エピソード006「隠れ部屋の穴」
僕の名前は望月浩太(仮名)、16歳、ごく普通の高校一年生、
でも本当は、友達とうまく付き合う事が苦手な、本当は、一人も友達の居ないクラスのはみ出し者、
学校の成績は下の上、運動は苦手、ゲームも苦手、と言うかゲーム機を持っていない。 登校から、放課後まで、殆ど他人と喋らない、話すのは苦手、無理に何か話そうとすると、ついつい口籠る、どもってしまって、一つも上手く伝えられない。 親は色々と心配するけど、今に始まった事じゃないし、今さらどうにかできるモノでもないと、諦めている。 こんな僕だから、どうせ大した大人になれる訳もないし、不安で辛そうな社会で苦しむよりは、どこかで人生に見切りをつけて楽になりたいと、そんな風に諦めている。
僕の家は、都心からギリギリ通勤圏の、所謂郊外と呼ばれる田舎町の、更にその駅から歩いて30分程の所にある一階建ての借家だ。 6畳の和室が二つと食卓と台所が一緒になった四畳半のダイニングが一つ、それと便所と、小さなお風呂が一つ。 お父さんは夜勤で警備の仕事をしているので、普段の昼間は和室を一つ独占して眠っている。 お母さんは台所で内職している。 だから僕と、弟と、小さな妹は、もう一つの和室で寝たり、宿題をしたり、遊んだししている。
だから僕が、余り家に帰りたくないと感じるのは、仕方がないと思う。
プライバシーも無いし、弟たちの世話を押し付けられるのは面倒だし、だからと言って、キレて、お母さんを困らせたくないし、だからと言って、惨めな僕の真実を打ち明けて、お母さんを悲しませたくないし、
じゃあ、どうしているのかと言うと、幸いな事に、本当に幸運に、僕には隠れ家、と言うか隠れ部屋があった。
お母さんには「友達と遊んでいる」と言ってあるし、お母さんはそれ以上詳しく聞こうとはしないけれど、本当は、学校が終わると僕は、直ぐに隠れ部屋へと向かう。
それは、駅から、家とは反対方向に15分ほど歩いたところにある、ボロなアパートの一室だ。 僕は、「合鍵」を使って隠れ部屋に入り、夜まで一人で過ごす。
そう、この部屋には、誰も住んでいなかった。 本当の持ち主は「敏江おばあちゃん」だ、勿論、血のつながった本当のおばあちゃんでは無い。
小学校4年生の頃に、石蹴りしながら歩いていた僕は、この部屋のガラスを割ってしまい。 敏江おばあちゃんに怒られて、正直に謝って、それから何故だか仲良くなった。 なんでも僕の名前がおばあちゃんの子供の名前と同じから、らしい。
今は、敏江おばあちゃんは居ない。 もう何年も前に「暫く留守にするよ。」と言ったきり、ずっと帰って来ていない。 おばあちゃんは、居ない間もこの部屋を好きに使っていいと言って、僕に合鍵を預けてくれた。
敏江:「その代わりに、毎日やって欲しい事があるんだ、」
僕は、この部屋を自由に使っていい代わりに、頼まれ事をした。 四畳半の奥の部屋の卓袱台の上に置かれた「奇妙な御呪い」、もう十分に草臥れて茶色く変色した習字用の半紙に、青いインクで書かれた七角形、それぞれの角には「月」「火」「水」「木」「金」「土」「日」の文字、そして少し緑がかった石ころが一つ。 今は「水」の文字の上にその石ころが置いてある。 それから紙の所々には、まるでお経の呪文の様な読めない漢字?が幾つも書かれていた。
僕の仕事は、この石ころを、曜日に合わせて毎日動かす事だった。 今日は木曜日だから、僕は石ころを摘みあげると、「水」から「木」の位置へ置き直す。 これだけだ。
それから、僕は、もう一つの部屋に行って、特に何もすることも無くボーっとする。 拾ってきた大人向けの漫画雑誌が部屋の隅に積んである。 昨日シッタ小便を入れたペットボトルは、其の儘だった。 電気も、ガスも、水道も無いけれど、誰にも文句を言われない、誰にも邪魔されない、誰にも期待されないですむ、僕だけの、隠れ部屋だ。
おばあちゃんはもう何年も帰って来ていない。 誰かが、訪ねて来たりする事も無い。 こういう事が、もしかしたら普通じゃないかも知れない事は、薄々分かっていた。 ある日、突然誰かが訪ねて来て、僕の事を怒って、追い出すかもしれない。 でも、それは未だ、今日じゃないと思う。
辺りは、すっかり暗くなる。 どうやら、眠ってしまったらしい。
がたがたと、隣の部屋から聞こえてくる物音で、僕は目を覚ました。 薄い壁の柱の隅の、微かな隙間から、隣の部屋の電気の明かりが漏れてくる。 漏れてくる微かな光で見ると、腕時計の針は既に夜の7時を過ぎている様だった。
途端に、僕の心臓は、早鐘の様に鼓動を速めていく。 口の中が、一瞬の内に乾いて行く、 顔全体が破裂しそうに膨張して、全部の内臓が萎んだミタイニ息苦しくなる。 僕は、自分の心臓の音を聞きながら、…じっと、目を凝らす。
壁の、柱の隅の、ほんの小さな穴、耳かきが、漸く入る位の、小さな穴に、その向こう側に、…集中する。
そこから、隣の部屋が見える。
この穴に気づいたのは、実はつい最近の事だった。 それまでは、こんなに暗くなるまでこの部屋に残っていたことは無かったから。 ある日、うとうとと夜まで眠ってしまった僕は、今日と同じように、柱の隅の小さな穴から漏れてくる、隣の部屋の明かりに気づいた。
その穴からは、女の人が、見えた。 大人の、働いている人みたいだった。 きちんとした身なりをして、それに、結構、綺麗な女の人だった。 名前は知らない。 隣の部屋には、表札がかかって居なかったから、人が住んでいるなんて、思いもしなかった。 その、名前も知らない大人の女の人が、僕が覗いている穴の向こう側で、…服を着替えている。
もしかすると、気づかれてしまうのではないかと思う位に、心臓の鼓動が、早くなる、大きくなる。
上着を脱いで、スカートを脱いで、シャツを脱いで、ベージュ色のブラジャーが、露わになる。 シミーズを脱いで、ストッキングを脱いで、パンツが、露わになる。
僕は、穴と一体になって、その僅かな光景と一体になって、女の人が、洋服を脱いで、部屋着に着替えるのを、じっと、覗き続けている。 勿論、全部が見える訳じゃない、ほんの少し、所々、一瞬だけ、見えるだけだ。 だから余計に、その一瞬の光景に、僕は集中する、のめり込む、どんどん手放せなくなる。
やがて、数分の興奮の刻は過ぎて、それからテレビが点いて、彼女はもう見えなくなってしまう、壁の向こう側の見えない領域に、隠れてしまう。 僕は、大きな溜息を吐いて、壁の穴から離れて、埃の積もった畳の上に大の字に転がって、そのまましばらく、暗い天井を眺め続ける。 それから、時折彼女が立てる物音に、じっと耳を傾け続ける。
こんな僕だから、どうせ大した大人になれる訳もないし、彼女なんて出来る訳無いし、他人の生活を羨ましがったり、憧れたりして苦しむよりは、どこかで人生に見切りをつけて楽になった方が良いに決まってる。
次の日も、学校が終わると僕は、真直ぐに隠れ部屋へ帰る。
ちらりと見えた隣の部屋の郵便受けから、一通の封筒がはみ出していた。 僕は、3秒だけ考えて、すっとその封筒を抜き取って、直ぐに隠れ部屋に逃げ込んだ。 大丈夫、後で彼女が帰ってくるまでに戻しておけば大丈夫な筈だ。
暗い玄関で、封筒に書かれた名前を確かめる。 途端にじゅわっと口の中に唾液が溢れてくる。 衣料品のダイレクトメールらしかった。 受取人の名前は、西本美幸、多分「みゆき」。 僕は、する筈のない彼女の痕跡を求めて、深くその封筒匂いを嗅いだ。
小さな壁の穴から、誰も居ない「みゆき」の部屋を、覗いてみる。 暗くて良く見えないが、この壁の向こう側に、美幸が吐いた「吐息」が漂っている事は明らかだった。 僕は、壁の穴に鼻を近づけて、深く深呼吸する。
ドアをノックする音:「コンコンコン!」
僕は、息を潜ませる。 前にも、セールスマンが訪ねて来たことが有る。 この部屋には誰も居ない。…そういう事にしなければならない。 絶対に気づかれてはいけない。
ドアをノックする音:「コンコンコン!」
再び、ノックが聞こえた。 まさか、隣の郵便受けから封筒を盗んだ事を、誰かに見られていたのだろうか? だとしたら、僕がこの部屋に入った事も、既にばれている筈だ。
望月:「ど、ド、どう、しよう、…」
確かめてみる必要が有る、セールスマンなら、やり過ごせばいい。 でも、郵便物を盗んだところを見た目撃者なら、このまま放置すれば、もしかすると警察を呼ばれるかもしれない。 何とか、大事にならない様に、取り繕わなければならない。 でも、…上手く出来るだろうか。
ドアをノックする音:「コンコンコン!」
三度、ノックがあり、僕は、止む無く、そーっと、ドアの覗き窓に目を、近づける。
其処に映って居たのは、…テレビで見た事が有る様な水商売の人が切る様な布の少ないセクシーな衣装を着た、すごく綺麗な女の人だった。