<七>不倫
<七>不倫
都内の地下鉄の出入り口で華子は相談者の男を待っていた。地下鉄の地上出口というのは駅と出口番号を指定すればよく、二つと同じ場所がないので最も間違えにくい待ち合わせ場所だ。しかもターミナル駅でなければ、朝夕の通勤時間帯を外せば同じ時間に通過する人は少なく、目印を伝えた相手を見つけるのにさほど苦労しない。
華子は伝えた通りの紺色のワンピース姿で、さらに伝えた通りに腕時計を外し手に持って男を待った。指定した午後八時の五分前、階下から上がってきた男性がすぐに華子の姿を確認し声を掛けた。普通は逆に、調査員の方が相談者の特徴や目印を探し相手の様子を注意深く観察し、安全を確かめてから声を掛けるというのが一般的である。相手がどんな目的を持った者かわからないので念のための行動だ。このことは探偵のイロハでもあったが、華子はそんなことも教えられていないのでその逆をやってしまっていた。しかし、幸い相手の相談者はまともな普通のサラリーマンだったようだ。
「相談した者です」
五十台半ばくらいで半分白髪の紳士的な男性だ。大企業の部課長クラスの匂いがする。
「はじめまして。私、有栖川乱歩探偵事務所の峰不二子です」
「えっ? みっ、峰不二子、さんですか?」
「そうです。何か……どなたかお知り合いで同名の方でも?」
「あっ、いえ、知り合いではないのですが……。知ってると言えば知ってるというかぁ……。いえ、何でもありません」
「では裏の駐車場に車を停めてありますのでその中でお話を伺いましょう」
「あっ、はい」
◆◇◆
男性は捜している彼女と約半年前に出会い系のサイトを通じて知り合ったという。サイトには普通の出会いとエッチ系の出会いが区分けされていて、彼女との出会いはエッチ系だったらしい。二人は毎週のように会ってその度にホテルに通い、男性はお小遣いを渡していたという。彼女の方は小さな子供が一人いるらしいが父親は居ないという。但しそれも話だけのことなので何らの確証もない。一方、相談者である男性には無論、妻子が有る。二人は完璧な『不倫関係』である。
華子は出会い系の事はからきし無知であったが、内容は単純なのでここまでの説明はわかった。しかしそのあとの話の展開がよくわからない。彼女には若い彼氏が居て、その彼が暴力団に監禁されてしまい、開放するのに金が必要になったので金を貸して欲しいと言われ、男性は八十五万円の金を彼女に貸した、という。男性は果たして彼女に何を求めていたのか。もしも彼女を愛しているのなら、彼女の愛している彼氏の為に金を貸すというのはどうにも合点がいかない。単なる遊びであったなら、殆ど素性のわからない女にそれだけの大金を渡すことがあるのだろうか。男性は品のいい金持ち風ではあったが、中堅企業の課長職と言っていて、その収入も四人家族の生活費や子供の養育費を考えると決して余裕があるほどではない。資産家でもなく、自宅は三十五年のローンを組んで郊外に購入した普通のマンションのようだ。
運転席にいる華子に対し、後部座席から男性は話を続けた。
「借用書は私が作り、月三万五千円ずつ返済を受けることにしました。無利子で二年間の返済です。彼女は住所と氏名を書いて承諾しました。返済はしてもらわないと困りますが、借用書の意味は彼女の住所と本名を知りたかった事もあります。これがその時の借用書です」
返済計画が印字されている下に貸主借主双方の自署があった。彼女の方だけ住所欄がありそこには記載があった。末尾が八〇三となっているのでアパートかマンションの八階である。車のカーナビを使って場所を調べると、JR品川駅のすぐ近くの一等地だ。
「あの。住所を知りたかったって、そもそも書いた内容が正しいかどうか確認もせずにお金を渡してしまったんですか?」
「彼女は嘘をつく様ないい加減な性格ではないのです。半年間付き合いましたからわかります」
「そういう問題じゃなくて……。そんなに信用していた彼女を『捜してくれ』とは、話がうまく噛み合いませんね」
「金を貸してからも彼女とは二回会っています。その二回目に第一回の返済が有りました。彼女には返済の意志は有るのです」
「あのですね。そもそも返済の意志がないからあなたとの連絡を断った訳でしょ?」
男性は必死で否定した。
「いいや。そうじゃない。何か特別な事情が有ったんだと思います。彼女が危険な目にあっているとか。きっとそうだ。そうに違いないんです」
――だめだこりゃ。騙されたかも知れないという認識すらないよ、この人。
華子はきっぱりと言った。
「お金は戻ってこないでしょう。万々が一、その時書いたこの住所が本当のものだったとしても、もうそこに居る可能性は殆どないと思います。だって彼女は明らかに犯罪的な行為をしていて警察に知らされたらすぐ捕まりますもの。子供だってわかりますよ。そんなこと」
そこまで言っても男性は彼女を信じているようだった。
「もし彼女と連絡が取れるようだったら、『お金は返さなくてもいい』と言うつもりです。だからすぐに私の前に姿を見せてくれ、と伝えてくれませんか……」
「どうやって伝えるんですか!? 伝える方法が有ると言うなら、私の方が教えて貰いたいですよ」
「すいません。取り乱しました。実は私はその後、その住所のマンションに行ってみました」
「そう……。どうでしたか?」
「玄関がオートロックで鍵がないとマンションの中へは入れません。誰か出入りする時にスキを見て入ろうかとも思いましたが、不審者と間違えられるのも怖かったのでそこまで出来ませんでした」
――あなたが不審者よ! 間違えられるも何も……。
「郵便ボックスには郵便物がいくつか入っているのが見えましたが、宛名の名前が見えませんでした。これもダイヤル式で開けることはできません」
華子はこの仕事は駄目だと思った。そして急ぎ結論に持ち込もうと言葉を重ねるように言った。
「あのですね。顔も年齢も本当の名前も本当の住所も職業もわからない。生い立ちもわからなければ、親戚や友人関係も全くわからない。そういう状況の中で彼女を捜せって幽霊を捜すのと同じですよね。いえ、相手が逃げるならもっと難しいかも知れませんよ」
男性は鞄の中身をごそごそと探ってから、デジカメを出してきた。
「ホテルで撮った写真があります。最初は顔出しを嫌がっていましたが、三回目くらいからは私を信用してくれて撮らせてくれる様になりました」
――女々しい奴だなあ……。そんなこと面と向かって言えないけどね。
華子はデジカメのモニター画面を見た。旧い携帯の写真などと違ってかなり明瞭に写っている。
華子はその顔写真を見て仰天した。
「うっ! あれぇ? ええっ! この人」
男性は華子の驚く様な表情を見てすぐに反応した。
「あの! ひょっとして彼女の事ご存知なのですか!? お知り合いか何か……」
「あっ、いえ、知り合いではないのですが……。知ってると言えば知ってるというかぁ……。いえ、人違いです。……たぶん」
男性はたちまち色めき立った。
「あれえっ! 今、あなた『たぶん』って言われましたよね」
「言ってない、言ってないです。……たぶん」
「やっぱり知ってるんだ!」
「いえ、ホントに知らないです。見た事も会った事もないです。……たぶん」
「ねえ! お願いです。彼女に会わせて下さい。手掛かりだけでもいい。教えて下さい!」
男性は必死になって後部から華子の座席の背もたれを揺すった。
◆◇◆
デジカメのモニターに写っていた顔写真。それは華子が育った児童養護施設『胡蝶蘭の家』でかつて掃除をしていた少女、よしこさんにそっくりだった。華子は、施設を出た後も、彼女が泣きながら頑張っている姿を思い浮かべつつ、世の中に只一人の身寄りもない自分を勇気付けてきた。彼女と会っていたのはごく短い期間であり殆ど会話をした事もないが、華子はそんな彼女の事をいつでも胸にしまっていたので、その顔を忘れる筈はなかった。
日本人から見れば所謂ハーフの人は皆が似通った顔に見えることもあるが、華子の場合、両親どちらかがよしこさんと同じ民族の『血』が流れていることの様だったので、他人と間違えることはなかった。ただ、華子が施設を出た当時からは、既に十年以上もの歳月が流れている。モニターに写っていた顔は確かに当時のよしこさんよりは結構年上の感じがした。このため華子は、写真の彼女がよしこさん本人であると自信を持って言うことは出来ないが、本人でないとすれば少なくとも姉妹と言い切れるほどの確信は有った。