カワウソと学校
近所の小学校に、幽霊が出るという。目撃情報はばらばらで、どんな姿をしているのかもよくわからない。
わからないまま食べられてしまった生徒がいる。できたての給食がごっそりなくなっていたこともあるらしい。
りん子は友達のカワウソを誘い、見に行くことにした。
「えーと確か、せせらぎ通りのちくわぶ小学校だったわね」
「違うぞ、逆だ。ちくわぶ通りのせせらぎ小学校。まあ、そんなことはどうでもいい」
カワウソは焼き鮭を一口で食べ、りん子のバニラアイスまで食べてしまうと、水かきの手を顎に当てた。
「問題はどうやって入り込むかだ。俺たちは幽霊と違って透明になれないからな」
「いい考えがあるわ」
りん子は押し入れの奥からランドセルを出してきて、カワウソに背負わせた。黄色い帽子もかぶせると、どこからどう見ても小学生だ。
川沿いの小道を歩き、せせらぎ小学校の正門に着くと、用務員のような女性が立っていた。眼鏡の奥の目を細め、りん子とカワウソを交互に見る。
おはようございます、とりん子は言った。よそ行きのワンピースにネックレスを付けた姿は、完璧にカワウソの保護者だ。
「二年一組の川野です。朝ご飯の鮭が逃げ出してしまって、追いかけているうちにスウェーデンまで行ってしまったんです。黄金のオーディン像に乗って帰ってきたんですけど、ちょっと遅くなってしまいました。今から授業に出られます?」
用務員はカワウソを捕まえ、ランドセルと帽子を剥ぎ取ると、水かきの手をつかみ上げた。
「ええ、出られますよ。理科の実験動物としてならね!」
カワウソは用務員の腕をすり抜け、敷地内へ飛び込んでいった。りん子は追いかけた。植え込みが揺れ、カワウソの耳としっぽが見え隠れする。校舎に沿って走り、角を曲がると暗い隙間が見えた。カワウソは体をくねらせて入り込み、りん子もめいっぱい顎を引いてどうにか隠れた。
待ちなさい、と用務員が通り過ぎていくのが見えた。
りん子は目を動かした。いかにも怪しい隙間だが、何もないようだ。壁が少しずつ狭まり、気づいた時には出られなくなっている、などということもない。これ以上狭まりようがないのだ。
「おい、そろそろ出るぞ」
「待って。お尻がつっかえちゃったわ」
体勢を変えようとした時、どこかから声が聞こえた。低い笑い声だった。
りん子は両側の壁に手をつき、上を見た。屋上から誰かがのぞいているのではないかと思ったが、影も気配もない。
「こっちだ」
カワウソが先に立ち、走っていく。りん子は服の埃を払い、後を追った。隙間を抜けると、太陽の光が差した。シーソーと丸太の遊具が白く照らし出される。本当に遊具だろうか。細く長い道のように見える。星を浮かべた川のようにも見える。光の彼方で、誰かが手を振っている。
「りん子!」
はっとして、目を瞬いた。カワウソが少し離れたところで振り返っている。木立の間に、遊具は静かにたたずんでいる。
「学校って不思議ね。知らない記憶が潜んでるみたい」
「ああ、知らないにおいだ」
カワウソは鼻をひくひくさせた。校舎沿いの花壇を一目散に走っていく。
「どこ行くの」
「こっちだ。間違いない」
追いかけるうちにわかった。カワウソが向かったのは、給食室の裏側だ。肉とスパイスの香りが漂っている。
カワウソは壁に張り付き、窓のところまで登ろうとした。
「ご馳走の山だ、素晴らしい。実に素晴らしい」
「そんなことしに来たんじゃないでしょ」
りん子はカワウソの尻尾をつかみ、壁から引きはがそうとした。指先が鉤爪のように壁をとらえて離さない。
その時、チャイムが鳴った。
足音と声が聞こえてくる。あっという間に、りん子たちのいる中庭まで押し寄せてきた。
「わあ、イタチだ!」
「イタチじゃない、カワウソだよ」
「どけよ、見えない」
つやつやの頬をした子どもたちが、壁を取り囲んで手を伸ばす。二、三人はりん子の腕にしがみつき、よじ登ろうとする。
「ちょ、ちょっと、やめてってば」
両腕に子どもがぶら下がり、りん子は大きくふらついた。後から後から、子どもたちが手を伸ばしてくる。
カワウソはまだ壁を登ろうとしていたが、手を滑らせてりん子の上に落ちてきた。
子どもたちが飛びかかり、二人を捕まえようとしたその時、りん子の体がふわりと浮いた。
おばけだ、と誰かが叫んだ。その声も一瞬で遠ざかる。壁を横切り、木立を下に見て、どこかの教室の窓をかすめ、ベランダの朝顔を揺らし、りん子は飛んだ。
冷たい感触がした。
光の帯がりん子を抱き上げ、宙に浮かせていた。それは校舎の東西の壁から生え、環状道路のようにりん子をとらえていた。
子どもたちの声はもう聞こえない。屋上の柵の少し下、大きな窓が二つある手前にりん子は浮かんでいる。
「こいつか」
カワウソは言った。りん子は辺りを見回したが、誰もいない。
「お前をつかんでる奴だ。よーく見てみろ」
りん子は自分の腰に目線を落とした。光の帯だと思ったのは、半透明の手だった。校舎が腕を伸ばし、りん子を抱き上げているのだ。
「よく見つけたね」
窓の下に裂け目ができ、そこから声が聞こえた。りん子は飛び上がりそうになったが、大きな手につかまれているので動けなかった。
「そう、僕が学校の幽霊。なかなかイケメンでしょ?」
軽い口調とは裏腹に、楽器のように低く響く声だ。二つの窓にりん子の姿が映っている。これが目だとしたら、イケメンというよりは前衛的なアートのようだ。
「あなたが幽霊? ただの校舎に見えるけど」
窓が細く開き、下の裂け目から笑い声が漏れる。
「みんな馬鹿だよね。僕の中ばっかり探し回って、外は全然見ないんだから」
「馬鹿はそっちでしょ。学校のくせに子どもを食べたり給食を盗んだり、やることが汚いわ」
まあまあ、と幽霊は言った。冷たい息がりん子の前髪を持ち上げる。
「学校が子どもを食べて何の問題がある? 子どもって普通、学校の中にいるものだろ」
「うーん……それはそうだけど」
「給食だってそうだ。僕が食べた分は、それぞれの教室に効率よく配膳される。むしろ感謝してほしいくらいだよ」
よくわからなくなり、りん子は黙った。
要するに、とカワウソが言った。
「結局何も起きてない。誰も気づいてない。こんなにでかいのに、常にスルーされ続けている。哀れな幽霊じゃないか」
りん子はカワウソの口を閉じようとしたが、間に合わなかった。二つの窓が光り、りん子をつかむ手に力がこもる。
「大事なのは、食べた気になること」
幽霊は暗い裂け目にりん子を引き寄せ、放り込んだ。頭の上でカワウソが跳ね、ともに落ちていく。
一瞬で世界が閉ざされ、全てが消えてしまう、そんな気がした。粉々に砕かれ、幽霊の胃に溶かされていく。
そんなことはなかった。
目を閉じて自分の体に触れると、何も変わっていない。肩にしがみつくカワウソの感触も、はっきり感じられた。通り過ぎていくのは、見たこともない記憶ばかりだ。知らない顔、知らない声、子どもたちが笑う。教科書の切れ端が舞い、文字や数字が耳をかすめていく。
「ご馳走だ! 本物のご馳走だ!」
カワウソが耳元で舌なめずりをする。給食のにおいが鼻をくすぐる。食器のぶつかる音、ふざけあう声。誰かが手を振っている。りん子は微笑み返した。
目を開ければ、きっと何もない。
食べた気になる、遊んだ気になる、勉強した気になる、友達ができた気になる。入学して、卒業した気になる。誰もがそうやって過ごしてきた。
学校なんて、初めからどこにもないというのに。