今はもう動かないその事実
あの変なゴブリンが変なゴブリンじゃなくなるかもしれない。
たとえ変なゴブリンのままでも、このままいけば魔物に殺されてしまうかもしれない。
私はもう二度と彼に会うことが出来ないのかもしれない。
その事実がグルグルと頭の中を占領して、私はというと、まともに思考することすら出来なくなっていました。
そんな呆けた頭の中、何かを唐突に思い出す時のように、パッととある真実が浮かび上がります。
それは、私が今まで不可解に思っていた、この胸にどうしようもなく湧き上がってくる感情の名前。
苦しくて熱くて黒くて恥ずかしくて柔らかくて痛くて暖かくて重くて優しくて、そして、今にも弾けてしまいそうな、矛盾すらも内包した複雑な感情の名前。
どうしてかこんな時に、私は知ってしまったのです。
全ての女性が一度は憧れるであろう「恋」だの「愛」だのといった感情を、こともあろうに人類の敵である魔物相手に抱いてしまったという現実を、今さらになって知ってしまったのです。
この時の絶望感といったらありませんでした。
だって、相手は恋愛感情が存在するのかすら不明な魔物。
それも、心も見た目も相当に醜いと言われるゴブリンです。
どう考えたって、未来があるわけがないじゃないですか。
よしんば彼が私に好意を抱いていたとして、さらにいつものゴブリンが無事に戻って来てくれたとして、私が領民を見捨て一人と一匹手に手を取り合って逃避行だなんて勝手なことできるワケもなく……。
いいえ、そもそも平時でだって魔物との交際を祝福する人間なんているはずがありません。
噂が立つだけでも、家名に傷がついてしまうことは明らか。
そうなれば、我が家の領地経営に対する信頼も加速度的に落ち込んで……。
「すごいな、あのゴブリンは」
「……え?」
その時、隣からあがった感嘆の声に、私は信じられない思いで顔を上げました。
それは兄の無神経な感想に対する憤りでもあり、未だ無事でいたらしいゴブリンに対する安堵の気持ちでもありました。
私の視線の先で、お兄様は遠見筒を左目前に構え村のある方角を見つめ続けています。
きっと彼が行動を起こした後、兄はずっとそうしていたのでしょう。
冷静すぎる態度からは、ゴブリンに対する思い入れの薄さが窺えます。
とても悔しいけれど、でも、それを責めることは私には出来ません。
だって、四六時中一緒だった私だって、彼がむやみやたらに人を害するような魔物じゃあないと納得するまでに数日を要したのですから。
さらに言うなら、ゴブリンに対する第一印象だって私と兄では大きな差があります。
最初の最初、私は一般的な魔物として彼を恐れたけれど、お兄様は妹を害した敵として彼を強く憎みました。
どちらの感情も覆すに容易ではありませんが、それでもその難度には隔たりがあるのだと私は思います。
「本当に、アレは他の魔物と同じようにおかしくなってしまったのだろうか。
それにしては、動きがかなり緻密で計算されすぎているように見えるが」
お兄様はともすれば聞き逃してしまいそうな声量で、独り言なのかこちらへの問いかけなのか判断のつきにくい呟きを溢しました。
「あの……でも、彼、あんな魔物じみた態度は今まで一度だって……」
「まともに戦う姿を見たのは、イエローオーガとのそれが最初で最後なのだろう?
真の強敵を相手に余裕が無くなった時、あのゴブリンがどうなるのか。
イヨルデは知らないじゃないか」
こちらをチラリとも見もせずに、お兄様が言い放ちます。
けれど、言われてみれば確かにそうだと頷ける部分もありました。
前に外に連れて行ってもらった時も、そして今回も、ゴブリンが苦戦するような相手どころか、戦っている姿すら私はろくに見たことがありません。
そういえば、時おり耳や鼻をピクつかせながら進行方向を微妙に変えていましたが、アレは進路のズレを修正していたのではなく、本当は戦闘を避けるためのものだったのでしょうか?
「あっ、じゃあ、お兄様、もしかして、ゴブさんは正気で……ただ、村にいる魔物たちを懸命に片づけてくれているだけだ、と?」
「可能性の話だ。
ゴブリンの考えなど私には分からないよ。
まぁ、何にせよ魔物が同士討ちで数を減らしてくれるのなら損のない話だろう」
「っな……そんな言い方って!」
「どう取り繕ったところで、あのゴブリンが魔物である事実は変わらないさ」
「でも!」
「イヨルデ。
アレが聞いていない今だから言うけれどね……。
どんな知恵を持っていようが、所詮ゴブリンはゴブリン、人間ではないんだ。
少々親切にされたからと、人間のような感情を見せたからと、勘違いをしてはいけない。
遠いどこかの地では、人に擬態し騙し惑わせ陥れるような小賢しい魔物もいるのだと聞く。
アレがそんな魔物と同じような性質を持っていないと、どうして言えるんだい?」
おそらくゴブリンへ向けてであろう侮蔑を含んだ視線と共に投げかけられた問いに、私はまるで天地がひっくり返ってしまったかのような衝撃を受けました。
「どうしてって……だって彼は……彼は……ッ!」
っあぁ、あぁ、なんてこと、なんてことでしょう。
思い入れが薄いどころの話じゃあありません。
聞こえてきた言葉に間違いがないのならば、お兄様はただただゴブリンの知能の高さを危険視し、その場しのぎに懐柔されたフリをしていたということです。
もはや私ごときが何をどう主張したところで、兄が認識を変えることは無いのでしょう。
けれど、それも考えてみれば当たり前のこと。
襲い来る魔物と幾度も戦闘を繰り返し、時に仲間の屍さえも踏み越えてひたすらに民を守り続けるお兄様が、世間知らずの箱入り娘である私の口添えがあった程度で、あのゴブリンの魔物とは思えぬ高度な知性を見せつけた程度で、あっさりと警戒を解いてしまうわけがないのです。
兄が本当に私を愛してくれているのなら、本当に領民の皆を守りたいと思っているのなら、なおさら……。
全くもって、その程度の事実にすら到れなかった自分自身の愚かさが恨めしくなります。
そうして感情が高ぶりすぎたせいか、己の意思に反して流れそうになる涙を堪えるため、しばらく片手で口元を押さえ俯いていると、そのうち兄は右腕を伸ばし私の体をそっと抱き寄せてから、小さく囁いてきました。
「……ごめん、酷いことを言っているね。
でも、どうか許して欲しい。
私はイヨルデのことが大事で、そして心配でたまらないんだ。
愛する妹を二度も失って正気でいられるほど、私の心は強くない。
兄として妹を信じてあげたい気持ちはあるけれど、さすがにその命とは天秤にかけられないよ」
優しく慰めるような声に、私は今度こそ自分自身の情けなさに涙を禁じ得ませんでした。
ただし、そんな風に私が悲劇ぶって嘆いている内にも、時間というものは容赦なく流れていきます。
十分……は、経っていないでしょうか。
私の気持ちもようやく落ち着こうかという段階に到った時、相変わらず村の観察を続けていた兄が思わずといった体で立ち上がりました。
「っ信じられない。
何なんだ、あのゴブリンは」
「ゴブさん……?」
「あれだけ大量にいた魔物を、たった一匹で全て片づけてしまった」
「ええっ!?」
「もしもだ。
もしも、あのゴブリンのように驚異的な力を持ちながら、見た目には判断の付きにくい魔物が増えているのだとしたら、これは非常に拙いことになるぞ。
あぁいや、そんな仮定の話よりも、村に魔物がいなくなったとなれば今が好機だな。
イヨルデ、少しここで待っていてくれ。
私はちょっと様子見に……」
「待って、お兄様! 私も連れていって!」
言って、唇の端を上げながら愛馬の手綱に手を伸ばしたお兄様へ、私は咄嗟にしがみつきました。
兄は困った顔を向けて、さながら幼子を諭すかの様な風情を醸し出しながら口を開きます。
「無理だよ。
村は魔物の死骸でいっぱいで、イヨルデに耐えられるような光景じゃあない。
それに、まだ本当に全ての魔物が死んでいるのかさえ分からない状況だろう。
わざわざ危険に身をさらす必要はない。
いいから、お前はここで大人しく待っていなさい」
昔はただただ盲目的に正しいものだと信頼しきっていた兄の言葉ですが、その行為が単なる怠惰であったのだと、私はここにきてようやく気が付きました。
あの陽気で綺麗好きで料理上手で優しくて真っ直ぐで、でも、緑の肌と醜い顔と異常な筋肉を持った珍妙なゴブリンと共にあって、ようやく気が付くことができたのです。
「お兄様。
お兄様が一緒に連れて行ってくれなくても、私は大人しくここで待っていたりしない。
一人でも村に向かうわ。
それでも良いなら置いていったらいい!」
相手がやんわりと私の手を離そうとして来たので、私は掴む力を強くしつつそう主張します。
こちらが一度言い出したら聞かない性格であることを知っているお兄様は、十数秒の逡巡のあと、酷く苦い顔をしながらも頷いてくれました。
「…………仕方ない」
どこから魔物が現れるか分からないこの状況では、気絶させて置いていくという手段も取れません。
お兄様の優しさすら利用した断わりようのない卑怯な手だとは理解していましたが、けれど、村の魔物との戦いで弱ったゴブリンを兄が殺してしまわないという保証もなかったのです。
だから、絶対に……絶対に置いて行かれてはいけないと、私は必死でした。
~~~~~~~~~~
「バッ……! イヨルデ!!」
辺り一面、紺や緑や黒の血液と肉塊の飛び散る村の中心。
そこに蹲るゴブリンの姿を見つけ、私は強い吐き気を我慢していたことも忘れて、無我夢中で彼の元へ走り寄りました。
私の変わり身の速さについていけなかったのか、兄が焦ったような叫びを上げながら一歩遅れてこちらへ駆け出します。
「ゴブさん! 大丈夫ですか、ゴブさん!!」
兄に追いつかれるより先に彼の前に辿り着いた私は、倒れ込むようにその場に膝をついて、荒い呼吸と共に上下する太ましい深緑の肩へと手を添えました。
血に塗れていて汚いだとか、戦闘直後で昂ぶっていたら危ないだとか、そういった当たり前の考えはこの時の私の頭から完全に抜け落ちてしまっていました。
「……ギ……ギギョ……グ……?」
「そうです!
イヨルデですよ、ゴブさん! しっかり!」
ゴブリンのゼヒュウゼヒュウと呼吸病を患う子供のような苦しげな息の狭間から私の名が零れます。
たったそれだけだというのに、自分の胸の内にどうしようもなく喜びが湧き上がるのを感じながら、私は俯いた彼の顔を覗き込みました。
「………………ゲグ……ギョ」
「え?」
何か伝えたいことがあるのか、ゴブリンは一瞬だけ乱れる視線をこちらへ向けた後、彼の右手側にある花壇だったであろう場所の枯草の密集地を顎を僅かに上げて睨みつけます。
「あそこに、何かあるんです……きゃあっ!」
ひとまず調べてみようと立ち上がったところで、唐突に腕を掴まれ強く後方へ引っ張られてしまいました。
「何を考えてるんだお前は!」
「お、お兄様……」
倒れそうになった先で兄の胸に抱きとめられ、直後、酷く剣幕な様子で叱りつけられてしまいます。
きちんとした安全確認も取れていない状況で、しかも、お兄様が信用していないゴブリンの元へ私が駆けてしまったため、気が気じゃなかったのでしょう。
「あの……心配をかけてしまって、ごめんなさい。
でも、お願い。
話はあとで必ず聞くから、今は先に調べたいことがあるの」
咄嗟にそう主張すると、兄は怪訝そうな表情を見せながらも続きを促して来ました。
私は、それに小さく安堵の息を吐きながらゴブリンに示された場所を指さします。
同時にゴブリンから教えてもらったのだと素直に口にすれば、疑うことを知らな過ぎるだとか、罠かもしれないだとか、短くですが注意されてしまいました。
私も負けじと無視は得策ではないとしつこく言い募ったのですが、こちらが折れるつもりはないと見て、最後はお兄様も調べることに同意してくれました。
ただし、主に調査をするのはお兄様で、私はただその背中にぴったりとくっついているだけ、という形になってはしまいましたが……。
そして、それから数十秒後。
兄はあっと驚きの声を上げ、顔を青褪めさせつつ枯草群から二歩、よろめくように後ずさりました。
「っまさか……キュウマ草!?
そんな! そんなバカなことが!!」
「なぁに、お兄様」
「……魔物を狂わせ誘き寄せる性質を持った植物だ。
キュウマ草は、魔物同士を殺し合わせて、そこから発生する瘴気を身に取り込む。
そして、その瘴気を使い更に高位の魔物を誘き寄せ……あとは繰り返しだな。
とにかく、人間にとって最低最悪の悪魔の植物だよ。
本来、こんな人里に生えるようなものじゃあないんだが……一体どうして」
どれだけショックを受けているのか、手で覆ったお兄様の口の中からカチカチと小さく歯の鳴る音が聞こえてきます。
「でもですよ、お兄様。
だったら、これを処分してしまえばもう魔物は……」
「いや、それはできない、できないんだ。
燃やせば凝縮された瘴気が一気に拡散され大地が穢れて不毛の地となってしまうし、一時的にとはいえ更なる魔物の脅威に襲われることになる。
しかも、今までのオーガやワイバーンなんか比じゃない、もっと高位のドラゴン級の魔物が現れたことすらあるらしい。
当然、我が領の所有する兵がいくら束になったところで敵う相手ではない。
また、刈るという方法は、根が残っていれば一両日中には再生するから意味がないと言える。
一応、根から引き抜いてしまうのが一般的な対処法と言われているが、毒性が非常に高く触れるだけで身が爛れてしまうということもあって扱いは困難を極める。
手袋を着用していても、水分を多く含むため完全な防水のものでもない限り透過して結局……だそうだ。
そして、キュウマ草は生命力が強く捨てた場所でまた再生してしまうため、下手なところに持っていくことも出来ない。
さらに、その凶悪な性質が失われるわけではないから、運搬は昼夜問わず多くの魔物に襲われ続けながら、ということになる。
少なくとも、それを実行できる兵力は現状皆無だ」
お兄様のあの態度は大げさでもなんでもない、むしろ、よく我慢した方なのだと、私はようやく理解しました。
額から流れ落ちる脂汗を無視し恐ろしさに震える喉をどうにかこうにか動かして、聞きたくもない結論を兄に尋ねます。
「じゃあ、お兄様、それってつまり……」
「例えモメヤケベス伯爵から私兵を借り受けたところで、もはや我が領の破滅は免れないということだ」
目を開けながらにして視界が闇に包まれるなどという体験は、生まれて初めてでした。