黒金の弥助
月が綺麗だ。まんまるな満月で、青っぽく輝く月は本当に綺麗だ。
深々とひんやりとした夜の空気を吸い込み、べたりと涼しい縁側に腹をつけて突っ伏す。自分で作ったせいで歪な月見団子を頬張りながら、市兄ちゃんの帰りを待つ為にだ。手元に置いてある小さな鋭い「苦無」を守りながら。きゅっとそれを握ろうと、ぴくぴくと動く右手を無視して。何となく、気にしてはいけない気がしたから。
商売人の父ちゃんも農家だった母ちゃんも知らないことだが、僕の兄ちゃんの市助は所謂「忍者」をやっている。五つも年上の市兄ちゃんは随分と腕がいいと忍者の世界で評判らしい。それは市兄ちゃんの自画自賛だから本当の所は知らないけれど。市兄ちゃんが言うのなら本当なのだろうな。心なしか嬉しそうに言っていたし、市兄ちゃんは昔からそんなに自己評価が高いわけではないからだ。
市兄ちゃんはその事を沢山いる兄弟達の中で僕だけに教えてくれた。市兄ちゃんは双子なのに、尚隆兄ちゃんには教えずに。それを何故かって聞いたら、尚兄ちゃんは一等臆病で一番弱い弟だからだよって言っている。僕にはよく分からない。
尚兄ちゃんはとても豪胆で、僕みたいな弱虫な泣き虫ではなくて、どちらかって言うと暴れ者やならず者みたい。
そんな尚兄ちゃんが僕よりも臆病だなんて、有り得ない。だからそんなはずはないよと言い返すと市兄ちゃんはちょっと笑っていたような気もする。君は知らないだけなんだよって言っていた気もする。尚兄ちゃんと同じ顔なのに尚兄ちゃんは絶対にしない、困った顔をしながら。
最早見慣れた、見慣れてしまった鋭い市兄ちゃんの苦無を眺めて僕は空恐ろしくも思う。僕は忍者じゃないから忍者の仕事の事は分からないけれど、忍者って沢山の人間を殺すんじゃなかったっけ、とか、忍者であることをこんなに弱い僕に言ってしまって大丈夫なのか、ということとか。
僕は小さい時からとてもとても怖がりで、赤い血なんて想像するだけでも恐ろしい。だって、転んで出る僅かな血さえ怖いんだもの。勿論自分のものでも他人のものでも怖さは変わらない。
でも殺されるかもしれない恐怖に晒されながら、商売人にも農家にもならずに危険な忍者になってしまった市兄ちゃんのことはもっと分からない。本当に分からない、だけど市兄ちゃんのことは大好きなままだ。市兄ちゃんのことを自分のちょっとした好き嫌いで嫌いになったりするほど僕は薄情者じゃない。
薄情な扱いをされることが悲しいのはよく知ってる。
「んぁ、弥助ぇ、いつまでそこにいるんだ?」
なんて、取り留めもなく考え続けていたら市兄ちゃんにそっくりな、でもやっぱり雰囲気から全然違う尚兄ちゃんがやってくる。
僕はそっと夜の闇に紛れる苦無を懐にしまった。見つかってしまうと面倒だから。ならず者のような尚兄ちゃんに取り上げられてしまったら、市兄ちゃんから貰った物が無くなってしまう。尚兄ちゃんは呑んだくれだけど商売は上手い。それから力も強い。市兄ちゃんほどではないけれど、弱い僕なんかよりはずっと。だから見つかったら最後、絶対に取られてしまう。そして僕と市兄ちゃんの秘密も破られてしまう。嫌だ、絶対に嫌だ。それだけは避け無くてはならない。
「このお団子が無くなるまでかなぁ」
「はは、あと一個じゃないか。どれ、食ってやろう」
ぽいっと最後の団子を取ってしまう尚兄ちゃんなんて嫌いだ。大好きな大好きな市兄ちゃんにそっくりなくせに全く違うのが気に食わない。似ていろと言いたいわけじゃないけど、尚兄ちゃんは僕の中で嫌いな人物であることは間違いない。市兄ちゃんの顔で、市兄ちゃんの隣に立てる立場で、尚兄ちゃんは何も知らない。だから嫌いだ。市兄ちゃんは大変なのに、いくら知らされていないからって平和にのほほんとしているなんて。
「……ふんっ、だ」
「…………なぁ、弥助。市助なんか待ってないでもう寝ろよ」
ごろりと尚兄ちゃんに背中を見せて転がると、何かを堪えているような尚兄ちゃんの声。なにさ、市兄ちゃんを「なんか」呼ばわりするためにわざわざ酒臭い息をまき散らしに来たの?不愉快な。
「お前が市助を一等慕っているのは知っているし、市助の帰りを心配するのは分からんでもないが……あいつは鬼だ。血の涙もない鬼なんだよ。
人を殺すのも平気だし、血なまぐさい獣も逃げ出すほど獰猛なんだよ……お願いだから、弥助まであんなのにならないでくれ……」
暗くてどうせ振り返っても尚兄ちゃんの顔は見えないから振り返らないでおく。市兄ちゃんを、優しい市兄ちゃんを鬼呼ばわりする馬鹿で何にも知らない無知な尚兄ちゃんの言葉なんて聞く必要もないし。かすれたような、だけど確かな怒気をはらんだ尚兄ちゃんの声。ああ、こんなところまで市兄ちゃんに似ていない。ますます尚兄ちゃんが嫌いになる。市兄ちゃんは優しい声をしている。尚兄ちゃんは厳しい声をしている。
「市兄ちゃんは優しい。市兄ちゃんは尚兄ちゃんよりも親切。市兄ちゃんは、僕が一番好きな兄ちゃん。いくら市兄ちゃんに似ていても、尚兄ちゃんは大嫌い」
「や、弥助?」
市兄ちゃんは尚兄ちゃんに自分が忍者であることを言っていないと言っていたから、鬼呼ばわりするのはお仕事の帰りの市兄ちゃんを見てしまっただけだよ。あぁあ、なんにも知らないで。
それとも、その様子すらみていないのに嫌いな尚兄ちゃんは市兄ちゃんを鬼呼ばわりしたんだろうか。それだったらもっと、もっと許せないな。どうだかはわからないけど、それは些細なこと。
市兄ちゃんと僕を引き離そうとするなんて。家督を継ぐ腕があろうとも尚兄ちゃんはやっぱり市兄ちゃんより良くない。市兄ちゃんが言っていた、尚兄ちゃんが臆病だとかいうのは間違っていなかったかもしれない。臆病で、弱いから僕みたいなもっと弱い者から色々奪うんだろうか。それとも、体は強くはあっても心は弱いのだろうか。とにかく、制裁を加えたくてならない。だけど……うん。今は、駄目だ。ここじゃ駄目なんだよな。ダメ、ナンダヨナ……。イマハ。イマハ……。
「尚兄ちゃんは嫌い。市兄ちゃんは、市助兄ちゃんは大好き。だから尚兄ちゃんは……出テけ」
僕は暗闇の中でうっそりと、にやりと笑う。暗くてどうせ尚兄ちゃんには見えないだろうけど、笑う。急に低く声色の変わった僕に、尚兄ちゃんは、僕よりも弱虫な尚兄ちゃんは後ずさりをする。
……市兄ちゃんは急に声色が変わろうと、性格が一変しようと笑ってくれたのになァ。君はどうあろうとかわいい弟だよって言ってくれたのになぁ。尚兄ちゃんが市兄ちゃんに似ているのは顔だけ、声だけかぁ、やっぱり。
「くふふふ、尚兄ちゃんは要らない。ボクニハ市兄ちゃんだけで良いんだァ、ボクノ兄ちゃんは市ニイチャンだけだぁ」
僕は尚兄ちゃんを乱暴に蹴飛ばすと素早く飛び上がって屋根に登った。ここからなら帰ってくる市兄ちゃんを見つけやすいし、月も見やすいから。まんまるな月は綺麗だから。市兄ちゃんの好きな月だから。月夜は好き、市兄ちゃんが好きだから。闇夜は嫌い。市兄ちゃんを見失うから。尚兄ちゃんはどっちが好きなんだろう。まぁ、どうでもいいか。
「お、おい、弥助!」
慌てたような、怒ったような尚兄ちゃんが屋根に登ろうとしているけど、力はそれなりにあっても素早さも脚力も大したことのない尚兄ちゃんが梯子なしで登れるはずもなく。父ちゃんと母ちゃんを起こさないか不安になるほどの騒音を立てながら尚兄ちゃんは暴れる。
酷く煩い。煩い、煩い。市兄ちゃんに比べたら弱小でどうしようもない尚兄ちゃんだけどたてる騒音はいっちょ前だよなぁ……あとは商売人の腕ぐらいしか取り柄がないなんて可哀想な尚兄ちゃん。あぁあ、可哀想で可哀想で仕方がない。
「なぁに、尚兄ちゃん」
でも市兄ちゃんにそっくりな声は、四六時中聞いていられる市兄ちゃんにそっくりな声や顔を持っている尚兄ちゃんを殺意を抱くまで嫌いになったことはないな。蹴っ飛ばしても殴りたくても刃物まで持ち出そうなんて考えたことがない。 だってこんなに嫌いな尚兄ちゃんでも市兄ちゃんを思い出させてくれる。忙しくて家にあまりいない市兄ちゃんと一緒に居たような気分になれる。尚兄ちゃんは仕事は殆ど家の前の店でしているから、見ていようと思えばいつでも見れるから。僕は、小さいからあまり外に出してもらえないから堂々と仕事をしている尚兄ちゃんを眺めることができるからね。
「…………いや……。
と、とにかくだ!市助を待つのはいいが、体を冷やさないうちに部屋に入れよ!」
「うん、ソうだね……くふふ」
もっともらしいことを言ってのけた尚兄ちゃんはがたがたと怯えて震えながら自分の部屋に帰っていった。最初は随分と酔っていたようだけどすっかり覚めたように。多分あれは安酒でも煽るんじゃないかな。眠れないから。体に悪そうだね。尚兄ちゃんだから止めないけどさ。
尚兄ちゃんをあしらってちょっと気分は良くなったけど同時に不安も募る。市兄ちゃんの帰りがいつもより遅いから。それに市兄ちゃんは昨日、いつもより早く帰るって言っていたのに……。
「市兄ちャん……」
あぁ辛い。市兄ちゃんに会えないなんて。あぁ、あぁ。
夜の暗闇の中に輝く月を眺め、渇望する思いをこらえて。心の奥底にある願望を押しこらえ、市兄ちゃんのことだけを考える。
優しい市兄ちゃんを。弱虫で気狂いに似た僕をも守る市兄ちゃんを。鬼と呼ばれた僕を抱きしめてくれた市兄ちゃんを……。
小さいのに確かな重みを宿す苦無に頼もしさを感じる。漆黒の空を見ると安心出来る。月の光はまるで鋭くも冷たい刃じゃないか。黒金の刀。そんな印象。市兄ちゃんの黒い目のようなそんな黒。安心できるけれど鋭さもあるような色…………。
「クレナイノ、イロガ、オソロシイナンテ」
「血は怖い、赤い血が怖い。だけど市兄ちゃんは好き」
「オニノクセニ、コワガリナ、オマエ」
「市助兄ちゃんはいつ帰ってくるのかなぁ」
「タダ、アニヲ、マツコトシカ、デキナイノカ」
底冷えする声と、我ながら呑気な声。交互に出る全く違うようで同じ声に最早慣れきって気にも留めない。それが普通だから。でも、それは当たり前なのに当り前じゃないって皆に言われたこと。こんな風に誰も居ないか、市兄ちゃんがいるところじゃないと交互には話さない。家族である尚兄ちゃんにさえ、交互に話しかけたりはしないようにしている。話すなら片一方ずつだ。
世間ではなんて言うのかは知らないけど、僕は二人いる。名前は弥助という一つしか無いけれど、たしかに二人いる。体はひとつしか無いのに、心は市兄ちゃんたちみたいに双子なんだ。見分け方は簡単。喋っている時ならとてもわかりやすい。もう一人の僕は声が低いから。他にもあるけれど、基本的にどっちが喋っていようがふたりとも周りを見聞きはしているからあまり変わりはないんだけど。
臆病で、弱虫な弥助と、気が強くて無慈悲な弥助。どっちも僕だけれど…………、今の僕は弱虫な僕。だけどこの思考の裏には気が強い弥助もいる。基本的には弱虫な僕がしゃべることにしているよ。何となくだけど……。共通点は市兄ちゃんが大好きなことかな。
「ヤスケ、」
「何だい?」
もう一人の弥助が僕に話しかけてきた。僕らは思考の中で会話できるからこういう風に話すことはしなくてもいいんだけど、たまにもう一人の弥助は僕に声で問いかけてくる。もう一人の僕は随分と大人のびている。言葉だってどこで覚えたのかというぐらい難しい言葉を使っていたり、びっくりするような考え方をしたりする。だから僕も引っ張られたかのように言葉を覚えたっけ……。
「キョウハ、イチスケニイチャンヲ、マッテイヨウ」
「勿論だよ。ここまで待って今更寝たりしないし。寝そうになったら起こしてよ」
「ワカッタ」
そのくせちょっと片言な僕は聞き取りにくい代わりに言葉をしっかり区切ってくれる。そんな気遣いが嬉しかった。僕の分身は市兄ちゃん以外で僕とまともに話し続けていてくれる。父ちゃんや母ちゃんみたいに要件の必要なことしか話さない人がいれば、それよりは良いけれど余所余所しい尚兄ちゃんとか、なんにも知らない故に虐待だとか騒いでお節介を焼いてくる近所の人とか……。そんな人は沢山いるけれど、僕にとって本当に必要なのは市兄ちゃんともう一人の弥助だけ。
「オイ、ヤスケ」
「……あぁごめん。寝かけちゃった?」
「チガウ。ソンナ、フヒツヨウナ、ヤツラノコトヲ、カンガエルヨリモ、ニイチャンヲ、マトウ」
不意に口が紡いだ言葉は低くて自分の声で自分の声でない声だったけど、聞き慣れた声。気遣うような声色に僕は嬉しくなった。今日は珍しく尚兄ちゃんは僕のことを気にかけてくれたけど、基本的に皆々、僕が血反吐を吐き散らそうが四肢が吹き飛ばしかけようが我関せずだもの。勿論、市兄ちゃんを除いてね。
「そうだね。ありがとう……弥助」
「アァ」
自分の顔は勿論見えないけれど、その時弥助が笑ってくれたような気がする。弥助がいるからいつだって一人という孤独を味わうことはないけれど、それでも満たされない感情が和らいでいく。僕も弥助に向けた柔らかい笑みを浮かべる。
・・・・
「尚、……弥助の調子はどうだい?」
「……どうも、こうも。相変わらずさ。気狂いの弥助も気弱な弥助も交互に現れやがって。ありゃあ人殺しになるまで時間の問題だぞ」
弟の弥助はこの上の屋根にいる。観察力に優れている弥助でも身軽で風の如く走る市助を見過ごしたらしい。そんな市助の職業は頑として語ろうとしない二人だが、まぁ、予想はついている。察せということだろう。
「分かってる。俺としては気狂いの弥助も救ってやりたいが……時間がない。原因の俺が言うのはおかしいが、気狂いの弥助を追い出すしかない」
「…………早くしてくれよ。俺は恐らくお前の双子で無ければとっくに気狂いに殺されてる」
無邪気な、もっと幼い頃の弥助を思い出す。市にも俺にも懐いた可愛い弟を。そして苦々しいあの赤い事件を。父も母も何も言えない、弥助を気狂いに落とした事件を。もう一人の、血に濡れた気狂いを生み出した事を。
この問題は市と、弥助と、時々俺が関われるだけ。だが俺の出る幕は少ない。見ているだけしか、出来ない。父も母も、知ってすらいけない。
「……最近見てたら分かるんだけど、尚……少しだけ、話し方を似せて見てよ。そうすれば生存率がだいぶ上がるよ…………どちらの弥助も俺のことを好いてくれているから、尚なら、似せるだけでいい」
「そうか。じゃあ、気をつけようか」
「そうそう」
もともとそんなには違わないはずだが、一番弥助の近くにいる市が言うならば間違いない。僅かな俺と市の違いに気狂いは弥助にささやくのだ。こいつはお前の大好きな市兄ちゃんではないんだよ、と。そしてこうも言うのだ。市兄ちゃんでない奴は死んでもいいだろう?と。それに気弱で味方が少ない弥助は同意するのだ。数少ない味方だから、妄信的に言葉を信じてしまうのだ。それを止めることの出来るのは市だけ。俺は、弥助に言葉すら聞いてもらえないことのほうが多い。
「…………はやく、」
市助を急かすような真似はしたくない。だが、どうしてもこれだけは言っておきたかったのだ。市助の決心を揺るがせぬ為に。必要以上に狂った弥助に情が湧いてしまわぬように。あいつは、弟ではないから。大切な弟の、害となる者だから。
「弥助を抱き締めたい。頑張ったなって言ってやりたい。これからは俺も弥助の味方だからと伝えてやりたい。……分かってくれるな、市助」
「…………勿論、さ。君にも弥助と笑いあって欲しいよ、早く」
市助は、頷いてくれた。一瞬迷ったものの、力強く。それなら、大丈夫。市助は約束事を守る男だ。そして俺のことも弥助のこともよく考えてくれる男だ。大丈夫、市助に任せておけば。そんじょそこらの商人共より信頼出来るのだから。俺の信頼できる、自慢の兄だからだ。
「どうするか、はね。もう大体わかっているよ。狂った弥助が生まれた要因を潰し、弥助を孤独でないようにすればいいから。だから、うん。最後には尚隆に力を借りるかもしれないけど……、ごめんよ、臆病な君まで巻き込まなくてはならないなんて……」
「……いいんだ。気に病まないでくれ」
他の誰もが思いもしないであろう、俺の真の性格を言い当て、兄は困った顔をする。ならず者、暴れ者、悪徳。そんな言葉が似合う商人の俺は家族の誰よりも……本当の弥助よりも臆病者だ。本当は外を少し出歩くだけで身を切られそうなぐらい怖いのだ。だが、俺は今日も家族を守るために表に立って恐怖心を押しつぶす。そして片割れの兄は裏に立って家族を守るのだ。その時、俺は鏡のように兄を真似る。そうして、市という人間を被って俺は家族を守るのだ。表に立って、弥助を守って。
・・・・
ふと、銀色で美しい月が揺らいだような気がした。長いこと夜に起きていたせいで目が疲れたのかと思い、ぐいと目を擦った。そして目を開くと現れたのは市兄ちゃん。音も立てず、空気を少しも揺るがせずに蜃気楼如く現れた兄ちゃんは今日は返り血も何もなく。満点の笑みを浮かべて僕の頭をなでてくれた。月明かりが市兄ちゃんの顔を照らしてくれている。優しく細められた目まではっきり見える。
「ただいま、弥助」
「おかえりなさい、市兄ちゃん!」
思わず声が弾む。家族を起こさないように小声の市兄ちゃんに合わせて一応小声にしていたけど、市兄ちゃんに少し笑われてしまった。ずっとずっとここで待っていたことが分かったんだろう。市兄ちゃんは優しいから、僕がいつまでも待つって言うといつも止める。だけど僕がその優しい忠告をちゃんと聞いた試しは無い。それも笑って許してくれる。
「俺を待ってくれるなんて、お前はいつもいい子だね」
「……、ありがとう、そう言ってくれるのは市兄ちゃんだけだよ……」
よしよしと、頭を撫でられて嬉しい。心の底で照れたような感情が湧き上がる。それは、もう一人の弥助の感情。僕も市兄ちゃんが大好きだから、そのことについて弥助にとやかく言うつもりはない。僕も同じ気持ちだから。
「そんなことはないよ。ちゃんと尚隆に話しておいたからそうでもなくなるよ、すぐに」
「……」
市兄ちゃんは優しい。とっても優しい。どこを探したってこんなに優しい人は他にいないぐらい優しい。だから市兄ちゃんは尚兄ちゃんにわざわざ僕の為に掛け合ってくれた。そして尚兄ちゃんは市兄ちゃんが優しいことを双子だからかけらぐらいは知っていたんだろうな。だから市兄ちゃんの話を聞いたんだ。市兄ちゃんの双子だから尚兄ちゃんは聞けたんだ。市兄ちゃんは凄い人、市兄ちゃんは優しい人。その双子の尚兄ちゃんも、市兄ちゃんの次に凄い人なんだ、きっと。だって市兄ちゃんが言ってくれたんだろう?なら、間違いなんてあるはずもない。弥助の言葉とおんなじように、違っているはずもないよ。疑う隙もなく。
ねぇ、弥助。尚兄ちゃんを捨てなくて良かったろう?市兄ちゃんだって双子という片割れがいなくなったら悲しむに決まってる。これからは尚兄ちゃんに手出しをしないようにしようよ。
ソウカ、ヤスケ。ソウ、ダナ。イチニイチャンソックリノ、ナオニイチャン、ダカラ、ナ。
ありがとう。君ならすぐにそう言ってくれるってわかってくれると思っていたよ。
ソレハ、ソウダ。ヤスケ、キミノ、イケンニ、ハンタイナゾ、シナイ。
優しいね。君は僕よりも……、ずっと、ずっと。
ナニヲ。イチバン、ヤサシイ、ノハ……イチニイチャン、ダロウ?
あは、そうだったね。市兄ちゃんが一番優しいものね。
「……どうした?弥助」
「うん、ちょっと話し合いをしてただけだよ。うん、僕、明日から尚兄ちゃんに勇気を出して話しかけてみるよ。尚兄ちゃん、きっと市兄ちゃんみたいに優しくしてくれるよね?」
「勿論さ」
市兄ちゃんは優しく笑ってくれる。その市兄ちゃんと同じ顔をした尚兄ちゃん、尚兄ちゃんが昼間はいない市兄ちゃんの代わりに優しくしてくれる。そう思ったらちょっとうれしくなった。僕を無視したりする人だけじゃなくて、僕も見てくれる人がいる。それは嬉しいこと。僕にも、もう一人の弥助にも。それが尚兄ちゃんなら。もっと嬉しいこと。市兄ちゃんの片割れだから。僕と弥助みたいなものだ。そうだ。なんで尚兄ちゃんのことが嫌いだったんだろう?どうして…………だろう?あれ、記憶に霞がかかったみたいに、ワカラナイ…………。
気にしなくていいや。そういうことは「よくあること」。気にしても無駄。考えたって分からない。それに本当に知りたいことが分からないときは弥助に聞けばいい。そうすれば答えをくれる。それでも分からなかったら市兄ちゃんに聞けばいい。そういうものだから、そういうものだから。
「そうかぁ、安心したよ。嬉しいよ、市兄ちゃん」
僕は笑う。心の中で弥助も笑う。幸せだから。そしたら市兄ちゃんも笑ってくれる。この中にもうすぐ、尚兄ちゃんも混ざって笑ってくれるようになる。そうしたら……もう僕は何もいらない。僕の周りに、市兄ちゃんが居て、弥助が居て、尚兄ちゃんが居れば、それでいいや。…………他のものは、イラナイ、から。
イツカ、
なんだい、弥助?
イツカ、イラナイモノ、ソウジシヨウナ?
そうだね。要らないものは置いておいても邪魔なだけ。いつか片付けて綺麗さっぱりなくしてしまおうね。そうしたら、きっと僕も弥助も悲しむことはないB。兄ちゃんたちも平和な中にいるほうが好きなんだろうな……。
・・・・
「お、おはよう弥助」
「……ん、おはよう尚兄ちゃん」
普段は気怠そうにめんどくさそうに挨拶をする尚兄ちゃんが戸惑ったようにどもっていた。周りを気にして、母ちゃんが居なくなるのを待っているみたいだ。そうか、母ちゃんに分かっちゃったら面倒だものね。
母ちゃんが畑を出て行き、父ちゃんが店の準備をしているのを見計らって尚兄ちゃんはしゃがんで僕に目を合わせた。それは、尚兄ちゃんは何気なくやっているけど、市兄ちゃんと同じ癖だった。自分ではしゃがんでいることに気付かないとか、無意識にしゃがんでいるとか言っていた。
「弥助……その、昨日はごめんな。昨日の夜、市助に謝ったよ……」
「僕はね、市兄ちゃんが尚兄ちゃんを気にしていないなら何にも言わないよ。
昨日は市兄ちゃんが尚兄ちゃんも優しくしてくれるって教えてくれただけだし」
尚兄ちゃんの表情に普段の意地悪そうな感じは一切ない。それどころか市兄ちゃんそっくりの心配げな顔をしている。そういうのを見ると、心の底では尚兄ちゃんも嫌いではなかったんだって理解する。だって心があったかくなるんだもの。
じんわりあったかいのは僕の心。照れたように熱いのは弥助の心。
「そうか……市助は許してくれたよ。
弥助……今日は一緒に店番するかい?それとも遊びに行くかい?」
「尚兄ちゃんと一緒にいるよ!」
尚兄ちゃんは市兄ちゃんがしてくれるように僕の頭をわしゃわしゃと撫でてくれた。一等好きな、市兄ちゃんと同じ笑顔を向けてくれた。
「そうか、分かった。なら父ちゃんにバレないようにしてくれよ?」
「分かった!」
父ちゃんは僕を見ると無視するか殴りかかってくるかのどっちかだ。弥助だと殴ってくるような気がするし、市兄ちゃんといる時は大抵無視されるような気もする。
父ちゃんは嫌いだ。僕と弥助を見てくれないから。
「いい子だ。じゃあ顔を洗って朝ご飯を食べておいで」
「うん!」
御守りのように懐にいれている市兄ちゃんの苦無を、弥助は布越しにぎゅっと握った。弥助はきっと市兄ちゃんと同じぐらい優しい尚兄ちゃんが嬉しいんだな。僕は尚兄ちゃんに言われた通りにするために井戸へ走った。
「ヤスケ、」
「なぁに?」
冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗ってさっぱりしたところで、弥助が声をかけてきた。周りには誰もいない。家の井戸だから近所の人もいない。しゃらしゃらと草が揺れて音を立てる。
「キョウハ、トウチャン、ミセニ、イル」
「えっ……」
いくら尚兄ちゃんが隠したって、そんなに広くない店で父ちゃんにバレないように隠れることなんか出来ない。お客さんの前で殴られはしないと思うけど、僕は近所の人に存在を知られていない。弥助が、もう一人の僕がいることが知られたくないみたいで。変なのっていっつも思うよ。市兄ちゃんと尚兄ちゃんは双子なのに、それには何にも言わないんだもの。
気狂い、なんて僕はたまに父ちゃんに言われる。僕は気狂いなんかじゃないのに。もちろん、弥助も。弥助はちょっとだけ言葉は片言だけど、それは父ちゃんや母ちゃんが弥助に話しかけてくれないせいだ。
「どうしよう……」
「マカセテ、クレ。ナントカ、スル」
弥助が言うんだ、僕の片割れが。なら大丈夫だな。
僕は弥助に任せるべく体の力を抜いた。当然、力が入っていない体は地面に向かって倒れようとする。だけどその前に弥助が体を動かすから転んだりしない。さっきまでは僕が体を動かしていたけど、今度は弥助が動かす。それだけのこと。喋ることは出来るけど、父ちゃんにバレないようにするために黙っていよう。だけどもし話すことがあれば、変わりに僕が話す。それは父ちゃんと母ちゃんが弥助の片言が嫌いだから。要らない諍いは避けた方が良いに決まってる。
「じゃあ、頼んだよ……ちょっとだけ寝るね」
「ワカッタ」
市兄ちゃんを夜遅くまで待つことは全く苦ではないのだけど、やっぱり眠いものは眠い。弥助が体を動かすならどちらにせよ起きているだろうから僕は寝かせて貰おうと思う。寝てても起きれば弥助が見たこと聞いたことは分かるから便利だ。記憶を共有しようと思えば出来るのは。
「おやすみ……」
顔を洗ったとはいえ目蓋がくっつきそうなぐらい眠かった僕は意識を落とすぐらい簡単なことだった。
・・・・
機会が回ってきた。とんとん拍子に進んでいて信じられないぐらいだ。
弥助が起きてからずっと弥助を見張り続け、もう一人の弥助だけが起きている機会を探り続けていた。井戸の前で忌まわしい邪に体を貸した弥助はそのまま眠りについた。今なら、大事な本物の弟ではなく気狂いにも似た、歓迎されない弥助だけと話すことが出来る。
厄介なのは、本物の弥助が目覚めたときに記憶を共有することが出来ることだが、恨まれる気でやらずに弥助を救うことなど不可能だ。偽物を退けた後に弥助に恨まれようとも構わないし、弥助にやった苦無で殺されようとも仕方がない。弥助にとって偽物は片割れ。尚隆のようなものなのだから。
偽物とはいえ、弥助を消さなくてはいけないことに罪悪感はある。あの弥助もよく懐いた弟だから。だが、彼の行動のせいで愛されるべき弥助は孤独も同然だ。あの弥助を産み出す一端を担ってしまったが、あの弥助は消さなくてはならない。願わくば、弥助の記憶の中でもだ。だがそうはいかぬのが真理だ。俺は、憎まれなくてはならない。尚隆、もだ。
苦労して、父上と母上を説得し、あの弥助を完全に消し去れば弥助を普通の子と同じように接すると約束させた。手荒いが、脅させてもらったのだ。
無防備な弥助の背中側に静かに降り立ち、首筋に一撃。
簡単に意識を失った弥助の体を担ぎ上げ、尚隆と待ち合わせた場所へ急ごう。尚隆は弥助と別れた後すぐに向かったからそろそろ着くだろうし。
傍目には弟を背負って走るただの兄。そう見えるように気をつけて山へ向かった。山の木々に隠された忌まわしき場所へ向かうため。
「市、」
「尚。準備は出来たか?」
「あぁ。後は市と弥助だけだった」
小さな、今にも崩れ落ちそうな小屋。この中に、半死半生である忌まわしき者共が捕らえられている。二年前からずっと、閉じ込めときた奴らだ。
盗賊。
一般的に奴らのことはそう呼ばれる存在だ。忌むべき、排除すべき人間だ。二年前、無知で粗野な盗賊共は村を襲おうと下劣な作戦を企てた。そして、まず人質を取ったのだ。それが、弥助だった。
奴らにとって誤算だったのは弥助の兄である俺が忍であったことだろう。戦乱を潜り抜けることを生業とした者が村に居ないと践んだからだ。
「黒金の……あの刀は用意したか?」
「勿論だ、市。用意は完璧だから」
意識のない弥助を気遣いながら問うと即座に返事が帰ってくる。尚は頷き、ぶるりと体を震わした。酷い臆病者、それが尚だ。普通以上に気を張っていても怖いものは怖い。だがそれでも尚は手伝ってくれたのだ。弥助の為に、そして、俺の中の決着の為に。
「…………ありがとう」
「なんのこれしき。片割れを手伝えずして、弟を救えずして尚隆という人間は成り立たないよ」
緊張感を紛らわす為か少しおどけたように言った尚は小屋の戸を開いた。中からは淀んだ空気が溢れ出してくる。微かな呻き声と生臭くも鉄臭い匂いが充満している。死なぬよう、だが苦しむように尚と共に痛めつけた為だ。
「……これで、俺も弥助を抱き締められる」
「勿論、そうなるよ」
静かに小屋に入り、持参した松明に灯をともす。同時に尚の手から刃が放たれた。勢いはそれなり、決して致命傷を負わされるほどではないが、痛みは強い。ぐったりと意識を失っていた賊共の目を覚ますのには充分過ぎる。
「……!っ!」
「あ、あが……」
最早歯も折られ、人間の言葉を喋ることも出来ないほどに頬が腫れた賊共が微かな悲鳴をあげる。刃は賊共の体を傷つけ、縛っていた縄を解いた。だが足を折られた賊共は動くことすらままならない。血みどろの戦いも、胸が悪くなるような騙し合いも経験してきた俺でもそうはしないような、絶妙の切り方。尚は怖がりながらも時として無情にならなくてはならない。それが悲しくて仕方がないが、もう、同しようもないほどに俺たちは来ていた。
「…………、黒金を」
「あぁ」
用意されていた漆黒に染まった刃を鞘から抜く。黒金の刃は俺達の持つ松明の炎によって煌めいた。だがその光は禍々しく、何人もの人間を突き刺し、一心に恨みを受けたものだ。
この黒金は、鞘を抜くことは我らが兄弟ならば誰でも可能だが、扱い振るうことは俺と尚と弥助のみ。そしてこの刃には力が宿っていると伝えられている。
封じる力、と。
眉唾物かもやしれない。だがそれに縋るしかない。失敗したらその時は。弥助が偽物の時を見計らい、記憶が、偽物が消えるまで殴り続けるしかないだろう。それが効くとは限らないし、弥助の心に傷を付ける。肉体に何らかの障害が残るかもしれないのだ。必然的にそれは最後の手段となる。
「黒金、こんなにも恨んだこの刃が役に立つ日が来るとは」
「闇の中で生きてきた俺だがこればっかりは近づいてはならないと思っていたが…………さて、これが役に立つだろうか」
わざと賊共の恐怖を煽るように声を上げ、揺らめく炎に二つの同じ顔を浮かび上がらせる。かたやその顔は傷だらけ、かたや如何にも悪人らしい目つきで。うっすらと笑う傷だらけの俺とひたすらに睨む尚隆はそれはそれは恐ろしくも見えるだろうなぁと客観的には思う。しかも俺達はこいつらをさんざん痛めつけてきたのだから。無気力にならない寸前、生きていようとは思わせて。逃げれそうな環境。だが逃げることは許されない。傷めつけられ、命の危険を感じる。だが一度たりとも致命傷を負わされたことはない。そんな風にこいつらを調整してきた。心を折っては意味は無い。こいつらは偽の弥助への生贄でもあるからだ。
血を欲し、戦いの中でも異色を放つような残虐性を垣間見せ、弥助に宿るとは考えられないほどの知性を持つ。元々弥助は頭が良い。だがそれは歳相応の範囲でだ。偽の弥助はそれを超越し、大の大人も叶わぬ頭脳を持っている。それ以上の残虐性がなければ共存すらも考えられるほどに。それは叶わぬほどの狂いぶりには舌を巻いたが。血みどろの中で微笑み、兄弟すらも隙を見ては殺そうとしたり、吐き気のするような出来事を笑顔で聞く。幸いということといえば表面上は弥助と仲が良いことぐらいだろうか。それはそれで問題がありすぎるけども。
「やぁ、爽やかな朝だねぇ」
「清々しくて思わず散歩に出るぐらいさぁ」
「そうだねぇ尚隆。俺も思わず弟を連れ出して散歩してしまったぁよぉ?」
こちらを睨みながらもがたがたと震えている賊共を見て、頃合いを悟る。今だと。
慄く賊共の前に弥助を横たえておいた。そして大切に弥助が懐に入れておいたのであろう苦無を抜き取り、代わりに傍らには黒鉄の刀を置いておく。鞘には入ったままだが、少しだけ刃を出しておいて。
黒金の、吸い込まれるような黒色が小屋の入り口から微かに差し込む日の光に怪しく煌めいた。ぶるりと思わず身震いしてしまうような……恐ろしい輝きだった。そう、数々の戦いをくぐってきた俺でも、思うような。無表情になっている尚は震えはしなかったが、目には怯えが浮かんでいるし、賊共は失神寸前になっている。
「あぁそうだ。俺達の弟はねぇ、最近、『情緒不安定』なんだよねぇ?」
「そうだねぇ、市。だから、寂しかっているし、君たちはねぇ、色々と弟がお世話になっているし、弥助もねぇ、『懐いて』いるからさぁ、遊んでやってよぉ?」
「そうだねぇ、それは名案だぁ。『もう一人の』弥助は君たちも好きな遊びが大好きでねぇ。そこにある玩具で君たちと楽しそうに遊ぶだろうねぇ。任せたよぉ?」
さぁ、後は戸を閉めるだけ。暗闇の中で先に目覚めるのは恐らく偽物。偽物はすぐにあの人同じように黒鉄に魅入られて刃に手を出す。その後は、弥助が目を覚まそうが止めようがお構いなしに賊共を滅多斬りにするだろう。
「……、ごめんよ」
小さくつぶやいた尚隆の言葉は聞こえないふりをした。
・・・・
目を覚ませば、暗い所。
壁にかかる松明がゆらゆらと光を照らして。
うごめく黒い塊からはうめき声。
吸い込まれるように美しい、懐かしの黒鉄。
止める弥助は眠っていて。
「アハ、」
怯える瞳なんて、シラナイ。
体が、血を欲すんだもの。
仕方がないことだから。
人間は水を飲まないと死んでしまう。
それと同じだもの。
「ま、待ってくれ!」
「止めてくれぇぇぇぇぇ!」
叫ぶ声には耳を貸さないよ。
僕は立ち上がる。
あの日と同じように。
優しく、愛おしく黒鉄を拾い上げて。
ゆっくりを鞘から刃を抜く。
あぁ美しい。美しいよ。
「ドウシテ、」
こんなに素晴らしいことなのに、どうして、ドウシテこの人達は怖がるんだろう。
「コワガル?」
こんなに素晴らしい刃に、斬られて、貫かれて、逝けるなんて素晴らしいことだ。
「コウエイニ」
僕もそう望むよ。だけど、僕は一人じゃないから、それは出来ないけれど。
「オモエ」
僕は、弥助。僕は、弥助だ。
他の誰でもない。
市という兄ではない。尚という兄でもない。
同じ名前の、僕でもないから。
イラナイの。
ボクハイラナイノ。
怖い、助けて。
出てゆけ、偽物が。
気狂いよ、去れ。
いらない子。
僕は、弥助。
血飛沫の中で笑う時、僕は僕。
薄れ行く意識に僕は、僕の死を悟る。嗚呼、愛しいこの刃に取り込まれて死ねるなんて、なんて僕は幸せ者なんだろう。
もう一人の弥助は、僕の死をどう思うのだろう。
哀しむ?
喜ぶ?
怒る?
兄達はどう思うだろう。市兄ちゃんは、哀しむかなぁ。尚兄ちゃんは、喜ぶかもしれない。
「鏡の中の君に、会いに来ただけだったのに」
一人ぼっちが嫌だった。悲しいのが嫌いだった。
だから、救いを求める弥助に手を差し伸べた。
弥助は僕を認めた。弥助の兄の市助は僕を認めた。
「僕は斯くも儚い」
・・・・
「血潮の中で彼は笑っていました」
「優しそうな微笑みを浮かべた、市兄ちゃんぐらいの年の男の人が、僕に手を差し伸べていたのを覚えています」
「僕は死にたくなかった」
「差し伸べた手を取った時に彼は嬉しそうに笑った」
「その人は、異形の姿をしていましたが、僕にとっては救世主でしたから」
「怖い?と問われた時はすぐに否と答えました」
「僕は市兄ちゃんに騙されていたかもしれない。尚兄ちゃんは本当は優しかったかもしれない」
「そんなことは今はどうでもいいんですよ」
・・・・
「今日は月が綺麗だね、市兄ちゃん」
「そうだな」
「尚兄ちゃんもそう思うよね?」
「勿論さ」
僕の作った歪な月見団子を皆で食べながら僕は笑う。幸せだから。
何かが欠けてしまったような錯覚に時折陥るけど、それは気のせい。
「綺麗なお月様、これを皆で見るのが夢だったんだ」
「そうか、いくらでも叶えてやろう」
兄ちゃんたちは笑わなくなってしまった。兄ちゃんたちは団子を食べなくなってしまった。母ちゃんや父ちゃんは僕を疎ましく思わなくなって、微笑みかけてくれる。
「ねえ、なんで兄ちゃんたちは真っ赤な着物を着ているの?」
書いている本人も意味不明なのです。