良い兄さんにつけられてヤっちゃった
そんなこんなで、お昼と夕方のちょうど中間辺りといった時間を迎えた頃。
ゴブリンにちょっとした変化が起こりました。
急に『アレ?』とでも言いたげな声を出して足を止め、こちらと進行方向へ何度か視線を行き来させたのです。
その表情に浮かんでいる感情は、困惑……でしょうか?
「あの、ゴブさん……この先に何か……ッきゃあああ!」
「ギョエエッ!?」
気になって声をかけた私に、ゴブリンが急に顔を寄せてフガフガにおいなんか嗅いでくるものですから、咄嗟に何度も彼の顔を叩いてしまいました。
ゴブリンは思わぬ攻撃にたまらず背を仰け反らせ、斧を手放した右腕で防御体勢に入ります。
この混乱状態から落ち着くまでに結構な時間を要してしまったのですが、その間、彼は私を離すことも反撃することも無くただただ困り顔で耐え続けていました。
その後、なんとか理性を取り戻し、今さらながら彼を攻撃してしまった気まずさと恥ずかしさから顔を背けていると、何やら不味い事をしたらしいと悟ったゴブリンが小さく私の名を呼んできます。
「ギ、ギギョグゲ……」
うう……。
いつも陽気ではつらつとしたゴブリンの今にも消え入りそうなしおらしい声に、グッと罪悪感が募ります。
「ギギョグゲ……」
うっ、また。
色々と規格外とはいえ、どちらかと言えば動物に近い本能の生き物であるとされる魔物が、年頃の女性の心理なんて到底理解できるはずも無いのです。
それを考えれば、私の行動は彼にとって理不尽極まりないもので、逆に怒られたっておかしくないくらいのもので……。
「ギギョグゲェ……」
「っ止めてぇー!
ゴブさんは悪くないです、ごめんなさい!
叩いちゃってごめんなさい!
だから、そんな泣きそうに呼んでこないで下さいぃ!」
ついに震えが入り出した彼の声に、たまらず振り返りそう叫んでいました。
ようやく私と視線の合ったゴブリンは、パッと子供のように無邪気で嬉しそうな笑顔を浮かべます。
すると、なぜでしょう。
それを目の当たりにした私は、胸のあたりを激しく強く掴み込まれたような、そんな不可思議な苦しさに襲われたのでした。
ゴブリンからの身振り手振りでの弁解によれば、『私と酷似するにおいを放つ何かがこの先にあって、さらに段々と近付いてきている』ということだったそうです。
なるほど、それならゴブリンの困惑についても、あのいきなりの行動についても理解できます。
まぁ、事前に理由が分かっていたとしても、反射的に手は出ていたと思いますが……。
さて、においについて思い当たる事といえば、オーガに襲われた日に馬車に置き去りにしてきた手荷物くらいでしょうか。
国法では悪い事とされていますが、誰のと知れない落し物を懐に入れる行為はいっそ黙認されているほど民の中で当たり前のものとなっています。
だからきっと、今回の件もそういうことなのだと思います。
こんな魔物の増加している状況でシンヤの森の近くを通るような不用心な人間がいるのかという疑問は湧きますが、所詮は貴族の箱入り娘でしかない私の想像ではこれが限界です。
ではゴブリンは……と言えば、すでに考えるのが面倒になったのか、何事も無かったかのように歩を進めています。
実際においの元と接触もしていない状況で足を止め思考に耽るのは、見方によっては時間の無駄とも言える気がするので、これもまたひとつの正解ということなのでしょう。
結局のところ、後悔なんてみんな後になってからするものなわけですし……ね……。えぇ。
~~~~~~~~~~
キンッと、ゴブリンが下から振り上げた斧が彼の顔面を狙いのびてきた長剣を弾き飛ばしました。
飛ばされた剣はその場から十歩ほど離れた茂みの中へと回転しながら落ちていきます。
「っく!」
横目で行方を確認した剣の主は悔しそうに顔を歪め、それでもなお身を引くことなく腰の短剣を手に取り構えました。
そして、放たれた矢のように速く鋭くゴブリンへと間合いをつめ、私の目に追えぬ動きで沈みかけの陽光を幾度と反射させています。
けれど、相手はあのイエローオーガさえ簡単に倒してしまう規格外甚だしいマッチョゴブリンです。
主な武器である長剣ですら歯が立たなかった現状、解体や採取でしか使わない短剣で彼を降すことが出来るとは到底考えられません。
それでも必死にゴブリンへと向かっていく男性へ、私は何度目かになる制止の言葉を投げかけました。
「っもう止めて下さい、お兄様!
そのゴブリンは私の命の恩人で、悪い魔物じゃあありません!」
そう、お兄様、お兄様です。
私に酷似したにおいの正体は、私の実の兄、ランズマイル・バグナーだったのです。
あの気まずい体験の後、半刻も経過した辺りだったでしょうか。
進行方向から一頭の馬が駆けてきました。
かなりの速度で地を蹴り進む栗毛の馬の、その背に跨っていたのがランズマイルお兄様でした。
再び家族と出会えた嬉しさから、私ははしたなくも大きく声を上げ両腕を振りながらその存在を主張します。
また、私の突然の行動に驚くゴブリンへと、喜色満面に血縁である旨を報告し、ついでにその場に降ろしてもらったのですが……。
当のお兄様はと言えば、距離を詰めるなり何事かを叫びながら愛用の剣を抜き、鬼のような形相を浮かべて問答無用でゴブリンへ襲いかかってきたのです。
驚きました。
だって、お兄様はいつだって温和で理知的でそれでいて武に優れた、私の自慢の兄だったのですから。
「……ッイヨルデ! すぐ助ける!!」
そして、もはや問答すらしていただけない兄の頑なな態度を前に、私は悔しさから唇を噛んでしまいます。
恐怖のあまり気が触れた、と思われているのです。
魔物に……ゴブリンのような性欲の強い種に捕まり襲われ続けた結果、正気を失ってしまう女性は確かに少なくありません。
だから、仕方の無いことといえばそうなのです。
私自身、人間のような知能や理性を持つ魔物の存在など欠片にも耳にしたことはないのですから。
特に、日々魔物と対峙しているお兄様が私の話を信じられないのも無理はありません。
けれど、それでも、私は悔しいのです。
私の言葉を他でもないお兄様に信じていただけないことが。
あのゴブリンの優しさを信じていただけないことが。
どうしようもなく悔しいのです。
悪い魔物じゃあない、なんて、滑稽なことを言っている自覚はあります。
彼の洞窟には明らかに人間から奪ったであろう物がいくつも転がっているのですから。
でも、だからって、彼のことを何も知らないまま決めつけるなんて、知ろうともしないまま決めてしまうなんて、そんなの……そんなのって、あんまりじゃあないですか。
だって、今だって彼は手加減してくれているんです。
私が再会を喜んだから、大切な家族だって言ったから、明らかに格下の相手から攻撃を受けているにも関わらず、彼は兄を傷つけないように手加減して戦ってくれているんです。
こんな……これで……悔しくならないなんて……嘘じゃないですか。
「ッギギョグゲ!?」
「ひゃっ!?」
い、いったいどうしたんでしょう。
ほんの一瞬前まで余裕を持って兄の剣を捌いていたゴブリンが、慌てたようにこちらに駆け寄って来ました。
ビックリして固まる私を心配そうに覗き込みながら、彼はそっと手をのばしその指を私の頬に添わせます。
「きゃっ、ちょ、なんですか、ゴブさ…………あ?」
間もなく離れていったゴブリンの指は、光る雫で濡れていました。
「えっ、わ、私……泣い、て?」
それを目にして、ようやく私は自分が涙を流していることに気が付いたのです。
……そして、その瞬間。
いつの間にかゴブリンの真後ろまで迫っていた兄が、私の身を案じ無防備な背をさらす彼の頭上へと、容赦なく短剣を振り下ろしました。
慈悲なき刃は時を置かずして彼の皮膚を切り裂き……。
ゴブリンの黒い血がゆっくり大地を染めゆく様を、私はただ呆然と見ている事しかできなかったのです。
~~~~~~~~~~
夕陽が完全に大地の向こう側へと隠れ落ち、魔物の活性化する夜がやってきます。
兄の熾した焚き木の揺れる炎に照らされながら、私はただひたすらゴブリンに謝り続けていました。
「っごめんなさい、ゴブさん、ごめんなさい、ごめんなさい……ッ!」
「イ……イヨルデ……私は」
彼の負傷を受け私が苛烈に取り乱せば、その姿にショックを受けたらしいお兄様はようやく冷静な思考を取り戻し始めたようでした。
「ッお兄様なんか最低よ!
あんなっ、あんな背後から襲うような卑怯な真似っ!
ゴブさんが一体何をしたっていうの!?
何度も命の恩人だって言ったのに!
ただ助けてくれただけなのに!
それなのにっ、こんな……ッ!」
私はお兄様が常備している包帯を強引に奪い取って、ゴブリンの出血部位に巻いていきます。
「その、イヨルデ……」
「言い訳なんか聞きたくないっ。
謝罪をするつもりがあるなら、私じゃあなくゴブさんにして」
取り付く島の無い私の態度に、兄は絶句しているようでした。
まぁ、一部からは恋人同士だってそんなにベタベタしていないと揶揄される程に仲の良い私達でしたから、初めて妹に冷たくされてショックを受けているのでしょう。
そんな落ち込む姿を見せられたところで、こちらは微塵も罪悪感など湧きませんけれど。
だって、お兄様が悪いんですから。むしろ、もっと反省していただいて良いくらいです。
「ギャーギャー、ギギョグゲ」
「なんです! ゴブさんは黙っていてくださいッ!
いえ、そもそも貴方が殺されかけたんですよ!?
なにを他人顔で仲裁に入ろうとなんかしているんですか!」
「ギョ……ギョゲー」
キッと睨みつければ、狼狽えたような反応を見せるゴブリンは包帯の巻き終わった手に視線を落として黙り込みました。
一方的に襲われていた彼が、どうして兄を庇おうとするのか全く理解できません。
相手がこの規格外のゴブリンでなければ、迫る短剣を振り向くことなく掴み止めるなんて神業を繰り出すことは不可能でした。
それだって、刃を直に掴んだことで怪我を負ったのですから、彼は怒っていいはずなのです。
「イヨルデ……あの、このゴブリンは本当に、その……」
私の言葉でしおらしくなったゴブリンを見て、お兄様が戸惑いがちに問いかけてきました。
でも、私はそんな兄の台詞を遮って、とあるお願いを口にします。
「そうだ、ゴブさん。お夕食はまだですか?
私そろそろお腹がすいてきました」
「ギャッ?」
「は?」
およそ今の空気に相応しくないことを言ったせいか、ゴブリンとお兄様の二人は揃って目を丸くしました。
驚かせてしまいましたが、私だって考えなしにいきなりこんな話をふったわけではありません。
「お兄様。見ていれば、そして、食べてみれば分かります。
少なくとも、彼にはただの魔物にはない高い知性が備わっていると。
ゴブさん。右手を負傷しているところ、大変申し訳ありませんが……そういうことですから、よろしくお願いしますね」
「ギャギャー!」
「夕食、って……い、イヨルデ?」
任せなさいとばかりに笑顔で胸を叩き、ゴブリンは早速しわがれた鼻歌を響かせながら道具袋を漁り始めました。
一方、お兄様は困惑した様子で私とゴブリンとに何度も視線を移動させています。
魔物の手料理などという不安しか煽られない語句に戸惑う気持ちは分かりますが、今日までの七日間、彼から供される物をひたすら口にし続けた私の判断に間違いはありません。
ふっふっふ、と勝利を確信した私が不敵に笑ってみせれば、どうしてかお兄様は恐ろしいものでも見たかのような表情を浮かべ二歩ほど後ずさったのでした。
……お兄様?