嫁さんがスネる可愛い人
兄と二人、絶望に声を失い希望を見い出せずその場に立ち尽くしていると、背後からジャリ、という砂の擦れるような小さな音が響いてきました。
ゆっくりと振り返れば、そこには全身を震わせながら苦しそうに立ち上がるゴブリンの姿。
彼はまだ正気を保っているのでしょうか。
それとも、もう瘴気に狂っているのでしょうか。
深く俯いた頭からは、何も窺うことが出来ません。
でも、もうどちらでも構わないと思いました。
このまま領民が苦しみもがき倒れていくのをただ眺め続けなければならない未来を生きるよりは、今ここで本当の悲しみを知らないまま全てを投げ出して死んでしまった方が、私はきっと胸を痛めずに済むでしょう。
それは、とてもとても無責任なことかもしれません。
だからといって、こんな重すぎる事実を突きつけられて、それでも前を向いていられるだけの強さなど私にはありはしないのです。
一切光の射さぬ暗黒の地に立ち続けられるような強さなど……。
何とか立ち上がったゴブリンは小さく呻くような声を上げながら、ゆっくりゆっくりとすり足でこちらに近付いて来ます。
そこで、ようやく難しい顔のまま静止していたお兄様も彼の動向に気が付いたようで、慌てて私の腰を抱いて十数歩分の距離を取り、片手に剣を構えました。
けれど、ゴブリンの目的は私たちには無かったらしく、彼はこちらに目を向けることなくキュウマ草のある辺りに移動して行きます。
そして、ついに枯草群にたどり着いた彼は、ブルブルと震える手を自身が首から下げている小さな壺に伸ばしました。
あぁ、そういえばありましたね、謎の壺。
私、アレが何なのか、実はずっと気になっていたんです。
私たちの目の前で、ゴブリンはその壺のかなり厳重に施されている封を解いていきます。
それから彼は、慎重に見える動作でゆっくりと入口をキュウマ草へ傾けました。
遠目なのでハッキリとは分かりませんが、中からドロリと粘性のあるゴブリンの肌よりもさらに濃い緑色の液体が流れ出たようです。
その液体がほんの一滴キュウマ草へ落ちると、ゴブリンはすぐに壺を戻し再び封を施しました。
ええ……と、一体彼は何がしたかったのでしょうか……?
と、そんな風に疑問に思ったのも束の間。
いきなりキュウマ草から、ものすごい勢いで白い煙が噴き出し始めたのです。
これには本当にびっくりしてしまって、私はまるで大げさな喜劇のように思い切り悲鳴を上げてしまいました。
数秒間噴出し続けた白い煙は、けれど私達の視界を塞ぐようなことはなく、すぐに天に昇って空色に溶けていきます。
「これ、は……いったい……」
煙を追って、顔を上空へと向けていたお兄様が呆然と呟きました。
そんな兄の声を背に、とあることに気が付いた私はまたも衝動のままにその場を駆け出します。
すぐに後ろから叫ぶように名を呼ばれましたが、今は別のことで埋まりきっている私の意識までソレが届くことはありません。
「ゴブさんッ!」
「ギョワ!?」
地面に座り込むゴブリンの胸元へと、私は走る勢いそのままに飛び込みました。
あまりに突然のことで驚いていたようですが、彼は倒れそうになる上半身を咄嗟に片腕で支えて耐えたようです。
さすが、ゴブさん。
「ギ……ギギョグゲ……?」
「ゴブさん! ゴブさん! ゴブさん!」
だって、一目で気が付いたんです。
彼が、いつもの優しいゴブリンに戻ってくれたのだと。
一目で気が付けたんです……だから……。
「うぇっ、ゴブさっ!
ゴブっ、ヒック、ゴブっさっ、うぁっ!
ぁあぁぁん!」
「ギョッ? ギ、ギギョッ!?」
「うあぁああんっ!
ゴブざぁぁあああんん!!」
「ギャ、ギャー……」
その時の私に、恥ずかしいだとか情けないだとかそういった感情は一切ありませんでした。
さらに、キュウマ草のこと、兄のこと、魔物のこと、領民のこと、そんな何もかもが私の頭から抜け落ちてしまっていました。
考えられるのはただひとつ、変なゴブリンが変なゴブリンのまま帰ってきてくれた、ということだけ。
それだけで、私は全ての問題が片付いてしまったかのような錯覚に陥り、深く安堵の気持ちを抱いてしまったのです。
唐突に抱き着かれ、泣かれ、始めはひどく狼狽えていたゴブリンですが、まるで幼い子どものように泣きじゃくる私を眺めているうちに、どうにかこうにか落ち着いたようで……それから、彼は空いている方の腕でずうっと私の背を擦り続けてくれていたのでした。
~~~~~~~~~~
「いったい君は何をしたんだ?
キュウマ草はどうなった?
どうして正気に戻った?
いや、まずどうして他の魔物のように狂わなかった?
そもそも、君の目的はなんだ?」
答えてもらったところで通じはしないと分かっているのに、お兄様は先程からゴブリンに詰め寄り、自身の疑問を投げかけ続けています。
きっと、それだけの衝撃を受けたということなのでしょう。
私も気持ちは理解できます。
が、しかし、それもゴブリン側からすれば、迷惑極まりない話です。
なので、血のつながった妹として兄の愚行を止めるべく行動を起こそうとしたのですが……。
「ギャ!」
その前に、ゴブリンは何かを閃いたようにポンと手を叩いて、そのまま地面にしゃがみ込みました。
のぞいて見れば、彼は地面に指を突き立て何かを書いているようで……って。
「えぇえええーッ!?」
「こ、これは……まさか!」
「もっももも、文字!? 文字ですか、ゴブさん!?」
「そんなバカな! 魔物が!?」
いやもう、とにかく驚いたなんてものじゃあありません。
言葉だけならまだ聞いて覚えるなんてことも仮にもしかしたら万が一あるのかもしれませんが、文字はそれだけ見たって意味も分からないですし、何よりまず魔物が文字という概念を理解できていることが私には理解できません。
けれど、彼の指の軌跡を追えば、そこには確かに、たどたどしいながらも私達人間の使う文字がその正確な意味をもって記されていたのです。
【字、ゴブリン、少し。
読む、大変、が、伝える、できる、ひとつ。
ゴブリン、書く、ふたり、読む、良い】
そこまで書いて、ゴブリンは流れてもいない額の汗を右腕で拭って息を吐き、視線をこちらに向けてきました。
わけもなくイラッとするような満面の得意顔でした。
土の上に刻まれた文字は、幼児の書いたもののようにあちこち歪んでいたし、ほぼ単語で構成されていたためかなり読みにくくはありましたが、彼が言わんとすることは何となく理解できます。
理解して……だからこそ、猛然と湧き上がってくる感情を抑えきれず、私は半狂乱でゴブリンの首へと掴みかかったのです。
「どうしてですか、ゴブさん! どうして、ずっと黙っ……!
わたっ、私が今までどれだけッ! どれだけ苦労ッ!
ばっ! っもおおおお、ばかあああぁぁあああ!」
「ぐえーッ!?」
【ゴブリン、悲鳴! 苦しい! 苦しい!】
「余裕じゃないか」
ひ弱な指にあらん限りの力を込めれば、ゴブリンは鶏が首を絞められる時のような声を出しながら、地面に足で文字を書いていきます。
少しは本当に苦しがっているのかもしれませんが、お兄様の言うとおりほとんど形だけでしょう。
彼の実力から言えば、私の指ごとき躱すことは容易であったはずですし、今も外そうと思えばいつだって外せるはずなのですから。
~~~~~~~~~~
騒動がひとまず落ち着いたところで、お兄様はすぐにゴブリンと話しを始めました。
私はというと、いつものようにゴブリンの傍にはいたくなくて、少し離れた場所で座って二人を見ていました。
時おり彼がチラチラとこちらの様子を窺ってくるのですが、その度に私は頬を膨らませてそっぽを向いてやります。
子どものような真似だとは自分でも思いますが、私の受けたショックは今ゴブリンがしょんぼりしている気持ちの何倍も大きかったのですから、許容していただきたいものですね。
「それで、あの壺の中身は何だったんだ?」
「ギョギーゲ」
【汁、瘴気、浄化。
狂う草、癒す草、変わる。
癒す草、食べる、傷、治る】
「あのキュウマ草が傷を?
……にわかには信じがたいな」
「ギュア」
【ゴブリン、傷、治る。
人間、試す、ない、治る、分かる、ない】
「……そうか。
ちなみに、その汁の正体は?」
「ギェグゴ、グゲゲッギーギャッ」
【長い旅。
ゴブリン、知る。
遠い、遠い、白い大地。
氷、下、水、潜る、底、草、煮る】
「白い……海の果てにあるという人跡未踏の極寒島のことだろうか。
そのように有益なものがあると知れば、あの地に挑もうとする人間も出てくるだろうな」
方法上時間はかかっているようですが、お兄様は根気強くゴブリンに質問を続けていきます。
「ともあれ、君が今狂うことなく存在しているということは、少なくとも瘴気への効果に間違いはないということだ。
それだけでもどれだけの人間が救われるか…………ん?
しかし、瘴気が無くなるのなら、なぜ魔物たちを全て殺してしまう必要があったんだ?」
「ギュオッ」
【狂う魔物、戻る、ない、危険】
「なるほど。
一度狂気に染まれば正気には戻らない、か。
そう言えば、だ。
そもそも、どうして君は狂わなかった?」
「ギギュゲーギャッギョ」
【他、魔物、我慢、知る、ない、狂う。
ゴブリン、違う、我慢、知る、少し、狂う、ない】
「要するに、衝動を耐えようとする意思があればいいのか。
君のように知能の発達した魔物は、他にもいるのかな?」
兄がそう尋ねた時、ゴブリンがまたチラリとこちらを見てきたので、目を逸らしておきました。
分かりやすく悲しそうな顔をされるのが少し嬉しい、なんていうのは歪んでいるのでしょうか。
でも、彼のその反応は、私に好かれたいとか嫌われたくないなんて想いがなければ起こらないはずのものです。
それが確認できてしまうから、ついついそっけない態度を繰り返してしまいます。
うーん……私って、結構イヤな女の子だったんですね……。
「ギュゴンギェ」
【ゴブリン、長い旅。沢山、考える、魔物、見る、ない。
魔物、食べる、だけ、考える。
頭、良い、悪い、同じ、食べる、だけ、考える。
嫌い】
「………………」
と、そこで、お兄様がこれまでと違う何とも言えない難しい顔をして黙り込んでしまいました。
私はそんな兄の態度を訝しんで口を開きます。
「あの、お兄様?」
「えっ、あぁ、いや……何でもないよ」
すると、ハッと私の方を振り向いたお兄様は何かを誤魔化す様に笑顔を浮かべて、再びゴブリンの方へ向き直りました。
……なんだったんでしょう?
「それで、えぇと、ゴブリン……くん。
その浄化の汁とやらはまだあるのかい?」
「ギャッ」
【汁、少ない、壺、全部。
狂う草、沢山、汁、少し少し、使う】
「沢山……?
まさか、まだキュウマ草が近くに存在しているとでも?」
「ギャギャギギェー」
【前、ゴブリン、地図、触る、全部、狂う草】
「えええ!? ほ、本当ですかゴブさん!」
「バカな! なんだってそんなことに……っ!」
ここにきて、衝撃すぎる事実が判明してしまいました。
なぜ、我が領ばかりこのような酷い目に合わなければならないというのでしょう。
例えこれが神に与えられた試練だとしても、あまりに理不尽ではありませんか。
「グギィギョ」
【ゴブリン、知る。
人間、運ぶ、狂う草、人間、臭い、同じ、いつも、同じ】
「人為的に行われたことだと言うのか!?」
「うそっ! そんなこと可能なんですか!?」
「そうだ、一体どうやって!」
「ギョエッ?」
【ゴブリン、知る、ない。
狂う草、現れる、突然、人間、そば、現れる。
ゴブリン、森、住む。
見る、ない、知る、少ない】
「……あっ、そ、それもそうか。
すまない、取り乱してしまったな」
「わ、私も、ごめんなさい」
グイグイと責めるような口調で詰め寄る私達に、ゴブリンが困ったような申し訳ないような顔で首を左右に振ります。
それを見てようやく冷静さを取り戻した兄と私は、己の行動を恥じて彼に頭を下げるのでした。
気を取り直したお兄様はキリリと表情を引き締めて、ゴブリンへ問いかけを続けます。
「で、その人間は今どこにいる?」
「ギョグ」
【地図、最後、触る、町。
ゴブリン、人間探す、殺す、狂う草、終わる】
「……つまり、君が解決するつもりだと?
分からないな。
それで魔物の君に何の得があると言うんだ」
「ギェギーギョギャーグ」
【狂う草、終わる、イヨルデ、伯爵、行く、ない。
イヨルデ、ゴブリン、森、暮らす、二人】
「えっ、私?」
予想外の回答に、思わず目を丸くしてしまいます。
あの、そ、それって、私が伯爵の妾にならないといけないって説明したから、そうならないように考えてくれていたってことですか?
凶暴化した魔物たちと戦わないといけないことを分かっていて、それでも私の為に一人で解決してくれようとしていたってことなんですか?
え、もしかして、き、期待しても、いいんですか?
ええっ、り、両想い、期待しちゃって、い、いいんですか、ゴブさん?
これで私のこと愛玩動物扱いだったなんて言ったら、百回は叩いちゃいますよ?
本当に? 本当にいいんですか?
「森で二人、か。
だが、それはすでに行われていたことのはず。
なぜわざわざ出てくる必要があった?」
「ゴギュゴ!」
【つがい、ゴブリン、守る。
泣く、だめ。笑う、守る】
「ごっ、ゴブさん……ッ!」
つがい! ツガイ!! 番!!! 勝訴!!!!
それに泣くのはダメ!?
笑顔を守る!?
うわあ! そんな! そんな!!
だ、ダメです! 嬉しすぎて涙が! 涙がーーっ!!
「ギャ?」
【イヨルデ、泣く、だめ、ブス、なる】
十回叩きました。