エピソード002「悪魔との契約」
とてもいい匂いのする女だった。
ワンレン、ボディコンの、まるで1990年代から抜け出してきた様な奇妙な女だ。でも、美人である事には違いない。
女は勝手に部屋に上がり込むと、遠慮も無しに炬燵テーブルの座布団の上に膝を崩した。
倉持:「まさか、セールスとか詐欺の類じゃないだろうな。」
女:「少なくとも、倉持さんが望まないモノを無理矢理押し付ける様な真似はしませんよ。」
俺は、女の反対側に、どっかりと腰を下ろす。
倉持:「それで、アンタは一体何者なんだ?」
女:「私はデーヴィー・ラプラスと申します、貴方がた人間のいう所の悪魔です。天使とも言いますが。」
そう言うと女は、一枚の名刺を取り出して、差し出した。
そういう割には、薄桃色の高級紙には事務所の住所と電話番号、メールアドレス迄書いてある。
倉持:「新しいキャバクラかデリヘルの宣伝か何かか?」
この際、宗教でもキャバクラでも何でも構わないが、
兎に角俺には、俺が正気を逸する状況に陥る「理由」が必要なのだ。
ラプラス:「残念ですが、その様な陽気なサービスとは少し違います、でも、今の倉持さんにはきっとお役に立てると思いますよ。」
次に女が差し出した掌の上には、少し大きめのタブレットが一粒、
倉持:「ドラッグはやらない。百害あって一利無しだ、そんなの一方的に俺が悪い事になってしまうだけだからな。」
ラプラス:「死にたいと、仰っていたと伺っているのですが、間違いでしたでしょうか?」
俺は、眉間にしわを寄せる。
何で、この女はそんな事を、知っている? まさか本物の悪魔なんて事はあるまいが、
倉持:「一体、どういう、つもりなんだ?」
ラプラス:「会社で女性社員の靴の匂いを嗅ぎながら自慰に耽っている所を警備員に目撃されて、もう死ぬしかないと、…そう伺っていたのですが。」
俺は、コールタールの様に粘り付く不安を、肺の裏側に抱え込んだミタイニ、突然息が出来なくなる。
何で、この女はそんな事を、知っているんだ? まさか本当に人外の類だとでも言うのか?
倉持:「どうして、…そんな事を、…?」
もしかしてあの警備員が黒幕で、俺を強請って金を撒き上げようと言う、そういう魂胆なのでは無いか?
それ以外にあの事実を知る事は、出来そうにも無い。
ラプラス:「昨晩遅く、倉持さんが持ち帰った女性社員の靴の匂いを嗅ぎながら自慰に耽る前にそう呟いたと、…そう言う記録が残っているのですが。」
いつの間にか、俺の全身は冷たい脂汗に塗れていた。
まさか、この部屋には盗聴器が仕掛けてあって、俺の行動が監視されていたと、そう言う事なのか?
ラプラス:「ええ、私どもは以前から倉持さんには目を付けていたんです、何しろ貴方が類まれなる適合者である事は、既に調査済でしたので。」
倉持:「言っている意味が、分からない。 …それに、その薬は、一体なんなんだ?」
この女の目的が分からない、以前から俺に目を付けていた? 俺が適合者?
もしかして、俺はどこかの大金持ちの臓器移植か何かの適合者で、俺が死んだら臓器を使おうって、そういう魂胆なのか? その為に俺の事を監視していた? だとすると、その掌の上の薬は、安楽死用の薬か何かで、臓器を傷つけない様に速やかに俺を絶命させる為の毒物なのか?
ラプラス:「そうですね、半分位は当たっています。 でもコレは、もっとずっと倉持さんのお役に立てるモノだと思いますよ。」
倉持:「ちょっと、待ってくれ、…」
ハタと気づく、…俺はさっきから一言も喋っていないぞ、それなのにこの女は、どうして俺の思っている事が、…まるで分っているかの様に答えているんだ?
ラプラス:「頭で思っている事も、陰で行っている事も、実際に音にしてしゃべっている事も、情報として見れば、それほど大差は無いと言う事です。」
倉持:「読心術?テレパシー?超能力? …一体お前は何者なんだ?」
ラプラス:「そういう類のモノとは違います、クジラが超音波でモノを見るの同じ様な、ごく普通の能力ですよ。」
本当に悪魔の類なのかそれとも訓練された特殊能力なのかは分からないが、つまりそういう得体の知れない女が、俺に死ぬ為の薬を差し出している。
倉持:「待ってくれ、…つまりアンタは、その薬で俺を殺そうって言うんだナ。でも何の為だ? …適合者ってどういう意味なんだ? 俺の役に立つってどういう意味なんだ? …さっぱり分からない。」
ラプラス:「幾つか誤解を解いておきたいのですが、私は進んで倉持さんを殺害しようなんて考えていません。 あくまでも倉持さんのご希望を支援するだけです。 それに、コレは殺す為の毒薬ではありません。 コレを飲んだとしても倉持さんの肉体には一切悪影響はありません。 それどころかコレを飲めば倉持さんは、昨晩の過ちをやり直しする事が出来るようになります。 そして、コレの効用は誰にでも現れる訳では無く、極めて稀な確率で適合した人間にしか効果はありません。 そういう意味で倉持さんは選ばれた適合者なのです。」
思考が、付いて行かない。
ラプラス:「ゆっくり、少し落ち着きましょう。」
それに、過ぎた過ちをやり直すって、一体どういう意味なんだ?
ラプラス:「コレを飲めば倉持さんの意識は、過去の倉持さんに遡る事が出来る様になるのです。 そうしてそこからやり直せば、昨晩の過ちはなかった事に出来る訳です。」
倉持:「有り得ない。時間を遡るなど、そんな事は荒唐無稽だ、身を滅ぼす幻覚の類に決まっている。」
でも、そういう宗教なのだとしたら、…
つまり、そんなバカげた宗教に洗脳された結果の気の触れた行動が、昨晩の俺への説明なのだとしたら、…それはそれで、有りかも知れない。
でも、この薬は本当に無害なのだろうか? それにこの女が狂っていたとして、どうして俺にそんな「凄いモノ」をくれる気になったのだろうか?
Give and Takeに基づかない一方的なサービスの押し付け程、信用できないモノは無い。
ラプラス:「勿論、タダデ差し上げる事はできません。」
そうしてとうとう女の瞳孔の奥に、…紫色の炎が灯る。
ラプラス:「倉持さんは自殺されるのですよね、つまりその命はもう要らないと、そう言う事で間違いございませんね、」
薬は無害だと言ったり、まるで命を奪うような物言いだったり、やっぱり、こいつのいう事は、…意味が分からない。
ラプラス:「つまりこういう事です、…倉持さんの魂を頂きます。」