嫁さんが泣くから帰ろう
「っ……ぁ、あぁ、っうあああああああ!」
未だ混沌として纏まりきらない思考の中、それでも何とか彼の存在を認めた私は、およそ令嬢らしくもない大声を上げ、涙を滲ませながら駆け出しました。
そんな私を受け止めようと、優しく目を細めたゴブさんはその場に足を止め、おもむろに両腕を広げます。
彼のその行動に対して、私は走る速度を更に上げ手を広げて腕を伸ばし……。
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お兄様の愛馬に二人で揺られること五日間。
ここのところずっと働き詰めの馬と旅慣れない私に気を使ってか、かなりゆったりとしたペースではありましたが、ようやくシンヤの森の入り口へとたどり着くことが出来ました。
森の中は木々が密集して入り組んでいるし、小型とは言え魔物が出るので、貴重な移動手段である馬には大事を取って外で待っていてもらうことになります。
万一、盗人や魔物に襲われても自力で逃げられるように、どこかに繋いだりなどということもしません。
兄の愛馬は特に賢い子なので、放置されたからとそう遠くに行ってしまうことはないですし、五体無事なら馬笛を吹けばすぐに駆けつけてくれます。
ともあれ、森です。
基本的に洞窟に引きこもっていたので、二人で暮らしていた場所と言うには少し意識が違っていて、今この風景に感慨を覚える、といったことはありませんでした。
が……逆に、イエローオーガに襲われた際の恐怖心は少し残っていたようで、私の手が半ば無意識に兄の服の袖を掴んでしまいます。
それに気付いたお兄様が、こちらを窺うように視線を下ろしてきました。
「イヨルデ。怖いのなら、私一人に任せてもらっても良いんだよ。
何度も言うようだが、お前が無理をする必要は……」
「っや、ダメ! ダメです!
それじゃあ意味がありません!」
「…………そうか」
気遣いや心配から来る発言なのだろうことは理解できますが、その提案をどうしても受け入れたくなくて、私は少々強引に兄の言葉を遮り止めます。
常ならば小言のひとつでも貰いそうな場面なのに、幾度か物言いたげに唇を動かした後、兄はそのまま口を噤んだのでした。
おそらく今、こんなにも彼が妹に甘いのは、単に私がゴブさんにどんな気持ちを抱いていたのか、傍で見て知っているからなのでしょう。
要は、魔物相手に失恋などやらかした憐れな妹に深く同情しているのです。
そんな風に憐憫の眼差しを向けられることは本当はあまり好きではないのですが、分かっていて利用させてもらっている現状、憤りを覚えるなど筋違いも甚だしい感情は自重して然るべきだと思います。
「さぁ、行きましょう、お兄様。
種類だって、何だって良いんだもの。
きっとすぐに見つかるわ」
「……あぁ、そうだな。
森の中だ……花など、どこにでも咲いているさ」
笑顔でそう告げてみれば、兄は痛ましげに眉尻を下げながらも薄く微笑みを返してくれるのでした。
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森に入ってから少し時間が経ちました。
私が本当に十歩もしない内にみすぼらしい雑草の花を摘もうとすると、さすがにあんまりだと思ったのか、兄がもう少しマトモな花を探そうと言い出して、それでまだこんなところを歩いているのです。
来る前は、あれだけ危険だ何だと注意を繰り返していたのに、着いたら着いたでヤケに積極的になるんですね。
私的には、あの花冠でないのなら他にどんな種類だろうが、どんな見た目をしていようが、どれも同じ価値でしかないのですが……。
おかしな話です。
これじゃあ逆に、お兄様の方が感傷に浸りたいみたい。
周囲への警戒は兄がしてくれるので、私は早く彼の認めるまともな花とやらを探そうと、地面のあちこちに目を滑らせました。
けれど、その時です。
…………ゲ……。
ゴブさんがいなくなったあの日から頻繁に聞こえる幻聴が、ここでもまた私の耳を侵しました。
彼がいつものように私の名を呼ぶ、ただそれだけの幻聴……。
ゴブリン種特有の汚く濁った声で、それでも何故か優しく響くのは、果たして彼自身の内面が表層に現れたものなのでしょうか、はたまた私の一方的な願望が見せる虚構なのでしょうか。
…………ギョグ……。
あぁ、もう。
全く本当に、未練がましい……浅ましい女ですね。
もう彼はどこにもいないのだと、何度も何度も言い聞かせているのに、まだ、こんな。
……ギギョ……ゲ……。
……あれ?
でも、普段の幻聴と比べると異常に現実の声に近いような……それに何だか段々と大きく……。
「ギギョグゲー!」
「えっ」
「は?」
反射的に顔を上げれば、前方からとても見慣れた深緑の肌の筋肉質な魔物が、大きく両手を振りながら近付いて来ていました。
ひぃーーっ!!
「私、つっ、ついに幻覚まで!?
それもこんなにハッキリ見えるだなんて、いつの間にそんなにも精神が追いつめられて!」
「いや、イヨルデ違う、そうじゃない。
彼のことなら私も明確に知覚している。
この森にそういった作用のある植物や魔物は存在しないし、にわかには信じがたいが、おそらく現実だよ」
「っそんな!?」
だ、だって、確かにあの時ゴブさんは私の目の前で怪物にっ!
まだ路地裏の地面にコリドーだったものの染みだって残っているし、アレは絶対に夢や幻なんかじゃありえません!
一体全体、何がどうなっているんですか!?
「ギギョグゲー!」
「…………っ」
ああぁ、けれど、距離が狭まり姿が明確になってくれば、それこそゴブさん以外の何者にも見えません……。
だったら、じゃあ、やっぱり、兄の言うように、これは現実なのでしょうか?
でも、なぜ? どうして? どうやって?
混乱どころじゃない、混沌が頭の中を支配しています。
「ギギョグゲ!
ギョグギャーギャギョー!」
「ご、ゴブ……さん……?
あなた、本当に……ゴブさん?」
「ガギョー!」
見たことのない跳ねるような奇妙なステップで距離を詰めてくるゴブさんらしき魔物。
それでもまだ多少離れた場所にいるというのに、まるで呟き程度のごく小さな私の声を拾ったかのように、彼は首を大きく縦に振りながら肯定の意味だと思われる鳴き声を上げました。
ゴブさん……なんですか……?
「何……で……だって、瘴気……」
「ギャギョゲーゲッギョ!
グァンギーギョ、ギャギーギャ!」
って、あぁもう!
そんなギャーギャー鳴かれたって分かるわけないじゃないですかぁ!
「グゴギューギャー!」
だから、分からないですってば!
で、でも、でも、信じられないけれど、このとぼけた感じ、本当に?
あぁ、でも、そう。
そう考えればゴブさん、確かにゴブさんですっ。
こんな、やることなすこと意味不明のやたら人間臭い魔物が、彼の他にいるわけがありません。
本当に、ゴブさんが、彼が、帰って来た……帰って来たのです!
無意識の内に体が震え、胸が、心がドッと熱くなります。
「っ……ぁ、あぁ、っうあああああああ!」
未だ混沌として纏まりきらない思考の中、それでも何とか彼の存在を認めた私は、およそ令嬢らしくもない大声を上げ、涙を滲ませながら駆け出しました。
そんな私を受け止めようと、優しく目を細めたゴブさんはその場に足を止め、おもむろに両腕を広げます。
彼のその行動に対して、私は走る速度を更に上げ手を広げて腕を伸ばし……。
「ギギョグ……ギョエェーーーーーーッ!?」
「イヨルデぇえええええ!?」
思い切り振りかぶって、渾身の張り手をその緑の頬へと叩きつけてやりました。
乾いた音と各人の絶叫が森に広くコダマします。
「今までドコほっつき歩いてたんですか、このツガイ詐欺ゴブーーーッ!!」
それは、私の偽りなき本音でした。
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怒り心頭の私の命令を受けて、いくつも額に汗を流しながら無言で地面に這いつくばるゴブさん。
そして、そんな私たち二人をどこか怯えた目で見てくるお兄様。
心の中の冷静で常識的な部分がこの光景に酷く慄いていますが、とりあえず、我に返る前に言うべきことは言っておかなければなりません。
「ねぇ、お兄様?」
「っはい! 何でしょう!?」
……なぜ、丁寧語?
まぁ、別に構いませんけれど。
「私、人生最後のお願い、撤回しますね」
「は?
…………あぁ、なるほど。
彼が帰って来たから、もう森の花は必要ないと」
「そう……それでね、お兄様」
「はい」
「私、幸せになりたいの。
だから、また少しだけ協力してくださいな」
「幸……えっ、いや、あの、イヨルデ……さん?」
「協力、してくださるわよね、お兄様?」
「…………ハイ、ヨロコンデー!」
何だか発音がおかしかったような気もするけれど、とりあえず約束は約束です。
言質は取りました。二言はなしです。
と、いうことで、この後、一度危険な森から離れ、落ち着いた場所で私は兄と長い長い話し合いを行いました。
その結果、私は実に一ヶ月以上ぶりに領主館へと戻り、愛する両親と再会を果たすこととなったのです。
ゴブさんと二人、正体を隠して実家の門をくぐり、兄の方から人払いを頼んで貰って使用人たちを遠ざけ、そこでようやくお父様とお母様に生存の報告を行いました。
と、同時にゴブさんを紹介し婚約の意思があることを告げました。
お父様が魔物である彼を即座に切り殺そうとして来るなど、冷や汗をかくような展開もありましたが、最終的に兄の援護も交えた私の熱弁が功を奏し、ゴブさんとの結婚を渋々ながら認めていだだけることになったのです。
事前に鳴き声を出さないようにだとか、大人しくしているようにだとか、彼に言い聞かせておいたのも良かったのでしょう。
黙っていれば、顔を見せなければ、彼は一般的な三級市民と呼ばれる人間たちよりも紳士的な態度を取ることが出来ます。
そんなこんなで、ちょうど死んだ者として扱われている身ですし、そのまま多少の荷物を携えて踵を返し、私はあっさりゴブさんとの洞窟生活に戻りました。
さすがに女ですから、生活の全てを自然物で補うことは難しくもあり、折々に兄から物資の提供を受け事なきを得ました。
生活に必要な作業のほとんどをゴブさんが一人で行っていましたが、それでも全く苦労がなかったかと言えば嘘になります。
けれど、彼と過ごした日々のどこに焦点を当てたとしても、私の人生は幸せなものであったと、そう断言することができます。
そしてそれは、死に至るまで変わることはないのでしょう。
後に風の噂で聞いた話ですが、モメヤケベス伯爵は内部告発によって、これまで重ねてきた多くの悪事を暴かれ、いつかの日に処刑されてしまったのだそうです。
私はゴブさんのお蔭でこうして寸でのところで無事を確保することができましたが、彼に騙され囚われ傷ついてきた女性の数はけして少なくありませんでした。
中にはすでに亡くなっていた方もいれば、助け出された後に自ら命を絶った方もいたそうです。
死後の世界が実在するのかどうかは定かではありませんが、私は彼女たちの魂の幸福を祈ってやみません。
遠い遠い遥か未来。
私たち二人の子孫が新たな人種として、深緑の肌を持つ賢く穏やかなゴブ人として広く世界に進出し認められるようになるのですが……それはまた全く別のお話。