ある日森の中嫁さんを拾った
あぁ。どうして、こんな悲劇が起こってしまったのでしょう。
私ことイヨルデ・バグナーは、このたび異様に筋肉のついたマッチョなゴブリンに連れ攫われてしまいました。
事の起こりは、そう、実家から馬車で十日ほど揺られた先の他領地へと、お抱えの騎士らと共に旅をしていたところ。その道中に、イエローオーガという凶悪な魔物と遭遇してしまったことから始まります。
通常のグリーンオーガ一体でさえ敵わないかもしれないのに、その上位種である魔物が三体も出現したというのですから、とにかく絶望的な状況です。
最初に馬と御者がやられてしまった事実もあり、逃げるという選択肢すらも失った私達は、ただただ迫りくる死に脅えることしか出来ませんでした。
騎士である彼らが勇敢にもその身を賭して庇ってくれたおかげで一人その場から走り出すことには成功したのですが、あまりの恐怖からパニックに陥っていた私は、自らイエローオーガたちの庭であるシンヤの森に歩を進めてしまったのです。
今考えれば、全く愚かとしか言いようがありません。
無論ですが、私はすぐにオーガたちに追いつかれてしまいました。
入り組む森の中。迫り来る足音と気配についつい背後を振り返ってしまった瞬間、オーガの大きな拳が視界いっぱいに広がって……同時に『あぁ、死ぬ』と、頭ではなく心で理解したのです。
その時でした。
今にも私を屠ろうとしていたオーガの上半身部分が、まるで始めから存在していなかったかのように忽然と消え去ってしまったではありませんか。
意味が……分かりませんでした。
下半身がグラリと傾き大きな音と土煙を立てながら倒れた後も、私はただ呆然と立ち尽くしていたのです。
さらに、私の目の前で同じように驚き固まっていた残り二体のイエローオーガに、深緑色の小さな何かが迫ります。
それが一体なんなのか。正体が分かったのは、三体のオーガ全てが物言わぬ骸となった後でした。
少しの間を置き、自らの身体よりも一回りは大きな槌を軽々手に持つソレが振り返ります。
私の胸元程までしかない低い背、全身深緑色をした体と尖った耳、爬虫類じみた大きな眼球に、皺だらけの容姿を携えた醜悪な魔物……ゴブリンでした。
ゴブリンといえば、脅威はその異常なまでの繁殖力くらいで、一対一で武器さえあるのなら女性にだって倒せるというくらい本当に弱小の魔物なのです。
一般的なものよりやたらと筋肉がついているとはいえ、どこからどうみてもただのゴブリンであるその魔物が、どうして何十倍も強いとされるイエローオーガを倒せるのでしょうか。
未知とは恐怖です。私は目の前のゴブリンをオーガ以上に恐れました。
こちらを見て小躍りしながら近付いて来るゴブリンに、喉の奥から引き攣った音が漏れます。
いっそ、ここで気絶でもしていたのなら、もしかして、少しは楽だったのかもしれません。
現在は、そのゴブリンの肩に担がれ、意外なほど軽快な動きで何処かへと運ばれているところです。
きっと、集落に連れて行かれ何匹もの雄ゴブリンに囲まれて、死ぬまで女としての辱めを受けることになるのでしょう。
あぁ、まだろくに恋だってしたこともないのに……。
こんな状況に陥るくらいならば、素直にオーガに殺されていた方が幾分マシだったのではないかと思ってしまいます。
せめてもの抵抗として無茶苦茶に暴れてやろうとも考えたのですが、縦横無尽に飛んだり跳ねたりといった移動法を使われるおかげで、身体と脳がそれどころではありませんでした。
そうして、体感にして三十分は経った頃でしょうか。
お腹の痛みやら吐き気やらが限界に近まり泣きそうになっていると、ゴブリンはついに住処に……大きな滝の裏にある隠された洞窟に入っていきました。
しかも、地面から続く場所ではなく、鹿のようにほぼ垂直の崖を軽快に跳び上った滝中腹辺りの、です。
これでは自力で脱出することはおろか、誰かが助けに来てくれる可能性もほぼ皆無と言えるでしょう。
先程とは違う意味で泣きそうになってしまいましたが……不幸中の幸いか、彼(?)は単独で生活しているようでした。
何らかの理由で群れから追い出された、はぐれゴブリンなのかもしれません。
絶望的な状況に変わりはありませんが、複数より少しはマシというものです。
私を肩に担いだ状態で、ゴブリンはギョーだのギャーだの鳴きながら予想外に深い洞窟内を暢気に案内していきます。
おそらく人間から奪ったのであろう光石をそこかしこに配置しているようで、視界は良好。
アリの巣のように用途別に分けられた穴の中には、動物の毛皮が大量に敷いてある寝室に、自作らしき干し肉や集めたのであろう山菜・果物が整頓された状態で置かれている食糧庫、普段は大岩で塞いであるらしい武器や道具などの保管庫、果ては天井部から小さな滝が流れ落ちる目的毎にいくつかの水路で分けられた水場などもあり、ともすれば辺境の村々よりも快適そうな住処に思えました。
普段、彼は唯一の出入り口から直近で繋がる最も広い空間にいるようで、その右側には、いかにも柔らかそうな干し草を敷き詰めた場所があります。
一通り説明の終わったらしきゴブリンは、その草の上にコロリと私を転がしたあと、自分は一匹、ご機嫌で保管庫へと向かいました。
無用心にも拘束などはされませんでした。
獲物の私が滝に身を投げる可能性や、背後から襲いかかる可能性について、全く考慮していないのでしょうか。
それとも、そんな真似は非力な女にはできやしないだろうと、高を括られているのでしょうか。
いえ、やはりゴブリンのやることですし、そこまで考えが及ばないだけかもしれません。
なんだかもう、色々なことが意外なんて言葉じゃ片づけられないほど意外すぎて、恐怖心がすっかりどこかへ抜け落ちてしまったのですが……。
いちいち驚きの声を上げる私に、やたらゴブリンが得意顔を見せてくるせいも多分にあったかと思います。
もしかすると、彼は自分で作ったこの洞窟をずっと誰かに自慢したかったのかもしれません。
……どうしてどうして、人間臭いゴブリンです。
そのせいで彼を血に飢えた狂った魔物として、憎い敵として認識しきれないので困ります。
まぁ、まだ実際に何かされたわけでもないので、現実感がないだけかもしれません。
明らかに人間から奪ったであろう物がいくつもまぎれているのだから、ここで油断しちゃあいけないのは分かっているんですけれども。
家族にも大概のんきだ何だと言われてきた私ですが、自分でもここまでとは思いませんでした。
いけませんね、こんなことじゃあ。
陽が落ちると、ゴブリンは水場で己の身を清めてから、広場の隅の台所のような場所で料理らしきことを始めました。
砥石を持っているらしく、しっかりと手入れされたナイフで狩ってきた兎肉を捌き柄で叩いた後、臭味取りとして使われている草やどこから入手したのか岩塩少々を擦り込んで削られた木の枝に串刺し、予め火を入れてあった石窯で焼いていきます。
というか、手慣れ過ぎでしょう。
一連の動作が野営に慣れた騎士たちよりも鮮やかなんですけれど……。
もう少しで焼き上がりといったところで、ゴブリンは明らかに熟していない状態のとてもではないけれど酸っぱくて食べられたものではないレオルの実のしぼり汁をかけました。
最後の一手間のせいで色々と台無しだと思ったそれは、意外ですがしつこくなりがちな肉の味をさっぱりとさせ、とても美味しかったです。
驚きで思わずその事実を口にすれば、ギャッギャとご機嫌な様子になったゴブリンは二本目の串を差し出してきました。
もう、本当になんなのでしょう……このゴブリン。
規格外にもほどがあります。
うぅん、素直に美味しい。食べる口が止まりません。
そして、そんな食事から数時間後。
彼から強く腕を引かれ、寝室へと連れ込まれた時は、さすがに怖くてふるえが止まりませんでした。
色々とおかしいこの魔物のことだから、もしかしたら女としての辱めも受けずに済むかも……なんていうささやかな希望も虚しく、明らかにそういった方向の目的で想像以上に柔らかな毛皮の上にグイと押し倒されます。
フカフカでサラサラでモフモフのソレにうつぶせて感触を堪能したいところですが、今はとてもそんな場合じゃあありません。
すぐさま私の両腕を頭上で拘束し、身体の上にのしかかって服を脱がそうとして来るゴブリン。
魔物に攫われた以上この流れが当然なのだとは分かっていましたが、未だ経験もありませんし、やはり怖いものは怖い。
でも、それで必死にイヤだ止めてと身を捩り泣き喚いていると、彼は数秒間その動きを止め私の顔を眺めた後、明らかに落ち込んだ表情を浮かばせてからゆっくりと離れていきました。
理解が追い付かずに、私は呆然と視線だけをゴブリンに向けます。
すると、彼は寝室の端っこ、私から一番遠い場所で背を向けて横になり、赤子のように丸まりました。
しばらく眺めていましたが、そこから動く様子はありません。
えぇ?
え……えっと……私が嫌だって言ったから、本当に止めてくれた……のでしょうか。
えっ、でも、魔物の中でも群を抜いて強い性欲を持つと言われるあのゴブリンが?
本当に?
イエローオーガを殺して奪った戦利品でしかない私の、たまたま手に入れただけである獲物の、その顔色を窺って魔物が自分の意思を変える……なんて、有り得るんですか?
でもでも、状況からはそうとしか考えられません。
分かりません、私には。私には何も分かりません。
見つめ続ける彼の後姿は何やらひどく哀愁を帯びていて、先ほどのしょんぼりした表情と合わせてちょっとだけ可哀想にも思えてき……って、なんで!
なんで私が悪いことをしてしまったような気持ちにさせられないといけないんですかっ!
襲ってきた側のくせに、勝手に傷つかないでくださいっ!
そりゃ、ゴブリン界じゃどうか知りませんけど、人間の世界では女性に無理やり手を出すなんて明らかにイケナイことですからねっ?
もう!
そんなこんなで無性に腹が立ったせいか、またも私はゴブリンに抱いた恐怖をスポンと忘れ、しっかり熟睡までしてしまったのでした。
毛皮布団、気持ちよかったです。
ちなみに、これはずうっと後になってから聞いた話なのですが、ゴブリンの雄は同族の番を得ようとした時、気に入った雌を自作の巣穴に招き、そこで食物を差し出して無事に全て平らげて貰ったら、子作り交渉成立……などという習性があったようです。
当時、許可を出したはずの相手から本気で拒まれて、彼はとても混乱したでしょうね。
でも、だって、し、知るわけがないじゃないですか、仮にも男爵令嬢の私が、まさかそんな、魔物の習性だなんて。
あ、一般的な貴族子女はゴブリンに出された食べ物を、しかも攫われた初日に平気で完食しないだろう、なんて、野暮なことはおっしゃらないで下さいね。
あんなお肉を渡されたら、きっと誰だって……いや、いえ、何でもありません。
私だって、怒涛の展開に混乱し通しだったのですから、少しくらいおかしな行動があっても仕方がなかったのです。えぇ。