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行き遅れ娘と、○○(大きな声で言えない)騎士

作者: riki

 ダンスホールの熱気と喧騒を逃れて外に出ると、しっとりと冷たい夜風が男を出迎えた。

 ネクタイに指をかけて緩め、はっともらした息はワインの香り。アルコールがもたらした火照りをさますべく庭へ散策の足を向けた。

 あちこちの茂みで衣ずれと喘ぎ声がし、男はうんざりした様子で足早に通り過ぎた。

 他人の情事をのぞき見る趣味もないし、女性は間に合っている。ダンスホールを抜け出したのもうっとうしくまとわりつく女性たちにへきえきしたからだ。


 ……しかし、ここを見過ごしては騎士とはいえない。

 男はいったん通り過ぎかけた細道へ踵を返した。

 だんだんはっきりと聞こえる声は、若い娘と酒に酔った男のものだった。生垣で囲われた道。しゃれた緑のアーチも日が沈んでからは月光をさえぎる屋根となり、暗がりにはよからぬ考えの者がひそむようだ。もみあう人影が見えた。


「おやめになってっ」

「よいではないか。このような場所にひとりでいたのはそういうつもりだったのだろう? うん?」

「風に当たりにきただけですわっ」

「恥ずかしがらずともよいわい。今宵は仮面舞踏会じゃ、お互い顔などわからんだろう。火遊びになにをためらうことがある。ひひっ、わしがたっぷり可愛がってやろうなあ」


 娘の腕をつかみ、下卑た笑いを浮かべる酔漢が顔を寄せた。娘は嫌がって身を仰け反らせるが、酔っているとはいえ男と女。力でかなうはずもなく、ぐいっと抱き寄せられてしまう。

 さすがに看過できぬと駆け寄ろうとした矢先、抵抗して振り回した娘の腕が酔漢の顔に当たった。

 いわく言い難い音がし、「あっ」と娘が声を上げ、「ひぃっ」と酔漢がうめいて顔を押えた。ポタポタと下生えを濡らす赤い水滴。


「まあ! まあっ、どうしましょう! すぐに人を呼んできますわっ!」

「ぐっ……ま、まて、その必要は……」

「なにをおっしゃいますの! 血がっ、ああ大変! 誰か、誰かはやく!」

「よい、…ま、まてっ! …………ちっ」


 怪我に動転した様子の娘は駆け出した。

 この状況で人を呼ばれてはとんだ恥をかくだろう。手篭めにしようとした娘に殴られたなど外聞が悪くて表を歩けまい。舌打ちをもらした酔漢は娘と反対方向――男の方へ走ってきた。

 すれ違いざま肩がぶつかる。よろめいた酔漢は「気をつけろっ馬鹿が、……」と悪態をつきかけ、続く言葉を飲み込んだ。こちらの仮面に気づいたようで酔った赤ら顔が見る間に青ざめる。「つまらぬ真似は二度とするな」と忠告して相手の名を呼んでやれば、しどろもどろに詫びを口にしもつれる足で逃げていった。

 道の奥へと視線をやると、娘の姿はない。しかしこの奥はダンスホールと反対側だ。誰を呼びに行くつもりか知らないが、下手をすれば先ほどの二の舞になるだろう。

 これも縁かもしれない、男はあきらめの溜息をこぼし娘の後を追った。


 いくらもいかないうちに地面にしゃがみこむ娘の後ろ姿が見えた。大きく上下する肩にハンカチを取り出した男は近寄るにつれ、泣き崩れていると思った娘の様子が違うことに気づいた。

 ガツガツと勢いよく地面を掘る音。生垣に身を隠して窺うと、小さなつぶやきが聞こえてきた。


「ベタベタ触るなっていうのよ、あの禿げジジイ! 前歯で勘弁してあげたわたしの寛大さに感謝するのねっ。扇子がひとつ駄目になったじゃないのっ」


 娘の細腕に吹き出した鼻血。当たりどころが悪かったのかと思っていたら、握った扇子で殴っていたとは……。

 さらにその扇子を使って呑気に土を掘っている。人を呼ぶ気はなさそうで、どうやら酔漢を追い払う口実だったらしい。

 か弱い娘が手篭めにされかかっていたという認識を改めなくてはならないようだ。

 男が興味深く見守っていると、穴を掘り終えた娘はすっくと立ち上がり、扇子と一緒に「もう使えないわね」と両腕の手袋も脱ぎ捨て穴に放り込んだ。ハイヒールでぎゅうぎゅうと土を踏み固めならしている。怒りをこめた執拗な踏みつけは、その手の趣味を持つものが見たら娘の足元に身を投げ出しそうなほどだ。

 仕上げに落ち葉や草をかぶせて偽装工作をほどこし、娘は道の奥へ歩き去った。


 男は娘の気配がなくなると穴を掘り起こした。

 折れた扇子に手袋が一組。白い手袋には泥汚れと血しぶき、月光に“M”のイニシャルが縫いとられているのが見えた――。




 ◇◇◇◇◇




「マリーや、仮面舞踏会はどうだったね? 良い男性とめぐり合えたかな?」


 父親の猫なで声にマリアンヌは白い眼を向けた。


「良い男性? いたのは酔っぱらいよお父様。嫌だっていってるのに腕を放してくれなくて、うまく逃げだせたからよかったものの、もう少しで傷ものになるところだったのよ」


(ま、傷モノになったのはあちらですけど)

 じゃじゃ馬と父に言わしめる喧嘩っ早いところも婚期が駆け足で遠ざかる原因だろう。

 マリアンヌの内心の声を知らぬ父親はあわてふためき、娘の無事を喜んだ。

 強引に舞踏会に放り込んだくせに心配はするのだから、おかしなものだ。これで社交界に引きずりだすことをあきらめるだろうと算段したとおり、父親は「そんな危険な目に遭うのなら、舞踏会は控えた方がよいな」と独り言ちている。

 ふくれっ面は表面だけ、思惑通りの展開に内心ほくそ笑んでいたマリアンヌは、続く父親の言葉に厄介ごとが振り子のごとく己の身に返ってきたことを知った。


「やはり身元のしっかりした相手がいいだろうな。安心しなさい、この方の身元はだれよりもはっきりしている。レイモンド・ブラック様がおまえに交際を申し込んできたのだよ。いつの間に彼と知り合ったのだ? おまえも隅におけないな」

「――まったくお話が見えませんわ、お父様」

「では彼の方がおまえを見初めたのかもしれんな。先日の仮面舞踏会には彼も参加されていたのだ。なんと幸運なことか、わしも鼻が高い」


 呆気にとられて顎が外れそうな娘を前に、「今日は祝いだ! ワインを持て!」と父親は浮かれ騒いでいる。

 真昼間から、と困惑顔の執事がワインを運んできたところでマリアンヌは我に返った。


「お父様! 交際とはなんのことですか!? レイモンド様がいらしていたことは知っていましたが、あの方と言葉を交わしたことはありません!」

「いやいや、恥ずかしがることなどないぞ。色気のないおまえに気をもんでいたが、春はいずこからともなくやってくるのだな」

「ずいぶん具体的にやってくる春のようではないですか。それで、お返事は? まさかお受けになったのではありませんよね? わたしに一言の相談もなくっ!」

「子どもの結婚を決めるのは親の権利だ」

「お父様こそ、結婚を反対されたお母様と駆け落ち同然に家を出て、後継ぎを理由にお祖父様を脅して認めさせたそうではないですか」

「マリーや、おまえには駆け落ちする相手がいるのかい?」


 ぐっと詰まった娘に微笑んでみせた口元にちらりと腹黒さがうかがえた。

 マリアンヌの父親は王都南部の商区を管轄する副長。早くに妻を亡くしたせいもあってひとり娘にだけはどこまでも甘いが、根は計算高く冷酷だ。

 相手がいないのならば、彼の騎士を相手としてなんの不服があろうか。父親の言に反論はできない。

 レイモンド・ブラック。

 伯爵家の次男として生まれ、なぜか騎士団に入団した変わり者。

 「貴族の剣は金の剣、煌びやかなれど肉は断てぬ」という嘲りを斬り伏す天賦の才で、あれよあれよと位をのぼりつめ、ついには実力で副団長の座を得た天才剣士、黄金の騎士だ。ひとたび剣をおさめたら彼のたくましい腕に国中の美女がぶら下がるだろう。

 子爵と伯爵、家格はあちらが上だ。「逆にわたしが相手では釣り合わないでしょう」と告げれば、くもりにくもった身内の欲目、「おまえになんの不満を抱こうか」と真顔で問いかけられる。

 マリアンヌは十九。そろそろ行き遅れだ。二十の大台を前に結婚を焦る父親の気もわからなくはないが、本人にその気がないのに勝手に盛り上がっている。

 それよりも謎なのがまったく接点のない存在だ。

(レイモンド様はなにを考えていらっしゃるの……?)

 彼女のような年ごろを相手にして戯れの恋、とはいかない。本人も親も眼の色を変えて結婚を迫ってくるだろう。父親もむろん例外ではなく、瞳に結婚前提の文字が浮かんでいる。伯爵家の口利きは商売の規模をさらに大きくするだろう。娘を心配する親心は本物だろうが、商魂が入る余地もあるようだ。

 悪い男なら割り切った人妻か未亡人と楽しむのだろうし、賢い男なら初心で若い娘を嫁に迎える。

 馬鹿で飢えた男しか自分を相手にすることはない、マリアンヌはそう考えていた。

 レイモンド・ブラックは馬鹿でも飢えてもいない。


 ――疑問は解決しないまま、マリアンヌ・ダートンとレイモンド・ブラックの交際は強制的に始まった。




 ◇◇◇◇◇




「浮かぬ顔をされている。私といるのは退屈ですか」

「いいえ、まさか。馬車の揺れに酔ってしまったようですわ」


 扇子のかげでこっそり浮かべた仏頂面を目ざとく見つけられ、マリアンヌはイライラした。

(いちいちわたしの動向を見張っているのかしら。うっとうしい人!)

 舌打ちのひとつもすればこの青空よりスカッと気が晴れるだろう。


 父親が勝手に許可を出したピクニックデート。立派な馬車が門前にとまった。

 雨よ降れとの願いも虚しく空は澄みわたり、胸中にだけ暗雲を垂れこめさせてレイモンドの手を取った。

 完璧なエスコートでマリアンヌを奥の座席に腰かけさせ、彼は斜め向かいに陣取った。出入り口の側に男が座るのは当たり前のことだが、閉じ込められたような息苦しさをおぼえた。

 淑女の盾、ふんわり羽毛付き扇子をパラリと広げて顔を隠し、マリアンヌは窓の外に視線を投げるふりをしてレイモンドを観察した。

 窓ガラスに映る顔は、なるほど、彼を前にすれば老女も紅を刷くといわれるだけあった。

 黄金を糸にしてやわらかに束ねればこの髪はできるのだろうか。短い髪は思わず手触りを確かめたくなるほど輝いている。やや太めの意志の強そうな眉。その下にあるのは珍しき紫眼。高い鼻梁に微笑みを浮かべる唇。美しいのに男性的な美貌だった。

 発される声は低く掠れたようで、馬車へ乗り込むさいに「足元にお気をつけください」と耳元で囁かれたときは、色恋にうといマリアンヌでも腰が砕けそうになった。

 騎士服姿は彼がデートの申し込みにやってきた日に見たが、今日の私服も趣味がよい。アイボリーの上着はともすれば印象がぼやけて見えそうだが、立て襟の裏地が鮮やかな真紅で自然と目がいき、鋭角の顎をたどれば形の良い唇へ――うっすらと見えるのはガラスの傷かと指先でこすり、消えぬ傷に彼の顔に刻まれたものだとハッとした。

 お飾りの騎士ではないのだ。

 まるでそのタイミングを見計らっていたように、ガラスに映ったレイモンドと視線が合った。

(彼は気づいていたんだわ、わたしが観察していることを……)

 あわてて目を伏せ、横を向いた。

 けれど一瞬で焼きついてしまった楽しそうな笑みは脳裏から消えてくれなかった。膝で遊ぶ子猫を微笑ましく見守っているような笑い方だった。

 優位に立たれた感覚を消したくて、マリアンヌは突かれたら痛い場所はないかと騎士の引き締まった腹を探ることにした。


「――どうしてレイモンド様はわたしにお声をかけてくださったのですか?」

「仮面舞踏会でお会いしたのですよ。お父上から話をお聞きではありませんか?」

「先日の仮面舞踏会にはたしかに参加しておりましたが、レイモンド様とお顔を合わせた記憶がないのです」

「獅子の面に覚えはありませんか?」

「いいえ。失礼を申し上げますが、突然のお話にとまどっているのが本当のところですの」

「一目惚れに音楽が付随するのであれば、天上の調べです。私の頭に流れたメロディーをあなたにお聞かせできれば、この甘く騒ぐ胸の内を知っていただけるのに」

「まあ、仮面舞踏会で一目惚れですか? 口がお上手ですこと。一体どんなメロディーですの?」


 言っていて歯が浮かないのだろうかこの人、とマリアンヌが呆れた眼差しを向けると、レイモンドは白い歯を見せて笑った。残念ながら歯は浮いていなかった。


「ピンポーン、です」

「は?」

「ピン、ポーン」


 わざわざ区切ってくれなくとも聴力は正常だ。


「……それはどんな意味ですか?」

「私は天啓ととりましたが」


 何事においても突出して秀でた面があると、へこんで修復不可能な面もあるにちがいない。

 爽やかに朗らかに、騎士とはこうあるべきとお伽噺から抜け出したような存在は、ポカンと口を開けたマリアンヌに両者の出会いを語った。


「仮面舞踏会の夜、酔いをさましに庭へ出た私は言い争う声を聞いたのです。年若い女性が酔った男にからまれているようでした。助けようとした矢先、もみあった拍子に女性の扇子が当たった男は鼻血を出した。あわてた女性は人を呼びに行ったため、男はその場を逃げ出した」


 誰かに目撃されていたとは。

 マリアンヌは身に覚えのありすぎる話に動揺を押さえ、そ知らぬ風を装った。

 それにしても、瞬息を冠する剣ならば無礼者をズバッと峰打ちにしてくれたらいいのに、眺めていただけとは腰の重い騎士だ。


「女性は幸運にも助かったのですね。よかったですわ」

「私もそう思いました。ところが偶然扇子が当たっただけに見えたのですが、女性は意図して暴漢を殴りつけていたようなのです。その見事な手腕に感服しました。一目惚れは容姿にかぎらず、行動に対してもおこるものだと初めて知りました」

「女性が殴るですって? そんな恐ろしいこと! 見間違いをされたのではありませんか?」

「あなたのおっしゃる通りだ。本人に確認してみないとわかりませんね。――マリアンヌ嬢、真実はどちらですか?」


 笑い含みの問いに目を瞠ってみせる。


「まあ! 賭けでもなさるおつもりですの? 当事者でもないわたしに真実がわかるはずがありませんのに」

「賭け、それもいいですね。賭けをしましょう、あなたと私で。扇子が当たったのは故意か偶然か」

「嫌ですわ。賭けの賞品はなんですの? かりに乗ったとしても、結果をどうして知ることができます?」


 紫眼がすっと笑みに細まる。「あなたが賭けに勝てば、どんな望みも叶えますよ」と囁いた声はぞくりとするほど蠱惑的で、馬車の中にピンクの霧が立ち込めたような錯覚がした。扇子の陰でうっと息をのみ、マリアンヌは色気にあてられる前に急いで頭を働かせる。


「どんな望みでも? 騎士は忠誠を胸に、誠実を口にと聞きますが、そんなことを約束されてもよろしいのですか?」

「ええ。二言あれば舌を切れともいいます。さあ、あなたの望みはなんですか?」

「……もし賭けに勝ったら、レイモンド様からお父様に交際の申し込みを取り消してくださいますか?」


 意外なことでもないだろうに、レイモンドは少し傷ついた顔をした。美形がやるとこちらの罪悪感をあおってくるから厄介だ。マリアンヌは動機の見えない交際に浮かれるほどおめでたい性格をしていない。むしろ理由のない好意は不気味に感じる。


「……それがあなたの望みであればもちろん叶えますよ。賭けの結果を知るすべもあります。では、どちらに賭けられますか? 故意か偶然か」


 どちらに賭けるべきか。

 レイモンドは見ていたといった。暴漢を殴り人を呼ぶと逃げ出したあと、もしかして暴漢が追いかけてきていないかと後ろを振り向いたが、誰もいなかった。彼が見ていたという場面だけで故意か偶然か判断できるはずがない。

 マリアンヌは迷ったすえに口を開いた。


「偶然だと思いますわ。女性の扇子が偶然相手に当たっただけではありませんの?」

「では、私は故意に賭けます。いいですね?」

「まってください。レイモンド様は賭けに勝ったらなにがほしいか聞いておりません。わたしはどんな望みも叶えるというわけにはいきませんわ」

「あなたにしか叶えることのできない望みです。あなたの望みと真逆を望む私は、嫌な男でしょうね?」


 マリアンヌにしか叶えられない真逆の望み。

 わかるようでわからない。賞品がはっきりしない賭けは危険だ。支払うのが自分ならばなおさら。


「はっきりおっしゃってくださいな。レイモンド様がわたしに望まれることはなんですの?」

「あなたが賭けに乗られたからいいでしょう。私の望みは、マリアンヌ嬢、あなたです。あなたに結婚を申し込みたい」


(……結婚ですって? この人は正気なのかしら?)

 驚きに真ん丸になった瞳をのぞきこみ、レイモンドは楽しげに告げた。


「賭けの結果を知りたいですか?」

「それがわかるのであれば」

「か弱い女性が自力で男を追い払った、それが故意か偶然か。こうすれば答えは出るのではないでしょうか?」


 いきなり席を立ったレイモンドは、馬車の揺れなど微塵も感じない動作でマリアンヌの前に移動した。長身の彼は上体をかがめた格好で、マリアンヌの両側の座席に手を突く。

(ちょっ、近い近い近い近いってばーー!!)

 ふうっと吐息が扇子の羽を揺らす。マリアンヌは真っ赤になって扇子を挟んで見つめ合う彼を押した。


「レイモンド様っ、お戯れがすぎますわ!」

「戯れではないのですが。あなたに関して私はいつでも本気ですよ」


 言葉通り、紫眼は真剣マジだった。

 寄せられる顔を扇子で押しやるも、マリアンヌの身体はどんどん馬車の隅に追い込まれて――。


「やめてっていってるじゃないのっ、この色ボケ騎士っっ!!」


 顎の下から掌底で一撃。上体が反ったところで鳩尾に肘鉄を追撃。向かいの座席に座り込んだところで、ドスドスとヒールを相手の靴に突き刺してとどめ。

 ハアハアと肩で息をするマリアンヌの耳に、ふっふっと途切れ途切れの息遣いが聞こえたと思ったら、爆笑がはじけた。レイモンドが腹を抱えて笑っている。


「はははははっ! 最高だっ、やっぱりあなたは素晴らしい! 顎も鳩尾も足も痛い! はははははっ!!」

「……どうなさったの? ひょっとして頭を打たれました?」

「いいや、いいや。残念ながら、頭は無事です。でもこれで賭けの結果は知れました。あなたはやっぱり意図して殴ったのですね。か弱い女性はこんな反撃をしませんよ」

「わたしを試すためにあんな真似をしたんですか!? 最低です!!」

「謝ります。すみません。しかし賭けのためだけではないのですよ」

「他にどんな意味があったというんです?」


 言い訳があるならいってみなさいと促したマリアンヌは、聞かなければよかった……とすぐに後悔した。


「実益も兼ねていたんです。子どもの頃はそうでもなかったんですが、成長するにしたがって自分の特殊な趣味に気づきました。人聞きが悪いので公言はしていませんが、虐げられると嬉しいのです。殴られたり、蹴られたりといった行為に興奮するんです。時々わきあがる欲求をもてあましていたのです。ああ、あなたのその眼差しが心地いい」


 ドン引きのカミングアウトに睨みつけると、レイモンドはうっとりとした表情で微笑んだ。逆効果だ。


「……それで、わたしとどんな関係が? 割れ鍋に綴じ蓋、世の中にはレイモンド様のような趣味にぴったりの方もいらっしゃるでしょうに」

「私のわがままなところですね。嬉々として虐げる者は好きになれない。本意ではないと嫌そうにするあなたの表情がたまらなく好きなのです。舞踏会で出逢ったときから一度だけでいい、虐げられたいという夢が叶いました」

「夢が叶ったのなら、わたしに用はありませんよね?」

「人間とは欲深い生きものですね。申し訳ありませんが、逃がすつもりはありません。理想の女性に出逢ったとき、一緒になりたいと願わぬ男はいないでしょう?」

「迷惑ですわ!!」


 力いっぱいの拒絶に返ったのは晴れやかな笑顔だった。先ほどの傷ついた様子は演技の疑いが強まる。


「賭けは私の勝ちですから、今さら無効は受けつけませんよ?」

「じゃあもう一度賭けをしましょう! レイモンド様は賭けの答えを知っていたんですよね!? その答えをどうして知ったか、それを賭けましょう!」

「かりに乗るとして、選択肢はなににします? また、結果を知る方法は?」

「見ていたとおっしゃいましたが、あの暴漢から話を聞いたんでしょう?」


 見ていたのはマリアンヌがもみあっているところまでで、逃げ出した男を捕まえて状況を聞き出したに違いない。色ボケとはいえ騎士は騎士。暴漢を捕まえてくれたのだろう。


「ふむ。では結果を知る方法を」

「レイモンド様が本当のことをいえばいいだけですわ! さあ、どちらにお賭けになるの!?」


 詰め寄るマリアンヌに、「先に賭けの賞品を決めても?」と慎重に尋ねられた。


「わたしがこの賭けを無効にしないか心配なさっているの? 騎士でなくとも二言はありませんわ。わたしの望みは二度とレイモンド様が結婚したいなんて言い出さないことよ!」

「私が勝ったらあなたに口づけたい。それでも賭けますか?」


 ぎょっとした。虐げられたいなどとのたまったのはすべて嘘だったのかと思うほど、熱っぽく見つめられる。吸い込まれそうな深い紫の瞳から努力して視線をそらし、こくりと頷く。

 レイモンドは真面目な顔で結果を告げた。


「騎士に二言はありません。マリアンヌ嬢、私は見ていたのです」

「剣に誓って、真実をおっしゃっていますか?」

「剣と良心とあなたに誓います。言葉だけでは信用できないのは当然です。証拠もお見せしましょう」


 レイモンドが懐から取り出したのは折れた扇子と一組の手袋。洗われてはいるのだろうが薄茶色に残った血の染みも生々しい手袋には、見覚えのあるイニシャルが縫い取られていた。

 あの晩土の下に葬ったブツだ。となれば、誰もいなかったというのはマリアンヌの思い込みで、証拠を埋めるところまで一部始終を彼に見られていたのだ。


「真実を話したと認めていただけますか?」

「…………二言はありませんから、わたしの負けでいいですわ」

「約束通り、賞品をいただきます」


 マリアンヌは覚悟を決めた。女に二言はない。

 行き遅れのマリアンヌにキスの経験はなく、心臓がバクバクと大騒ぎをしている。この騎士は残念な性癖に目をつむれば、顔だけはとびきりいいのだ。迫られると緊張してしまう。

 ところが、レイモンドはなんと馬車の床に膝をついた。いくら身長差があるといっても、これではお互いの顔などとても――。


「……なにをなさってますの?」

「あなたの足に口づけるのに、靴が邪魔になりますから」


 丁寧な手つきで足首に巻いたリボンをほどくレイモンドに釈然としない感情がこみ上げる。

(~~口づけってっ、口づけって! 普通は唇じゃないのっ!?)

 断じて唇にしてほしかったわけではないけれど、無駄にドキドキした瞬間を返して!と叫びたくなる。


「口づけって足になさるおつもりでしたの?」

「騎士たるものが唇に? まさかそんな非道な行いはしませんよ」


 完全にこちらの勘違いをわかった上でいっている。

 愉快そうに微笑む外道の騎士に、ついにマリアンヌは怒りを爆発させた。


「さっさとお好きなところに口づけてくださいな! 手にしたら殴って、足にしたら蹴飛ばしてあげるわっ!!」

「嬉しいな。俺にとってはご褒美だ」


 瞳を輝かせたレイモンドに、マリアンヌはがっくりと肩を落とした。


 意外なことに、マゾなところをのぞけばレイモンドは恋人として優良物件だった。女性を楽しませることに長けていて、優しい。任務に就いている間はハラハラさせるけれど、終わるとかならず花を持ってマリアンヌに逢いに来る。

 一緒にすごすうちに、次第にマリアンヌの心はレイモンドに傾いていった。

 殴られることにしか興味をもてないのかと悩んでいたら、最初は一目惚れだったが今はマリアンヌの顔も性格も好きだと告白してきた婚約者の脛が痣になったのは当然だろう。嬉々として蹴飛ばされた、と彼は嘆いていたが。



 ――一年後。ダートン家の一人娘に祝福の花びらが投げかけられることになった。

 結婚記念日に毎回ピンヒールをプレゼントしてくるのは踏みつけたいほど許せないけれども、マリアンヌはおおむね幸せだ。

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