<三>「よしこさん」
<三>「よし子さん」
話はやや過去に戻り、華子が未だ施設に居た高校在学時代の時のこと。華子は既に高校三年生。受験も間近な時期だった。
当時、施設内の掃除は入所している子供達が、高校生・中学生一人ずつと小学生二名でチームを作り順番で分担して行っていた。しかし、所詮子供のすることなのでやたら時間ばかり掛かって十分ではない。また、所長は、学生の本分は勉強だと考えていたので、子供達の掃除は毎日十分程度で打ち切らせ、外部の業者から作業者を派遣してもらっていた。
その日も朝早くに大きな掃除機を持った掃除のおばさんが来る筈だった。ところがその日来たのは、華子と殆ど年齢が変わらない、いえ、見様見方によっては年下にさえ見えるような少女だった。彼女も東南アジア出身のような、少し華子に似たようなインド系の血筋の入った様な顔立ちだったが、すこぶる背が低く痩せているので掃除婦の黄土色の制服はダブダブで、それがさらに彼女が『少女』であることを強調していた。
「すいません。すいません」
彼女は常に情けないようなか細い声で皆に謝りながら掃除機をかけている。その様子は掃除機に振り回されていると言った方が良いようないかにも手際の悪いものだった。いっこうに捗らない作業。そのうち朝食の時間になった。朝食の時間中に掃除機をかける訳にはいかない。いつもはとっくに済んでいる時刻だ。彼女は泣きそうになっていた。
華子はそんな彼女を見て思った。
――なんであんな小さな子が掃除をしているのだろう。まさか中学生じゃないよね。学校行かなきゃ行けないし。どういうことだろう。彼女は働いているが、両親はやはり自分たちと同じく居ないのではないだろうか……。
そこへいきなり太ったいつもの掃除のおばさんが部屋へ入ってきた。
「あんた! 何やってるの? 早くしないと食事遅くなってみんな学校に遅れちゃうよ!」
おばさんは彼女の持つ掃除機のホースをいきなり取り上げて素早く掃除機を動かしだした。
少女の表情は途端に崩れ、遂に両の目から大粒の涙が溢れ出した。それを見たおばさんは一発ゲンコツで少女の頭を強く叩いた。
「あんた。いい加減にしなさいよ! 泣けば済むってもんじゃないよ。明日は朝五時に来なさい!」
少女は肩をすくめて目を硬く閉じ、必死で涙を堪えている。それでもおばさんの叱咤は容赦なく浴びせられた。
「何やってるんだよ。やる気ないんだったら、早く帰りなよ。まさか、お給料貰えるなんて思っちゃいないだろうね。このウスノロが!」
少女のか細い声が華子の心に直接響いてきた。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
普通なら自分の部屋一つ満足に掃除出来ないかも知れないような『子供』に対して酷すぎる、と華子は思った。そしておばさんの横顔を激しく睨みつけた。するとおばさんは雰囲気を感じてか華子の方へ顔を向けたので、華子は慌てて唇をタコのように尖らせあさっての方向を見て誤魔化した。
その後も毎日その少女は掃除に訪れた。しかし、何度やっても要領を得ない。いつも彼女は「ごめんなさい。ごめんなさい」と言い、部屋を掃除していた。例のおばさんが来ると条件反射の様に半ベソをかきながら俯き加減に掃除を続けていた。
華子が受験に合格し、高校を卒業、最後に住み慣れた『胡蝶蘭の家』を出るその日の朝も、少女は半ベそをかきながら「すいません。ごめんなさい」を繰り返していた。
その時華子は、大学生活と一人暮らしというこれまでの彼女の人生で最も大きな節目に立っていた。成人するまでの二年弱の間、彼女には特別に、最低限の生活が維持できる程度の仕送りがされることになっていた。それでも学業とアルバイトを両立させ社会人の仲間入りをしなければならない。身内が一人も居ない華子にとって、もはや助けてくれる人はなど居ない。華子は施設を出る前に、掃除をしている少女を振り返り、気を引き締めた。
――甘えた気持ちはもう通用しない。そうだ。あの子が私に示してくれた厳しさを絶対に忘れまい。
華子は掃除のおばさんに彼女の名前を尋ねた。その子は『よしこさん』とだけ教えてくれた。漢字はわからない。しかし彼女はその時以後、気持ちが折れそうになった時、お守りの様に心に『よしこさん』と呼ぶことにした。