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憤怒は続くよどこまでも



 心の中でどれだけ求めようとも、前方に立つゴブリンは何も言ってはくれません。

 当たり前です。

 少しでも声を出してしまえば、たちまち彼が人間ではないことが露見してしまいます。

 ほんの一鳴きで暴かれてしまうほど、彼のソレは人の耳に醜く響いてしまうのです。

 特に今は緊迫した状況にあります。

 魔物とはいえ、賢いゴブリンが自ら場を混乱に陥れるような真似はしないでしょう。

 意識的にコリドーを視界から外し彼を見つめ思考することで、ほんの少しばかりでも私の心に理性が戻ってきます。


「その箱の中身がキュウマ草などと、虚言ではないのか。

 凶悪な魔物が集えば、貴様にも当然危険は及ぶはずだろう」


 兄がコリドーを睨みつけながら、唸るように自身の推測を述べました。

 確かに言っていることはもっともですが、しかしそれは希望的観測に過ぎないと思います。

 彼は今までにいくつものキュウマ草を扱い、その上でこうして無事に生き残っているのですから、魔物に襲われないような、何か私たちが知らない特別な手段を持っていると考えるのが自然です。

 おそらく、お兄様も承知の上で無駄な足掻きをしているのでしょう。


「くっく……本当にそう思うのなら、私の脅しなど無視して動いてみれば良いでしょう?」


 コリドーが馬鹿にしたような笑いを交えて、こちらを挑発して来ました。

 イライラさせられますが、もちろん、それに乗ることは出来ません。

 私も、兄も、彼の言葉が真実であると確信しているのですから。


 しん、と場は静まり返り、しばし膠着状態に陥ってしまいます。

 お互いの……殺気とでもいうのでしょうか。

 そんな肌に沁みるような空気だけがどんどんと膨らんで密度を増し、弾ける時を今か今かと待っているように感じました。

 きっと現実の経過時間は私の体感と比べてとても短いのでしょう。

 額にジワジワと脂汗が浮かび流れ出した時、しかし、その緊迫を唐突に破壊する者が現れます。


 ゴブリンです。


 彼は厚い皮手袋ごしにほんの一瞬だけ私に触れたと思ったら、次いでコリドーの元へと矢のように飛び出して行きました。


「っゴブさん!」


 思わず声が出ます。

 ゴブリンとコリドーの間には、少しばかり距離がありました。


「馬鹿めがっ」


 だから、彼が辿り着くよりも早く、コリドーは宣言通りに箱のフタを開け放ってしまったのです。

 この結果をあのゴブリンが予想できないはずもないのに、一体なぜ……?

 疑問の答えを導く間もなく、邪悪で禍々しい漆黒の瘴気が銀の箱からブワリと溢れ出します。

 通常、瘴気は目に見えるものでも感じられるものでもないはずなのに、その狂気はただの人間の私にもはっきりと知覚することが出来ました。

 コリドーの言う凝縮とやらをどれだけ重ねれば、このようなことが現実に起こり得るというのでしょう。

 あまりにも常軌を逸した光景を前に、まるで夢や幻でも見ているようだと場違いにも考えてしまいました。


 あぁ、でも、本当にそうであったのなら、どれほど良かったか。


 けれど、広がる闇色の恐怖に慄いてしまった脆弱な私と違い、ゴブリンは怯まず前進を続け、その勢いのまま例の緑の液の入った小さな壺を銀の箱の中へと叩きつけました。

 ガシャンッという破砕の音と共に天にも届く勢いで噴出する白い煙。


「やったか!?」


 兄が期待に叫びます。

 初めてその光景を目の当たりにしたらしいコリドーは、驚きの色に染まった顔から酷く狼狽した声を発しました。


「なぁっ!?」


 反射的に手を引き箱を地面へと落とせば、彼は未知の現象を恐れるように煙から数歩ほど後ずさります。

 その隙を逃すまいとしたお兄様が、凛々しくも剣を抜き駆け出したのですが……。

 意外や意外、コリドーは素早く懐から取り出した二本の短剣を両手に構えて、迫る兄の剣を容易く防いでしまいました。

 交わらせた刃と刃からギリギリと音を散らしつつ、怒りの形相を浮かべたコリドーが息を吐き出します。


「貴様ら、一体アレに何をした」


 地を這うような声でした。

 お兄様は問いに答えず、無言で剣を振り続けます。

 その態度にコリドーはさらに顔面に皺を増やしながら、それでも迫りくる攻撃を完璧に捌ききっていました。


 と言うか、何で?

 何で研究者のコリドーがそんなに強いんですか?

 ずるいです、卑怯です、反則です、許せません。


 そして、どうにも兄が不利に見えて仕方のなかった私は、助けを求めるようにゴブリンの方へと視線を移動させました。

 しかし、そこで私はもっともっと危機的な事実を目の当たりにしてしまったのです。


「っ……瘴気が!?」


 言って、ショックで思わず口を手で覆ってしまいます。

 私の見ている前で白かった煙がどんどんと薄くなり、再びあの黒の瘴気が産まれ始めていたのです。 


 おそらくですが、液が……緑の液の量が圧倒的に足りなかったのでしょう。

 これまでにも散々使ってきていたし、元々少ないからと言われていたのです。

 深淵の混沌を相手に浄化が追い付かずとも、何も不思議ではありませんでした。


 あぁ、けれど、終わりです。

 これで、全ては終わってしまいました。

 もう、誰にも、何にも、どうすることもできません。

 唯一の救いの手段は失われてしまったのです。


 そんな風に私の思考が絶望一色に染まりかけた時、ゴブリンが動きました。

 まず彼は無造作に捨て置かれていた箱のフタを拾い、これ以上瘴気が漏れ出さないよう再び封を施そうと試みます。

 ですが、それは叶わなかったようです。

 あのコリドーが放り出したからには、開かれたフタは二度と役目を果たさないような作りになっていたのでしょう。

 諦めてそれを手放したゴブリンは、魔物であることを隠すために巻いていた口元の布を破り捨て、瘴気溢れる箱の内部へと己が手を突っ込みました。


 直後、キュウマ草の猛毒がゴブリンを襲います。


 私は咄嗟に耳を塞ぐべきか鼻を塞ぐべきか、それとも口を塞ぐべきか目を塞ぐべきか迷いました。

 従来の物よりも毒性は強化されているようで、装備していた皮手袋は一秒と経たず溶け落ち、肉が焼けるような音と共に、彼の手はみるみる爛れていってしまいます。

 結局、私はただ呆然と見ていることしかできませんでした。

 それから、ゴブリンは手であった物体が完全に失われてしまうよりも早く、掴み込んだキュウマ草を口元へと運び、その拳ごと牙で噛みちぎって飲み込みました。


「……えっ」


 ゴブリンがのたうち回っています。

 身体を激しく痙攣させながら、絶叫しながら、穴と言う穴から血を垂れ流しながら、ゴブリンがこれ以上ないほど苦しそうにのたうち回っています。


 急速に全ての現実感が薄れていきました。

 まるで私の周囲を透明の厚い膜のようなものが覆ってしまったかのような、そんな感覚でした。


「…………ゴブ……さん?」


 あぁ……突然の出来事に気を取られてしまったのか、お兄様がコリドーの打撃により倒れてしまいました。

 切られたわけではないので、死んでしまってはいないでしょう。

 そのコリドーも、意識を失った兄を無視して叫びを頼りに首を回します。

 地を転げまわるゴブリンの姿を確認した彼は、なぜか驚いたように目を見開き、次いで、どこか楽し気に言を紡ぎました。


「おやおやおや! 君君君君ぃぃいいい!

 もしや、君は移植実験体の二〇九号じゃあないかね!」


 …………いしょく?

 またコリドーが私に分からない言葉を使い始めます。


「あぁ、あぁ、返事はいらない。

 私は有象無象と違って記憶力が良いんだ。

 脱走の責任を問われた同僚は、確か君を始末したと言っていたはずだが……ふむ。

 あれは自分可愛さに吐いた嘘の報告だったわけだねぇ」


 おかしな人です。

 今のゴブリンに返事なんかできるはずもないのに、どうして平気で話しかけることができるのでしょう。

 でも、私にはそれよりも気になることがありました。


「……彼は帝国の魔物だったのですか?」

「ん? おや、そちら女性の方でしたか」


 疑問を投げかければ、彼は顔だけをこちらに向けて反応を返してきます。

 口を布で覆っていたおかげか、声から正体が露見することはありませんでした。

 まぁ、片手で足りる程度にしか会ったことはないし、彼が私に関心など持っているはずもないので、こんなものでしょう。


「どうして貴方が二〇九号と行動を共にしていたのか非常に興味深いところですが、まずは質問にお答えしましょう。

 ……その通り。

 コレは帝国が作り出した魔物です」

「作り出した」

「えぇ、そうですとも。

 兵器開発部では、多様な生物の優れた部品を持ち寄り最強の合成魔物兵器を生み出せないかという実験なども行っておりましてね」


 コリドーは、数分前にキュウマ草の説明を始めた時と同じように自慢げに語り出しました。

 おそらく、毒草も魔物も彼の中では等しく実験材料であり、そこに区別はないのでしょう。

 帝国の研究者というのは、こんな人道に悖る感覚の持ち主ばかりなのでしょうか。

 我が国が関わることのないような遥か遠い場所に存在しているという事実だけが、ある種の救いです。


「大量に素材を消費する割に成果は思わしくなく、比べてあまりに金を喰いすぎるということで、ほどなくして中止を言い渡されてしまったんですが……。

 コレはその実験の中で生み出された憐れな失敗作の一つですよ」


 そう言って、コリドーは口元に嘲るような笑みを浮かべ、全身に血管を浮き上がらせ皮膚が膨張し出した瀕死状態のゴブリンをいかにも冷たい目で見下ろしました。

 チリ、と胸に焦げるような痛みが走ります。


「ちなみにゴブリンの外皮を被せてはいますが、当然中身は全くの別物です」

「…………ゴブ……リンじゃ、ない?」


 この人の言語はいちいち難しすぎて、私の頭では中々理解が追い付きません。

 大事な、大事な話なのに。

 何より大事な、ゴブさんの話なのに。

 それでも、何となくでも、分かったことは沢山ありました。

 そして、そのほとんどが知りたくもない、知らなくても良い事実であるように思いました。

 だと言うのに、コリドーはまだペラペラと口を動かし続けています。


「そうですよ。

 海竜の心臓、マグマ鳥の血液、竹林猿王の筋肉、山脈亀の骨、ギガースクイーンの眼球、ダイアモンドタイガーの神経、その他数えきれないほどの貴重な素材を使いながら、出来上がったのはそのどれにも劣る脆弱な魔物。

 生き残っただけで成功だなどと言う輩もおりましたけどね、こんなのはどう見たって失敗ですよ。

 やはり、凡人の脳など使ったのが間違いでした」

「……凡…………じん?」


 どれだけ考えたくなかったのでしょう。

 私の頭は、その単語を意味のある語句に変換することをしてくれませんでした。

 けれど、すぐに目の前の男から無意識に投げ出したはずの聞きたくもない答えを突き付けられてしまいます。


「えぇ、少々珍しい顔立ちの黒髪の青年だったんですけどね。

 いやいや、私は反対したんですよ。

 そんな適当に拾ってきた雑種ではなく、もっと高等な教育の施された高貴な者の脳を使うべきだと。

 その結果がコレだというのだから、全く愚かな連中だ。

 成功を求めるのなら妥協などすべきではないと言うのに」


 私には全く意味不明の愚痴を垂れるコリドーにゾッとしました。

 研究の名の前に、帝国の人間は同じ人間すら区別することは無かったようです。


 道理でゴブリン……いえ、ゴブリンではありませんでしたね。

 彼のあのどこまでも人間臭い仕草は、反応は、思考は、いわば当たり前のことでした。

 だって、彼の一部は私たちと同じ人間で出来ているのですから。

 今まで抱いていた疑問の何もかもに納得がいったような気がします。

 共に暮らす中で動物的な部分も多く見受けられはしましたが、それはこの狂人の言う他の部品の影響であったり、無理な実験を行った代償だったりということになるのでしょう。


 ……だとしたら、ゴブさん、ねぇ、ゴブさん。

 貴方は一体どんな気持ちで私を助け、どんな気持ちで私と暮らし、どんな気持ちで私をツガイと呼んだのですか。


 その疑問は果てしなすぎて答えなんか分かりようもなかったけれど、なぜだか涙が出そうになりました。

 そうして俯き加減に黙り込んでいると、ひと通り愚痴も吐き終わって落ち着いたのか、これまでほとんど一方的に話すばかりだったコリドーが私に意識を向けて来ました。


「さて、今度はこちらの質問に答えていただきましょうか」


 あぁ、きっと最初に言っていたゴブさんと一緒にいる理由を聞きたいのでしょう。

 バカですね。

 そんなこと、私が知っているわけもないのに。


「まず、貴方はどこで失敗作を……」

「グルァアアアァアアァァアアァァァアアァアアアアアアッッ!!!!」


 彼の言葉は、突然の咆哮にかき消されました。

 現実を直視したくなくて、無理に視界から外していたのが悪かったのでしょうか。

 気が付けば、ゴブさんが転がっていたはずの場所に、全身闇色をした不気味で巨大な化け物が立っていました。

 まるで、あの汚泥にも似た黒の瘴気をそのまま具現化したような、とにかく狂気的で圧倒的でどこまでも歪な禍々しくも恐ろしい怪物でした。



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