第一章 勅命
極東の海に浮かぶ弓状の島国・桃源国。その都、桃源京の宮中に彦那はいた。礼装を身に付け、床に額を押し付けるほど深く頭を垂れていた。当然だ。彼がいるのは謁見の間。つまり帝の御前だ。
「彦那よ。それが神獣の頸か?」
「はっ。かの地で猩々と呼ばれ崇められていた獣に御座います」
彦那の前には一つの首桶が置いてあった。彼が帝へ献上する為に持参したものだ。
簾の奥で帝が頷くと、侍従らが首桶を持って帝の元へ運ぶ。帝と直に接することが許されているのは、極僅かな側近だけ。このやり取りもいつもの事であった。
帝の傍らに寄った侍従が首桶の蓋を開ける。中に収められているのは、年老いた大きな狒々の首。それを確認した帝は満足そうに微笑み、再び頷いた。侍従は首桶の蓋を元に戻すと、首桶を持ったまま謁見の間を後にする。
「ようやった。流石は吉備津の人間。若くとも神将の名に恥じぬ働きだ」
「ありがたき幸せに御座います。我が祖、伊佐芹が賜りし吉備津の姓と神殺しの将・神将の名を汚す訳には参りませぬゆえ」
帝の賛辞に彦那は更に深く頭を下げる。これもまたいつもと変わらぬやり取りだ。
謁見はこれで終わり。ひと月ほど暇を得て、再び別の神獣狩りの任が命ぜられる。それが彦那にとっての日常だった。
だが、この日は違った。
「さて、彦那よ。都に戻って早々で済まぬが、次の役目に当たってくれぬか」
「次の役目……ですか?」
思いがけない言葉に、思わず頭を上げて問い返す。こんなことは初めてだ。
不敬な態度に侍従の一人がワザとらしく咳払いを零す。彦那は慌てて頭を垂れたが、帝は小さく声を漏らして笑っていた。
「良い良い、無理も無かろう。あまりに突然の話、驚くのも当然だ」
「無礼な態度を取ってしまい申し訳御座いません。この身は桃源国、そして帝に仕える身。何なりとお命じください」
「おぉ、そう言ってくれるか。無理を言ってすまんな」
帝という地位にありながら、配下の者を労い、時には配慮までする。そのような性格だからか、帝を慕うものは宮中にも、そして民の中にも多かった。
「それでは。吉備津彦那よ、そなたに羅刹討伐の任を与える」
改めて命を下す帝であったが、それを聞いた彦那は眉を顰めた。
「……何を仰います陛下。もはやこの国に羅刹はおりません。何百年もの昔、我が祖、伊佐芹が打ち滅ぼしたではありませぬか。その功績故に、伊佐芹は吉備津の姓と神将の位を時の帝より賜ったのです。陛下もよくご存知でしょう」
「無論、承知しておる。この都が出来る遥か昔の話だ」
「それでは……」
討伐すべき相手などいない。そう告げようとした時、侍従の一人が木箱を抱えて現れた。侍従は木箱を彦那の傍に置くと、何も言わずに去っていく。
開けてみろ、ということなのだろう。そう判断した彦那は、そっと木箱の蓋を外した。
「っ……!」
中に収められていたものを見て、彦那は絶句する。
「最近、南方を巡る商船が海で拾ったそうな。通り掛かった小さな島から、海流にのって流されてきたらしい」
木箱の中に収められていたのは一つの頭蓋骨。だが、人間のそれとは決定的に異なる点があった。前頭部に生える二本の角だ。
彦那は恐る恐る頭蓋骨に手を伸ばし、そっと持ち上げた。重さも大きさも人間の頭蓋骨とさして変わりない。詳しくは分からないが、少なくとも何百年も前の代物には到底見えなかった。
「商船の乗組員たちも、島に上陸して姿を確認した訳では無い。ひょっとするともう滅んでおるやも知れん。だが、乗組員らは遠目ながらに人影らしきものを見たと言っておるのだ」
「島へ赴き、滅んでいるなら良し。生き残りがいるならば駆逐せよ。……そういうことですか」
「羅刹討伐はそなたの祖が立てた偉大な功績。滅ぼした筈の悪鬼が生き永らえているやもしれぬのだ。太祖と同じ役目を命ぜられること、誉れと感じることこそあれ不服に思うところはあるまい」
羅刹が生き永らえている。彦那にとっては信じがたいことであったが、手にした頭蓋骨が桃源国を逃れた羅刹の存在をはっきりと物語っている。
「畏まりました。新たなお役目、拝命致します」
彦那は再び深く頭を垂れ、帝の勅命を受け入れた。伏した彦那のもとに、またも侍従が近づいてくる。手には一振りの剣を携えていた。
「それを持っていくが良い。伊佐芹が羅刹討伐の際に振るった剣だ」
「これが……」
頭を上げた彦那は両手を差し出し、恭しく剣を受け取った。羅刹を討伐した後、時の帝に献上され社に奉納されたと話には聞いていたが、彦那も実物を目にするのは初めてだ。今の将が佩く太刀ではなく、両刃で直刃の細身の剣。数百年の時を超えても尚、錆一つ、刃こぼれ一つ無い美しい剣だ。
「霊剣阿曽姫。太祖より授かったと思い、振るうが良い。島の場所など、詳しい話は後ほど伝えさせる。それでは彦那、頼んだぞ」
「ははっ」
侍従を引き連れて帝が退席すると、謁見の間には彦那一人が残された。
「羅刹。伊佐芹が駆逐した筈の悪鬼たち……か」
手にした霊剣と傍らの角を生やした頭蓋骨。数百年前を経て重なった縁に、彦那の心中には複雑な思いが渦巻いていた。