王が石畳の上に倒れていた。
希が魔王を操っていたのだろうか――信じられない。
「良ちゃん。は、離れ、ないで。……最後くらいは、傍にいて。ちゃんと、あたしを、抱き締めていて」
希がうっすらと目を開けて、咳き込む。その口からは息と共に血を吐き出す。その赤色が良平の体と衣服を染める。
「ここにいる。ここにいるから」
良平は希の命を繋ぎ止めるように語りかけた。
「寒い芝居だ」
靖花が嘲るように言い放つ。良平には希の命が尽きようとしている時にそんなことを気にかける余裕はなかった。
「また、同じになっ……しまった。でも、今回は――あなた、腕の、中で逝、ける」
良平の腕の中で希は次第に弱々しく呂律が回らなくなって瞳孔からは光が濁っていく。
「何を言ってるんだよ。逝かないで! 逝かないでくれ!」
「良ちゃんが、を、あたしの血、液で汚しっちゃった――なんか、うれ」
良平が必死に抱き締めて叫ぶが、希は瞼を閉じて力尽きた。
その肢体は人形のように反応がない。人形と化した希から命を喪失したことを示すように無造作に血が流れ出ていく。
唯一の救いは希はその体中に傷を負いながらもその表情は満ち足りたように微笑んでいた。
良平はその表情を見て、希を愛していたことに気付いた。思い出せない何かに拘った為に大切な人を失ったことを――それが取り返しのつかない過ちを犯してしまったことを。
また、過ちを繰り返してしまった。遥か昔、海の底で犯した過ちを――
「僕らはただ、一緒にいたかっただけだ。なんで、こんなことに巻き込まれなければ――ならないんだ」
希を静かに横たえ、良平は靖花に問う。自分が言えたことではないが。
靖花が問いを無視して、こちらに背を向ける。魔王は石畳上でピクリとも動かない。本当に死んでしまったのだろうか。
「魔王……主演の芝居に付き合うこともなかろう。既に悪夢も覚めた。いや、半分だけか。
では、残りの半分には完全に消えてもらおうか」
背を向けたまま、靖花は自分が屠った命に視線すら向けない。今は良平よりも動かない魔王の五体を消し去ることを優先しているようだった。
いや、今にして思えば、最初から良平を狙っているふりをしているだけだったのかもしれない。――そんなことはどうでもいい。
良平はロンデル・ダガーを拾い、無言で立ち上がり、己の赤い視野の中に立つ者を見据える。
ほら言ったであろう? 所詮、人間など、このような手しか使わん。
良平の耳には力尽きている筈の魔王の声が聞こえた。――今、そんなことを気にしている場合ではない。
「このふざけた任務もやっと終わる。これで小生を見下した連中を」
靖花が魔王に止めの一撃を加えんと迫る。
玉串を振り上げた瞬間、良平は最後の力を振り絞って、走った。一瞬で距離を詰め、ロンデル・ダガーを靖花の背中に突き刺した。生々しい感触が刃を通して、伝わってくる。
――血と肉が裂けた音が。
「――は、馬鹿なことを、貴様が、やったことは、ただの――愚行、この魔は、貴様を――死へ、追い、やったのだぞ」
靖花は首を捩って、血を吐きながら良平を見る。信じられないと言わんばかりの表情で。
恐らく、正しいことをしていると言う傲然な考えがあったのだろう。
靖花の言葉に答えることなく、呻き声を上げながら、良平は力の続く限り、靖花の中に刺し続ける。退魔師の命乞いを無視して。
靖花が刺された部分から血を零しながら石畳に倒れ込む。それでも、彼女は抵抗しようと仰向けに向き直る。
靖花の馬乗りになってアイスピックで氷を砕くようにロンデル・ダガーを刺し続ける。
刺す度に血が噴出し、ロンデル・ダガーに付着した血が空中で飛び散り、辺りを濡らす。そして、何度目かの後、靖花の声は聞こえなくなった。呼吸音も。
それでも、良平は刺し続けた。機械作業の如く、無我夢中で。
ロンデル・ダガーは繰り返しに耐え切れず、靖花の体内で骨に当たって半ばから圧し折れた。
その鈍い音で我に返った良平は靖花を刺すのを止め、ロンデル・ダガーを捨てる。それは鈍い音と共に石畳を転がる。
良平は返り血と希の血液で全身真っ赤に染まっている。
目を開けたまま、靖花は巫女装束や体中を穴だらけにして、息絶えていた。
顔を上げると、力尽きていた筈の魔王が錫杖を左手に持ち、目の前に立っていた。そして、靖花の無念さの滲み出ている死に顔を気持ち悪いと感じたのか、屈んで右手で靖花の瞼を下ろす。
良平がフラッシュバックした映像や靄の中の出来事を思い返す。そして、魂の深い部分から湧き上がってくる記憶。――全てが繋がった。
何故、魔王が自分を契約相手に選んだのかも。希と契約したように装った意味も。
「憎い。こいつらが憎い。また、同じことの繰り返しだった。僕は人が許せない。力があれば、こんなことには――ならなかった。いや、望。君を守ろうと思えば、あの時もできたのに」
良平は靖花の上から避け、懺悔の言葉を搾り出す。
それを魔王は優しく落ち着いた眼差しで黙って聞いている。
「――名前を、思い出してくれたのね、あなた。御免なさい。こんな回りくどいやり方で。でも、妾も女だから。できれば、あなたに自力で思い出して欲しかったの」
「責めたりなんかしない。でも――」
良平は希に視線を落とす。
「……大丈夫。やり直せるから。その為にここに貴方とくる必要があった。鷹羽希は死んだけど、失われた訳じゃない。今から見せるわ。妾が元に戻るから。しばし待って……ね」
魔王は錫杖を右手に持ち替え、良平の頭を撫ぜた後、希の遺体の傍に近寄り、その胸に左手を添える。
「正確には彼女は、我の、妾の人間だった時の幸せだった頃の記憶。そして、純粋さ。
海に沈められた時に無理やり、魔族に変生してしまったから分離してしまったの。今、再び、それを取り戻して、妾は真の復活を遂げる」
魔王と希の姿が揺らぐと同時に二人の姿が混ざり、色素が欠乏したベリーロングヘアの銀髪に、濡羽色と右目とアザレアピンクの左目。雪と見間違える白い肌に変容していく。
そして、魔王の格好をした一人の少女が立っていた。良平には彼女に面識があった。靄の中にいた少女だ。
今なら、はっきりと認識できる。魔王が意図的に伏せていたのだろうか。
希を恋愛対象にしたくなかったのは前世に関する縛り、望に対する想いがあったせいだ。
もっと早く、認識できていれば――今回の地震が起こる前に思い出せていれば、宗一郎を追い詰めずに済んだのだろうか。
「二人で一人。希と望み。望は――望月の望。確か、生まれた時、満月が出てたんだったよな」
良平は前世の記憶を辿り、答えを導き出した。最初から目の前にあった。
「やっと会えたね、あなた。約束、果たしたよ。……でも、あなたを中々探し出せなくて御免なさい。過ぎた時間が長すぎて」
少女が、魔王が、はにかんで言った。
「気にしないで。僕も今まで思い出せなかった。それに僕の方が山ほど酷いことを言った」
良平は素直に謝った。
もっとも、埋め合わすにはとても足りないが。彼女は自分の為に魔族に転生し、千数百年を捧げてくれたのだから。
「良ちゃんが魔族になってくれたら、二人で永遠に夫婦として存在できる。それが《あたしと妾》の成就すべき願い」
「……あの時とは違い、別の僕かもしれないよ。それでも構わないか?」
良平は前世――最後に言えなかった言葉を口にする。
「うん。また、新しく始めればいいだけよ。あなたは何度生まれ変わっても、あなただもの」
それに魔王は顎を軽く引いて応じた。
勝てないな。素直にそう思った。
魔王たる少女が錫杖を地面に突き刺し、両腕を広げる。いつの間にか、握り締めたその右手には白い塊、骨の欠片のような物が握られていた。
良平は今度こそ迷うことなく、彼女を抱き締めた。長い年月の果てに、再び、出会うことができたのだから。
「ここにある必要な物って」
「この場所。そして、あなたの頭蓋骨の欠片。これであなたを無理なく魔族に転生させたかった。《転生の輪音》もその為に必要だったの。宗一郎には悪いことをしたと思うけど、妾にはあなた以外を愛せなかった。
……ずっと一緒にいたいから。――了承してくれるよね? あなたを失いたくない」
魔王はおずおずと言いだした。遥か昔、巫女だった時と変わらぬ笑顔で。いや、希の時と同じ柔らかい表情で。
今まで懐いてきた感情を今、素直に表現しても良い開放感に身を委ねる。
「僕はずっと一緒にいる。希、ちがうな、望。君の望むままに」
良平も笑顔で答えた。魔王の瞳には紅いに染まった自分の瞳孔が映っている。
「困ったな。希と言われると、望の部分が。望と言われると希の部分がざわめく――嫉妬ね」
「じゃあ、魔王と呼ぼうか? それとも、《絶望の満月》の方が――」
「戯れは止めて。とにかく、時間がないから、魔族転生の儀式を開始するから。あの陰陽師も今、戦うには厄介な相手だし――早く終えて逃げるよ」
魔王は抱き合った状態のまま、呪術を唱えだした。それに答えて、地面に突き立てた《転生の輪音》が光を放ち始める。
良平と希は家族や友人を失い、人間と言う衣に執着する必要がないのだから。
魔王《絶望の満月》の周囲を膨大な魔力が満たした。それは社の神聖性を瞬時に瘴気へと塗り替え、魔方陣を形成する。
それと同時に秘頭ヶ丘全体の空気が急激に冷えたように感じる。発生した魔力の余波で火災が一瞬で鎮火したのだろうか。
完全なる《絶望の満月》の復活と良平だった存在を魔族とする儀式。即ち、良平と魔王の結婚式と言えるのだろうか。
それは人間にとって、災いであっても良平達二人は幸福に包まれる。一瞬で澄み渡った寒天には満月まで満ちた紅き月がこの結婚式を祝福して輝いていた。
儀式を終え、魔族となった良平は《絶望の満月》いや、一人の少女の手を取り、共に扉守市より抜け出す為に走り始めた。




