<一>小さな事務所
<一>小さな事務所
華子は埼玉県のM市の市街地中心部から外れてぽつんと建てられた五階建てのテナントビルの二階に小さなオフィスを借りて法律事務所の看板を出していた。もちろん国の許可を得ての起業であるが、開業してまもなくの時期から事務所内には殆ど彼女の姿は無く、事務所のワイヤー格子入りの硝子扉には鍵がかかったままであることが多かった。その扉にはいつも貼紙がしてある。
『ご用の方は下記へ連絡願います。ひとまずのご相談は無料ですので。090―××××―××××』
華子の本業は「弁護士」であっても、生活のための収入源は、つい一週間前までは社用メールの英語翻訳だった。しかしいつも頼んでくれていたお得意先の会社二社が先週続けて連鎖倒産し、彼女は収入源を完全に失った。
この躓きが彼女に新しい生活の糧を与えてくれたのかもしれない。偶然にも倒産先の会社からコンサルティングの仕事をもらっていたというビル五階の『探偵事務所』が、同じ貸し倒れ債権者としてのリストに載っている華子のことを知り、事務所代表者が彼女にコンタクトを取ってきたのである。華子は代表者の代理という男から、エレベータ内で唐突に名刺を渡された。
『有栖川乱歩探偵事務所……上級相談員 秋葉与八』
――有栖川乱歩? 秋葉与八? なんだか胡散臭い……。
「始めまして。秋葉といいます。唐突ですが、もし新たな職を探されているようでしたら、一度ウチの社長に逢って頂けませんか?」
「探偵事務所って。ゼンゼン未経験なんですけど……」
「ウチは探偵事務所ですが、人捜しや浮気、素行調査の他にも、法律相談や争い事の仲裁、借金の棒引きや自己破産のお手伝い、その逆の貸し金の取り立てまで、何でも幅広く相談を受け付けています。警察から頼まれて犯人捜しをすることもあるんですよ」
「その事務所が何故。私に……?」
「ところがウチには占い師は居ても法律のわかる人間が居ないんですよ」
華子は首を傾げた。
――法律相談してるって言わなかったっけ。それって完全インチキじゃん。
「条件や報酬は事務所でお会いした時にでもご相談ということで」
華子はこのビルで法律事務所を開業して以来丸三年にもなるが、探偵事務所の存在すら気付いていなかった。もしかしてこの事務所は、表立って広告宣伝をするようなまっとうな事務所ではない『怪しい』会社なのかも知れない。しかし今の彼女にはそんなことを考える余裕さえなかった。