前編
なんとなく、描いたことなかった幼馴染みモノを描きたくなりました。連載作そっちのけでごめんなさい。
なんで、って訊かれても、私には明確に答えられる術がない。あえて言うならば、まあ、習慣ではなかろうか、と思う。理由は彼に訊いてくれ。そう何度答えても納得してはくれないから、私はそう言ったのだけれど。何故か周りの人間は、肩を落としたり、あーあ、と呟いたりするものだから、なんだか私が悪者みたいだ。
だって。昔からの習慣ではないのだとしたら、他にどんな意味があるっていうの?
「しーさん、おはようございます」
「おはよう、深雪ちゃん」
「馬鹿はまだ寝てる?」
「ええ。毎朝悪いわねえ」
にこにこと微笑むしーさんこと、志信さんは、たったいま私が馬鹿、と形容した人間を産んだ張本人である。まわりくどい言い方をしてしまって失礼。母親です。
私と『馬鹿』は、所謂ひとつの幼馴染みというやつで、同じマンションに住まうお隣さんだ。なんと偶然にも同時期に入居した二組の夫婦が、同じく同時期に妊娠が発覚したものだから、あっさりと意気投合してしまったらしい。なにもかもどこかで聞いたようなお話だけれど、本当に典型的な幼馴染みってやつなのだよね。更にこれも典型的なのだけれど、母親同士がもし生まれてくる子が男女だったら結婚させよう、なんてやり取りもしちゃっていて、昔はそれに軽々しくいいよー、と答えていたらしくて、今でもその時の思い出を語られちゃう。まったく、年頃のこっちとしてはやり辛いったらないよ。
そう。私も、毎朝寝坊する『馬鹿』も、すっかり大きくなって、今では立派な高校生。お互いの家をしょっちゅう行き来するし、こうして朝に起こしに来るくらい気安い間柄ではあるけれど、浮いた話のひとつやふたつあったっておかしくないお年頃。正直、半ば迷惑だ、なんて思い始めている。……向こうがどう思っているかはわからないけれどね。
ため息を吐いて、私はノックもせずに扉を開けた。馬鹿の部屋に入る為にノックした記憶って、多分ほとんどない。
「相変わらず気持ち良さそうに寝てるねえ」
言いながら、まずは毎朝の日課、カーテンを引く。差し込む朝日の眩しさに一瞬、目がくらむけれど、そんな朝の爽やかさにだって馬鹿は起きる気配がない。しーさんが相当苦労しているわけなのだから、まあ当然。でなければ私にまで役割はまわってこないのだから。
「光!朝だよっ!」
結城光。これが馬鹿の正式名称。ちなみに私は小野寺深雪と申します。さて、自己紹介も済んだところで、朝の重労働を終えてしまいましょうかね。
とりあえず、布団に潜って丸まる男を引きずり出すべく、私は毛布に手をかける。するとそうはさせないとばかりにぎゅうぎゅうと懐に引き寄せてくるので、私は本格的に光が繭になってしまう前に、一気に掛け布団を引っぺがした。
「遅刻するよ!朝だって言ってるでしょうが!」
「んー……」
寒さで身動ぎ、ますます丸くなる光にため息を吐く。そもそも、寒いのが嫌いな彼は毎朝起床の一時間前にタイマーをセットして暖房を入れているのだから、部屋は暖かく保たれているのだ。で、その暖房を切るのも私の役目なんだけれどね。だって必要ないもん、若いんだし。容赦なく電源を落として、がらり、と窓を全開にする。ここまでくれば、さすがに寒さから目を開ける。
「みぃ!寒いよ!」
「こうでもしないと起きないじゃない。朝なんだってば」
「ううー……寒い……」
「だから起きなさいって」
呆れ混じりの声で言ってやれば、寝転がった状態だった光がのろのろと身体を起き上がらせる。まったく、ここまでくるまで長いこと。それに、これで素直に着替えないのがまた厄介なんだよね。
「みぃ……寒い……」
「そうね、窓が開いてるからね。ほら、ちゃっちゃと脱ぎなさい」
「むう……」
まだ半分ほどしか開いていない瞼のまま、光がのろのろとボタンに手をかけるのだけど、それがもう遅くて遅くて。このままだと私も遅刻するってくらい。やっぱり今日もこうなるのか。
ため息を吐いてもう必要ない寒気をこれ以上呼び込まないため、窓を閉める。私だって寒くないわけではない。
振り返って、光を見れば座ったまま寝てる。これも毎朝のこととはいえ、頭痛がしてくる。まったく、こいつ、一人暮らし始めたらどうするつもりなんだろう。
机に備え付けのキャスターが付いている椅子をベッド脇まで持ってきて、光の正面に座る。向き合った状態で、私は幼馴染みのパジャマに手をかけた。はい、お察しの通り、毎朝こうして着替えを手伝っております。手伝うというか、ほぼ私がやってる、のかな?
ええ、と思われようが、今更。小さいときからずっと一緒の時を過ごしてきて、お互いの裸だって見慣れているわけで、異性として意識したりなんてことはまったくない。いや、さすがに今はお風呂一緒に入ったりはしないけどね。私の裸はさすがにこいつに見せられないし。私も、一糸纏わぬ姿はさすがにもう長いこと見ていないけれど、パンツ一丁の姿なんて、赤面する対象にはならない。
「ひー、ほら、ボタン全部外したから、袖抜いて」
「ふぁい……」
「そろそろ起きてよー」
「ふぁい……」
同じ返事しか繰り返さない光に再度ため息を吐きながら、私は上半身を剥いて、今度は制服のシャツを彼の身体に着せてやる。次は下だ。これも特に何を思うでもなくズボンを脱がせて、履かせる。他人からしたらあまり普通の感覚ではないのだろうけど、情けない姿もさんざん見せられて、本当に今更なんだよね。
さて、この辺までしてようやく光のぼんやりとした頭も起動してくる。
「深雪おはよう……」
「はい、おはよう」
「毎朝ありがとう……」
「どういたしまして」
「寒い……」
「そうね、リビングに行って朝食にしましょう」
「うん……」
ゆっくりと喋る光に、私ははきはきと返事をする。その間にゆっくりとセーターと上着を羽織る光を見つつ、私はマフラー、手袋、コート、通学鞄を用意した。これが毎朝の流れ。
で、この状況も毎朝の流れ。
寒いのかなんなのか、私の腰に後ろから両手をまわしてウエストをがっしりと掴むと、そのまま私の背中側全体にぴったりと光が自分の身体をくっつけてくる。嫌ではないけれど、非常に歩きにくい。
絡まって転ばないようにゆっくりとした歩調で歩いて、リビングに顔を出せばしーさんがにこにこと上機嫌で出迎えてくれる。そして同じセリフを今日も言われるのだろう。
「ふたりとも、朝からラブラブね」
ほらね。
別にらぶらぶでもなんでもないのだけれど、しーさんの目からすればそう見えるらしい。まあ、所構わずべたべたとくっついてくるのは光の癖のようなもので、それを甘受してしまっている私にも問題はあるのかもしれない。
食卓について、しーさんが作ったごはんを食べるのも毎朝のこと。悪いから家で食べてくるって言ったんだけれど、毎朝愚息を起こしてくれるお礼がわりだと言われたらあまり強く拒否もできない。なにより、光がひとりで食べるのは嫌だとごねるから、結局はこういう形に落ち着いた。
しーさんは、正直我が母よりも料理上手で、パンに塗るジャムも手作りだからかとても美味しい。今日も素敵なたらことじゃがいもが和えられたサラダと、ふわふわな食感の具沢山なスクランブルエッグが私を待っていた。トマトとキャベツの煮込んだ柔らかい香りが鼻孔をくすぐる。今日のスープはトマトか。あ、パプリカも入ってる、ますます美味しそう。
「深雪、ジャム塗って」
「へえへえ。オレンジと苺とブルーベリーどれ」
「苺」
バターを塗って、光のパンに苺ジャムを塗る。私はマーマレードを取り出して、自分のパンに塗った。いただきます、と手を合わせてから、しーさんが注いでくれたコーヒーを一口飲んで、パンを齧った。ああ、やっぱり美味しい。
「光、あんまり甘えてばっかりいると嫌われるわよ」
「そんなことない」
にやにやと息子にいやな笑いを向ける母に、光はむ、と眉根を寄せて答える。というか即答するな。それを決めるのは私だ。
「俺は、甘えるとこは甘えるけど、甘やかすところはとことん甘やかすもん」
ね、と首を傾げてこちらを見てくるので、私もなんとなくつられて首を傾げる。しかし、甘やかす。はて。私は光に甘やかされるようなことがあったかしらね。
ああ、でも。帰りが遅くなると迎えに来てくれたりだとか、買い物が重いものばかりになるとついてきてくれたりだとか、頼むとけっこうやってくれるんだよね。うちは両親が共働きで、母親はそんなに忙しいってわけではないんだけど、晩ごはんを用意したりすることがけっこうあって、その流れから冷蔵庫の中身を把握している私が食材の買い物に行く事は多い。そういうときは、光が一緒に行ってくれるんだけど。そういう意味では、確かに甘やかしてくれているのかもしれない。
私はしばらく考えて、そうね、と答えておいた。
そんな私の言葉のなにがひっかかるのか、光は物言いたげな瞳をこちらへと向けてくる。私も同じく視線で言いたい事があるのなら言え、と示せば、光がため息を吐いた。
光のくせにため息を吐くなんて生意気だ!
「みぃ、なんのことだかわかってる?」
「ん?荷物持ちしてくれたりすることじゃないの?いつもありがとう」
「…………どういたしまして」
曖昧に笑う光は、それからもくもくとごはんを食べ始めるし、しーさんは肩を震わせて笑っているしで、わけがわからなかった。ごはんは美味しかったけれども。ごちそうさまでした。
「なんで!?」
「いや、なんでって言われても」
鼻息荒く質問されましても、私はその質問に答えられない。
登校すると、毎日同じような質問されるんだよなあ。この関係って、まわりからするとそんなに変なのだろうか。女生徒たちはみんな興奮気味だし、うしろのほうでこちらをちらちらと見てくる男子生徒まで興味津々みたいだし。なんだというのか。
ま、光もあれでいて見てくれはそう悪くないから、そこそこ声をかけられるんだけどね。でも、ものすごく人気がある、とかではない、と、思う。うん。
そもそもこの学校には、二年先輩に伝説のカップルがいるわけで、私達一年はあまり間近でお見かけすることはないけれど、そこらの芸能人よりもかっこいいと評判なのだ。同じく三年生である彼女さんも、やっぱり有名人で、私も密かに素敵だなあ、と思う。
おっと、話が盛大に逸れた。
「毎日手繋いで登校してきて!教室でもべたべたしてるのに!彼氏じゃないの!?」
その言葉に、私はもちろん、と頷く。それにまたなんで!と言われるから、しばらく考えて、習慣だから、と答えるほかなかった。
なんでみんな、そんな複雑そうな顔をするのよ、わけがわからない。
そもそも、ああくっつきたがる理由なんて私が知ったこっちゃないのよね。だってほんっとに何を考えてるのかわかんないんだもん。単に人肌恋しいのかな、とも思うけど。誰にでも人懐こい感じだし。ぼんやりと考えていたら、ぼそり、と誰かがなにか呟く声が聞こえてきたけれど、なんて言ったかはわからなかった。
クラスは別だから、朝に騒がれる以外はそんなにうるさくないんだけど、お昼もいっしょにとるとうるさいから、今は別々に食べている。強制しているわけでも特別な約束事でもなかったから、私から申し出たけど、そういえば言った時大変だったなあ。拗ねちゃって、それから三日くらい口きかなかったし。まあ、朝、起こしに行かなくなったらあっさり向こうから謝ってきたんだけどね。優先順位はそこなのか。
私達の日常は、とりあえずこんな感じだ。
「深雪、帰ろ」
「はいはい、ちょっと待って」
「まぁだ?」
帰り支度をしている私の背中にまたもべったりと張り付いてくる。肩に顎を乗せるな、重い。動きにくい。私がくっつくな、と指摘しても、やだ、と言って結局変わらないし。みずから私の下校時刻を遅らせているのに急かすっていうのがもう矛盾している。
「今日、りっちゃん遅いの?」
りっちゃん、というのは沙織の愛称で、私の母親の名前。お互いに、それぞれの母をおばさん、と呼ぶと怒るからそう呼んでいるんだけど、父同士は特になんにも言わない。けれどおばさんを名前で呼んでいるくせに、おじさんはおじさんっていうのもなんとなく奇妙だから、私は光の父である徹さんを、おるさん、と呼んでいて、私の父、和哉を光はかずさん、と呼んでいる。なんで愛称で呼んでるかっていうと、昔はそのほうが覚えやすいし呼びやすかったからっていう単純な理由。今更、改まって志信さん、とか、徹さん、とか、なんとなく呼び辛いし、何も言われないからそのままにしている。
私は、先ほどの光の質問に頷いた。
「ん、まあね。お父さんはいつもどおりだから、私が作る」
「じゃあ俺もそっちいく」
「いいけど、ちゃんとしーさんに言っておくのよ」
「うん」
光は、毎日じゃなくとも時々こちらで晩ごはんを食べていく。私が作る時は積極的にそうしている気がする。正直、しーさんのごはんのが美味しいんだけどね。しーさんは、光がこっちでごはんを食べるって言うと、少し嬉しそうに笑う。仲の良い夫婦だから、みずいらずでごはんを食べれるのが嬉しいのかもしれないけれど、なんとなく、それだけじゃないのかな、と思ってしまう。でもそう思うわけで、確信もなければ他の理由も思い付かないから、いつも一瞬だけ考えては忘れてしまっていた。
「今日のごはんは何にするの?」
「んー、なんにしよう……」
「和食がいい」
「そう?じゃあ、メインは魚にして、あと煮物でもつくろっか。あ、豆腐といんげんがあったかな。白和えも作ろうかな」
「おみそ汁の具は?」
「んー、ねぎと卵」
手を繋ぎ、帰り道を歩く。私と光にとっては当たり前のこと。けれど、同級生にとっては不思議でしょうがないこと。
成長するって、面倒なものよね。昔は、何をいわずともまわりが疑問に思うことなんてなかったのに。ふう、と小さく息を吐く。憂鬱ってほどではないけれど、最近は騒音とさえ考えてしまうようになって、本格的に学校でだけでも離れたほうがいいのかな、なんて思う。
ぼんやりとしていると、前から賑やかな声が響いて、私は俯きかけていた顔をあげた。
「ちょっと和泉君、手は良いとしても腕を組むのは嫌だよ!」
「じゃあ、肩。和は俺の腰に腕を回してくれればいいよ」
「もっとやだ!」
「けち」
「それをけちとは言わないと思うんだけど。羞恥心というものは文化的な生活を送る上で必要不可欠であると私は思うよ」
「長々と言ってるけど要はそんな馬鹿な真似できるかってことだよね」
「よくわかってらっしゃる」
「和の意地悪ぅ!」
相変わらずの仲良しな会話に、私は思わず笑みを浮かべてしまう。
和泉先輩と笹森先輩は、この学校でふたりの存在を知らないひとはいないってくらい、伝説的なカップルだ。なんでかといったらそれには色々理由があるけれど、いちばんは、和泉先輩の溺愛ぶりにある。聞こえてくる会話は、こちらが赤面してしまうほど。
でも、そうか。
恋人同士なら、あれは普通のことなんだよね。
幼馴染みだと、普通ではなくなるのはなんでなのかな。
「みぃ」
「ん?」
ぼけっと名物カップルを見ていたから、一瞬反応が遅れてしまった。光の呼びかけに慌てて左を向けば、光が微笑んでいる。
寂しそう、に、見えるのは、気のせい?
「……いつまでこうしていられるかな」
「えっ?」
ぽつり、と呟いた言葉に、目を丸くすると、光が握っていた手の平に力をこめた。
「ずっといっしょだよ、みぃ」
「ひー、どうしたの?」
「ね、ずっといっしょでしょ?」
「う、うん……」
どうしたの、と問いかけても、答えてくれない。私は、逆に質問の答えを迫られたので、思わず頷いてみせた。すると、満足したのか、光は柔らかく微笑む。
「帰ろう」
伸びる影はふたつ重なって、夕焼けの道をゆっくりと滑っていく。
こうやって、当たり前に並んで歩くのも、あと何回あるのか。
ずっといっしょだと言っておいて、私も光も、それが無理なのだという事実に、とっくに気付いている。けれど、そこから目をそらしたかっただけなんだ、きっと。
寂しそうな光の顔が、その日はずっと脳裏に焼きついて離れなかった。
「なあ、小野寺と結城って、幼馴染みなんだよな?」
「そうだよ」
手、止まってる。
言って、私が指をさすと、肩をすくめて作業を再開する。目の前にいる坂本と私は、学級委員を務めている。中学時代よりは仕事が少ないような気もするけれど、何かの行事ごとに呼び出されては雑用をし、会議などを取り纏めなければいけないわけで、やはり他の係と比べれば忙しい。
今日のこれは、学校側が用意したアンケートの集計だ。内容は校舎内のここを改善するべきか、とか、あそこは取り壊すべきか、とか、まあ、おおまかな意見を募るってやつで、委員としてはやる気のないことを言っちゃうけれど、正直、形骸化しているだけというか、なんとなくでやっている感が否めない。だって、真面目に意見書いているひとなんてほぼゼロだし、はい、か、いいえ、の質問項目になんとなく答えているだけって感じだ。私としても、特に情熱的になるような内容じゃないと思うから、生徒のやる気のない態度を特に責める気にもなれない。
でも、集計取るっていうのが地味に大変で、特にこれ重要視してないんだったらやらないでほしいんだよなあ。こちとらそんなに暇じゃないっていうのよね。
はあ、とため息を吐いて、女子の分のアンケート集計という作業を続ける。
坂本君は、手を動かしながら、先ほどの会話が宙ぶらりんになっているのが嫌なのか、再度質問を投げかけてきた。
「で、ふたりって付き合ってないんだよな?」
「んー?そうだけど?」
だったらなに、と訊いたところで、教室内に沈黙が降りる。
うん?なんだろう、この妙な雰囲気は。私が反応のない坂本を訝り顔を上げると、坂本はこちらをじっと睨んでいた。え、本当になに?
私がおなじく彼をじっとみつめていると、坂本が視線をさまよわせて、やがて言い辛そうにゆっくりと口を開いた。
「……あの、さ」
「うん?」
「俺、ずっと小野寺のこといいなって思ってて」
「……ん?」
「や、だから。付き合わない?俺ら」
つきあわない?
って。どういう、意味だ。
「好きなんだよ、小野寺のこと。特にそういう奴がいないんだったらさ、お試しでもいいから付き合ってみない?」
「…………ええええええっ!?」
坂本よ、なぜ作業中に言った。
気まずくて仕方ないじゃないかよ!
その日は、一応すべての作業を終えて、私は坂本にそういうのを今は考えていないのだ、と言ったんだけど、断る特別な理由があるのか、とか、俺の事が嫌いなのか、とか、そんな風に迫られれば、そんなものはございません、そんなことはありません、と馬鹿正直に答えることしかできなかった。
いや、実際問題、坂本はいいやつだ。
学級委員なんてものを務めているのだから、すごく面倒見が良くて、相棒としてとても頼りになる。仕事は早いし、力仕事だって率先して担ってくれる。坂本も、私はとても手際が良いし頼りになるって言ってくれるし、お互い信頼関係は厚いと思う。
思う、んだけど……。
ため息を吐いて、私はちらり、とソファに座ってくつろぐ光を見る。
只今晩ごはんを作成中なのですが、例によって彼は言わない限り手伝ってはくれません。まあ、言えばやってくれるからそこはありがたいんだけどね。
坂本だったら、多分だけど、率先してあれこれやってくれるんだろうなあ。って、なに比べてるんだろうっていう話なんですけどね。
彼はすっとした一重に、色をいじったことが一度もないであろう黒髪をさらさらとなびかせて、学級委員の仕事を颯爽とやってのける。かたや。
光は、ひとなつこいくりんっと丸い二重の瞳に、高校に入ってすぐ染めたきらきらとした栗色の髪を、年配の方にはだらしないと言われそうな長さにまで伸ばしてる。まあ、今時はあんなの普通なんだけど。女の子のショートヘアくらいの長さで、後ろ髪がちょっと肩らへんまでいってるかなって程度だ。でも前髪はもうちょっと短くしたらいいのに。目にかかっちゃうしごはん食べる時なんてちょんまげ頭にしているときもあるくらいなんだから、気になって仕方ない。勝手に切ったら怒るかしら。明日から、毎朝ピンで留めてあげようかなあ。
「深雪」
「! へっ」
つらつらとそんな事を考えていたら、まさしく目の前にうっとおしそうな前髪が見えて、驚いた。下から覗き込むように、光が私の正面に顔を割り込ませている。そんなに身体ひねったら、痛くないのかしら。そもそも、テレビ見てたんじゃないの?疑問に思って、私は光に声をかえた。
「ひー、どうしたの?」
「どうしたのって」
呆れたような顔。ちょっと、そんな表情をしていいのは私だけよ!
さすがに口には出さずに心の中で呟きつつ、身体を私の横に戻した光は、つ、と右手のひとさし指でとある一点を指し示す。
「斬新な切り方だね」
見れば、まな板の上で皮を剥かれた後のじゃがいもが木っ端微塵になっていた。
なんて無残な。誰がやったの。
いや、わかってるわよ、私よね。
これでいいのよ、と私が断言すれば、光はそれ以上何も言わない。
その日の食卓にのぼるはずだったジャーマンポテトは、予定を変更しポテトサラダになった。
「はー」
浴槽に浸かって、またため息が出る。どうしたらいいのかなあ。
実は、坂本にとにかく一回デートしよう、と言われて、断りきれなかったのだ。正直、わたしもそこまで嫌じゃなかったっていうのが押しきられたひとつの理由。
最近ずっと思っていたことだったけれど……やっぱり、光と少し距離を置くべきなのかもしれない。
そもそも、と考えてみる。
ひょっとしたら、光をあそこまでだらしなくしてしまったのは、他の誰でもない、私なのかもしれない。自分でも過保護なくらい世話を焼いて、毎朝着替えまで手伝って。甘えるようにくっついてくるのだって、毅然とした態度で断るべきだったんだ。
どっちがどっちに依存しているかなんてわかりゃしない。私も、嫌いじゃなかったんだもの、光の世話が。
留守がちな家にひとりでいるのは寂しかった。それを埋めてくれたのは、光の存在だ。彼がなにかしら問題を起こすたびそれに奔走して、そういう感情を忘れるようになった。でも、大きくなった今は、それも必要ない。光が、私に世話される理由もないのだ。私がいないと何も出来ないのね、なんて、そんなのきっと思い上がり。光は優しいから、馬鹿なふりをしているだけなのかもしれないとさえ思った。
いや、さすがにそこまではないか。多分、もうちょっとはしっかりしてるんだと思うけど。
でも。
潮時なのかもしれない。
のぼせそうになった私は、もう出ようと水しぶきをあげながら立ち上がった。